双葉高校の3.11(証言)

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教員による証言

 3月11日、双葉高校では入試の判定会議があり、午前中は生徒を登校させ授業を行っていた。「なんで授業があるんだよ」生徒たちはぶつくさ言ったが、海岸近くに家のある者も学校に出ていたおかげで、津波の犠牲にならずにすんだともいえる。

 Sは弓道部の顧問だった。双葉高校に弓道場はなく、弓道場のある大熊町体育館を借りて練習をしていた。授業が終わると、Sは弓道部員を自動車で大熊町体育館に送り、双葉高校に戻って入試の判定会議に出席した。会議が終わったのは2時30分だった。

  そして2時45分。Sは応接室にいた。とてつもない横揺れ。校舎は激しく揺さぶられ、Sの目の前でノートパソコンが吹っ飛び床に落下した。校庭の一部で地割れが起こり、黒い水が噴き出していた。双葉高校は田んぼを埋め立てて作られている。地面の下に眠っていた田んぼの土が液状化現象であふれ出てきたのだ。校舎や体育館から生徒たちが校庭に避難してきた。女子の中には泣き出している子もいた。血の気を失って顔面蒼白になり、ガタガタと震えている子もいた。

  空には黒雲が湧き起こっていた。巨大地震が天候にどう影響するのかは知らないが、黒雲が空を覆い、オレンジ色をした日の光と激しく入り乱れ、交錯していた。異様な光景にSは目を奪われた。神秘的な空の色に、尋常でないことが起きているのだと戦慄した。霰(あられ)が吹雪き始め、ぱっと上がった。異常な寒さが襲ってきた。

   双葉クリニックに生徒をあずけていたことを思い出し迎えに走った。途中、街の惨状を目の当たりにして愕然とした。まるで空襲の後だった。古い家は軒並み潰れていた。崩れた家の前で、赤ちゃんを抱いた女の人やおじいちゃんが、腰が抜けたようにうずくまっていた。Sは「校庭に避難してください」と声をかけながら先を急いだ。

 双葉高校に戻り、津波が襲ってくると聞いて生徒たちを天王山に避難させた。子どもを心配して駆けつけた父兄にも急いで天王山に上るよう指示した。天王山は、東京電力の社宅が建ち並ぶ、双葉高校のすぐそばにある小高い丘だ。ここの石段や急坂を運動部がよくトレーニングに利用している。

   S自身は確認していないが、天王山から津波が見えたという。津波は黒い色をしていた。黒い波だ。3キロ先の海岸から、真っ黒な濁流が水田地帯を呑み込みながら襲ってきたのだった。津波の話を聞いて、目の前が暗くなった。もうダメだと観念した。地震の被害がどれほどのものなのか、想像するのも怖かった。ほんの数時間前には当たり前にあった日常が、取り返しようもなく損なわれてしまったのだ。

 大熊町体育館にいる弓道部員も気がかりだったが、駆けつけてみると部員たちは自主的に帰宅した後で体育館には残っていなかった。

 天王山から双葉南小学校へと生徒たちを移動させ、それから、双葉中学校に物資が届いていると聞いてさらに移動した。深夜になるまで、父兄が子どもを引き取りに来た。それでも四、五十人は残ったが、教師が手分けして親元に送り届けた。道は寸断され、いたるところ陥没し、思うように前へ進めない。双葉高校周辺はなぜか電気が生きていたが、大熊・富岡町は真っ暗だった。

   Sの家は富岡町にあった。自宅には両親がいる。ようやく自宅に向かったのは零時を過ぎてからで、日の出前の暗闇の中で車のタイヤが道路の割れ目にはまりパンクしてしまった。ようやく家にたどり着くと、ときわ体育館に避難していると奥さんの字で貼り紙があった。そして、原発事故による避難指示。休む間もなく、一日分の着替えだけを持ち、夜ノ森公園から数珠繋ぎに渋滞した道路を4、5時間かけて走り川内村に避難した。川内村に両親を残し、娘のいるいわき市へ。両親は川内村に二泊させることになった。娘は現在サテライト校になっている磐城高校の百年記念館にいた。娘を保護して川内村に戻り、両親を乗せてひとまず郡山市へ行く。須賀川アリーナ避難所で自動車のガソリンが切れ、そこからタクシーを使い那須市へ行き、東京へ向かうという経路をたどった。その後も、両親を娘のせまい部屋で同居させたり、レオパレスを借りたりと居場所を変え、いわき市の借り上げ住宅にようやく落ち着いたのは4月中旬のことだった。

 その間にも生徒の安否確認を急いだが、携帯電話を持っていない生徒の避難先を突き止めるのは困難を極め、生徒全員と連絡がとれるまでに三週間かかった。不幸中の幸いというか、生徒や生徒の家族に震災の犠牲者がいなかったのは奇跡といってもよかった。

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 双葉高校野球部員の証言 

 地震は、とんでもなく揺れました。揺れたというか、地面が波打っているように見えました。立っていられないくらい。みんなそうです。ネットやゲージにつかまってしゃがんでいました。地鳴りが凄かったです。体育館からガラスの割れる音がして、悲鳴が聞こえてきました。あと、建物が壊れたり崩れたりする「ドーン」という大きな音。Mは、校舎の揺れる様子がプリンみたいだったって言ってました。それから、液状化現象っていうんですか、地面が割れて黒い水が噴き出てきて。サッカー部とソフト部の練習場があるあたりです。

 僕は地面ばかり見ていて知らなかったのですが、空がどんどん曇ってきて、どんより雲が垂れ込めて、雪も少し降ったそうです。後でIに聞いて知りました。雪が降ったことも気づきませんでした。心の余裕がなかったのだと思います。でも、急に寒くなったことは覚えています。

 照明の鉄柱が傾いて、監督に「バックネットのそばに寄るな」と言われました。一時、学校の中に避難したのですが、教室は机や椅子が倒れてぐちゃぐちゃでした。部室は危ないから入るなと監督に言われましたが、防寒着を取りに戻りました。バスケ部が半袖に短パンの格好で寒そうにしていたので防寒着を貸してあげたんです。携帯電話もその時に取ってきました。

 津波が来るというので高台に避難し、それから南小学校へ移りました。津波の様子は見ていません。町の様子も知りませんでした。Mは監督の指示で、三人くらいといっしょに自転車で町内の見回りをして、車椅子の運搬や救護を手伝ったそうです。地震のニュースは南小にいる時にワンセグで見ました。まさか、あれほど大きな地震だったとは想像もしてませんでした。特に、小名浜の被害を見て、胸が締めつけられる思いでした。

 南小では、勝手に行動するな、体育館から出るなと言われて、だいたい部員といっしょにいました。親が迎えに来た人から家に帰りましたが、僕は南小から双葉中学校に移動しました。Mは、双葉高校に避難していた老人たちを双葉中に誘導していました。

 双葉中では、部室から持ってきたスポーツドリンクやスナック菓子を飲んだり食べたりしていました。原発が怪しいという噂はその頃から耳にして、外に出るなという注意も、そのせいだったのかもしれません。でも友だちの中には、夜になってこっそり抜け出して探検に行った奴もいます。町を見るつもりで真っ暗な田んぼの中を歩いたのですが、鉄道の鉄橋が崩れているのを見て、これはダメだと引き返したそうです。

 僕の場合、夜の九時くらいに親が迎えに来ました。ほっとしましたが、残っている部員や友だちに悪いなと思いました。敦は、母親に会えるまで三日かかったといいます。 

 翌朝、家の中を片づけていたら、原発が危ないから避難しろと指示がありました。集合場所に行ったら大型バスがたくさん集まっていたので驚きました。でも、その時は三日もしたら帰れると思っていたんです。みんなそうです。だから、野球道具はグローブしか持ちませんでした。こんなになるとわかっていたら、せめてスパイクぐらいは持っていきたかったです。

 避難一日目は体育館でした。食事はおにぎりと少しのパンです。すごく寒かったので、支援物資の毛布がありがたかったです。二日目に、県外にある親戚の家に行って、しばらくしてから、いわき市の借り上げ住宅に移りました。もう双葉郡には戻れないかもしれないと親に言われた時はショックでした。双葉郡チェルノブイリになるんじゃないか、たくさん人が死ぬんじゃないかと考えて、ものすごく落ち込みました。もう、野球どころじゃないだろうなって。

 しばらくは家で茫然としていました。何もする気が起きなくって。四月になって他の学校が始まると、朝、登校していく他の学校の生徒を窓からぼんやり眺めて、どうして自分がここにいるのか不思議でした。自分と関係なしに世の中が動いて、どんどん取り残されていくみたいで。

 

注・双葉高校の教員と硬式野球部に震災の証言の聞き取りをしたのは2011年の秋からだ。当時、双葉高校は本校舎を閉鎖し県内のサテライト高に分散し授業をしていた。

 僕が聞き取りに通ったのは磐城高校の仮校舎だ。主立った野球部員がそこに集まっていた。さらに、そこで教鞭をとっていた僕の二学年下の後輩と偶然に再会するというサプライズもあった。「教員による証言」は彼からの聞き取りだ。現役時代は応援団長だった。ちなみに、彼が三年生の時に野球部は甲子園出場を果たしている。

 硬式野球部員からの聞き取りは、その年の12月に二回連続で週刊朝日に連載された。原発事故でばらばらになった部員たちが部長の呼びかけで結集し、夏の福島県予選に出場するまでのドラマだが、僕が本当に書きたかったのは、原発のお膝元である双葉町の高校生達が原発に抱く複雑な心境だった。生徒の中には父親が東電の社員という者もいる。親族や友人にまで人間関係を広げれば、おそらく東電や原発とまるで関係のない生徒は一人もいないのではないだろうか。原発事故の当時者でありながら、原発への非難を自分への非難のようにも感じてしまうほどの身内意識を彼らは抱いていた。

 避難生活の不安も困難も当然味わってきただろうが、彼らは悲劇を語らず、あくまで前向きに、明るく元気に、そして普通の高校球児であろうとしていた。悲劇を語ればそれが東電や原発への非難につながり、ひいては身内への(自分自身への)非難につながってしまうからだ。そこに焦点を当てることが、他の誰にもできない、双葉高校卒業生である自分の仕事だと信じ、それはいまも続いている。