お蔵だし写真(7)双葉高後編・その後

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 震災後、僕が双葉高校に入ったのは双葉高内覧会に参加した2016年11月、双葉町に自宅のある高校の先輩に案内された2019年5月、双葉町の立ち入り制限が緩和された2020年の3月の三回。その間に、高校の姿はいい意味でも悪い意味でも変化していった。上の自動車は、震災以来ずっとここで、来訪者を出迎えている。

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 グラウンド。奥に硬式野球部のバックネットがある。2016年の時点では廃棄物の仮置き場にされていて、見ているのが辛かった。今(上写真は2019年、下右写真は2020年)は撤去されて新しい盛り土で覆われている。どこから運んできた土なのか、あるはずのない松の苗木が伸びていた。左写真は校庭の隅に設置された線量計。(2019年撮影)安全基準は毎時0,23マイクロシーベルトなので、高いと言わざるを得ない。

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 下写真左。茶室(があるのだよ)の前に放置されたフレコンバック(2019年)。右は校庭外周、前田川に沿った道。部活でよく走った。懐かしい人には懐かしい道。

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 2016年の内覧会で見た時の部室棟はまだ整然としていた。今ではドアがこじ開けられたり窓ガラスが割られていたり、どの部屋にも荒らされた跡がある。こういう人間がいると思うと胸が痛む。どういう目的か知らないが、犯人が持ち出した盗品はみな間違いなく汚染されているのだよ。

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 気になる松の木の変化。三枚ともアングルは違うが同じ松の木。2016年(写真左)には松葉が赤く変色している。2019年(写真右)には枯れてしまったが、まだ松の木らしい形を保っている。それが2020年になると枝振りが変形し、ねじくれ、からまり、全身で苦悶しているような無残な姿に変貌していた。病気なのだろうが、あまりにも異様だ。正門横の松の木も似たような状態だ。どういう病気なのだろう・・・。

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 2016年の内覧会では正面玄関のみ、特別に立ち入りを許された。報道関係者も多数参加していたが、僕はずいぶんと彼らの邪魔をしたんじゃないかと思う。玄関には女子生徒のコートや柔道着その他が山積みされていた。線量が高く外に持ち出せないという。その後、侵入や盗難があったのか、校舎一階の窓という窓がベニヤ板で塞がれた。

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 同じ日、高校のすぐ近くにある栴檀会館(OB会の施設)にも入れてもらった。震災当日、職員がここに詰めて夜を明かしたという。テーブルの上のお菓子やお茶も、さっきまで人がいたように錯覚してしまうが、震災の日で時間が止まっているのだ。

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 栴檀会館の屋上から無人双葉町を眺めた。左写真に見える家は片側が潰れて傾いている。右写真では、トタンが剥がれかけた屋根が見える。雨漏り防止のシートもそのままだ。

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 懐かしい人には懐かしい、城跡のある山。双葉高生のデートスポットであり、喧嘩の決闘場でもあり、僕は三年生の時に日本酒を飲んだな。(緊急の手術で献血をしたのだが、その方が亡くなり頂いた香典返しに、葬式饅頭と一合瓶が入っていた。放課後の職員室で先生に手渡され、「飲むなよ」と釘を刺されたのだが、禁じられたら飲みたくなるのが人のさが)蛮カラという言葉がまだ死語になってなかった時代だ。双葉高の校風は「質実剛健」だが、「剛健」を僕らは勝手に拡大解釈していた。まあ、いろいろと。

 ちなみに、右の小山と左の小山の間に通学路の坂道がある。大先輩方は右と左に分かれて石合戦(石を投げ合う)をしていたらしい。やんちゃな人たちだ。そんなこともふくめて、母校は僕らの誇りなんだ。震災を忘れて、みんなそれぞれの思い出に浸っていた。

 

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 僕は生徒会長を務めていた。職権乱用でずいぶんデタラメなこともしたが、いまでも僕は誇りに思う。誇りというのは、その後の人生の支えになっているということだ。嘘じゃない。写真下は生徒の昇降口。その上に生徒会室、新聞部室、史学部室などが並んでいた。生徒会室の窓から屋根の上に下りて、登校する後輩たちに声をかけたり。「上から目線」なんて言葉はなかった。バカだったな。みんなバカだった。バカでいい奴らだった。 

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 駐輪場には生徒の自転車が残っている。持ち主の帰りを今も待っているみたいに、どれも不思議と新しい。でもこれらの持ち主もいまは26~28歳なんだな。でも自転車だけは高校時代のままだ。

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 再開は無理としても、この校舎は震災遺構として永遠に残して欲しい。辛い記憶だろうと、記憶を消せば前に進めるわけじゃない。