お蔵だし写真(5)双葉編

 震災の年の2011年1月2日、僕は双葉町に入り街並みの写真を撮った。双葉高校の生徒だった僕にとって双葉町は青春そのものと呼んでもいいくらい思い出深い町だ。卒業年は1978年だから30年以上の歳月が流れていたのだが、街の景観はほとんど変わっていないことに驚いた。この2か月と9日後に震災が起こり、多くの建物が崩れ、傷つき、さらに福島第一原発の事故で立入禁止区域になるなんて想像もしなかった。(双葉町の中心部は第一原発から5キロ圏内)。そして事故から9年後に立入禁止が解除され、日中に限って立ち入りが自由になったわけだ。

 下の写真は双葉町の中心部の正月風景。なんでもない田舎町の写真だが、「町が生きている」それだけでも、かつてこの町を知る者にとっては心を動かされる。

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 2020年3月、同じ場所を別方向から撮った写真と見比べる。「リンナイガス器具」の看板を目印にしてほしい。下写真の崩れた家が、上写真のクリーニング店。その真向かいの家が数軒と隣の車庫のような建物が撤去されている。被災した町を歩く寂しさは、震災の爪痕よりも町そのものが消滅していくところにある。

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 家並みが消え、本来見えるはずがなかった裏側が見通せてしまう怖さ。既視感と違和感が入り交じる。

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 双葉駅前。これは2011年の街並みではなく、2016年の双葉高校内覧会に参加したおりに撮影したもの。震災五年目。街並みは傷つきながらも残されていた。わかりにくいと思うが、下の写真は2020年3月末に撮影した同じ場所。大幸食堂とその左隣の店が消えた。僕はこの食堂で生まれて初めてカツカレーを食べた。なんて贅沢な食い物なんだと驚いた記憶がある。

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 たい焼きの看板がある渡辺商店は双葉高校生が電車の時間待ちにたむろしていた店。その向かいにあるキッチンたかさき(下写真左)は少々大人向けの店で、ここで喫煙を見つかり停学処分をくらった生徒も少なくない。この5年後には写真右の姿になり、消滅した。  

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 薬局わかば。左が2016年で右が2020年。左隣の店が消えて駅前まで見通せるようになった。

 ストナのゾウさんは人形は2016年の時点ではいなかった。人の出入りが自由になって、店の人が挨拶の意味で置いたのかもしれない。少しでも町が明るくなるようにと。しかし、写真をよく見比べると、左写真では閉じられていたシャッターが、右写真ではこじ開けられ、店内が荒らされた跡が店先にまで溢れている。金銭目当てよりも薬目当てか? こういう光景を目の当たりにすると恐ろしくなる。

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 双葉駅。頑張っていたんだなあ、双高の後輩達。駅はいま、跨線橋に改札口があるタイプに改築されたので、右のような橋はもう存在せず、なんとエレベーター付きの橋になった。何億円かけたか知らないが、ホームは今、一本しか使っていない。しかも、わざわざ(旧)2番線を。エレベーターを無駄にしたくないからか?

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 洋月堂のたい焼き。僕も部活帰りに食べたっけ。30年後(2011年)にも健在だったのに、「賀正」が悲しい。電話番号は存在しないのでいたずらしないように。

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 震災前の双葉海岸(正確には郡山海岸)。部活でよくここまで走った。突堤の先までゆくと、岸壁の向こうに福島第一原発の建物が見えてくる。たぶん5,6号機だろう。ここの原発が(5,6号機は無事だったにしても)何十万人の人生を狂わせるなんて、撮影した時は想像もしなかった。もちろん。