「地域とメディア」(専修大学特別講義2020年版)

 専修大学ネットワーク情報学部 科目名「地域とメディア」担当教員 杉田このみ(講師)コロナ禍により、リモートで講義を行いました。その講義録を一部抜粋で掲載します。

 まずは自己紹介から

 志賀泉と申します。よろしくお願いします。志賀泉というのは、ペンネームみたいですけど、本名です。実は僕と同性同名のお酒があります。これです。 

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 酒飲みの小説家は腐るほどいますが、お酒と同姓同名の小説家はたぶん、僕くらいのもんです。自慢になりませんけど。

 志賀泉酒蔵という、長野県にある酒蔵です。それだけなら、ただの偶然で終わりますけど、実はけっこう僕と因縁深いお酒なんです。僕は太宰治賞を受賞して小説家になったわけですが、この志賀泉酒蔵と太宰治は深い関係があります。

 戦後のことです。長野県のある地方(今の中野市)には規模の小さな酒蔵がたくさんありました。このままでは大手に押されてみんな潰されてしまうと危機感を抱いた地元の税理士が、小さな酒蔵をひとつの会社にまとめて立ち上げたのが、「志賀泉酒蔵」なんです。その税理士さんはやがて東京に出て、結婚しました。その結婚相手というのが太宰治の娘、園子さんなんです。ね、志賀泉と太宰治はこんなふうに繋がっていたんです。面白くないですか?

 志賀泉という名前にはもうひとつエピソードがあります。僕は福島県南相馬市の小高区というところで生まれました。僕が生まれた時は小高町です。だから土地の人はみんな小高町小高町って言います。僕もそうなので小高町で通します。

 小高町には、もう一人志賀泉がいます。僕より一歳年下で、女性です。僕が太宰治賞を取って地元の新聞の記事になった時はえらいめんどくさかったそうです。小高出身の志賀泉で、年齢もほぼ同じですから、みんな彼女のことだと勘違いしたそうです。「良かったね」と身に覚えのないことで祝福されて、「君が小説を書いてるなんて知らなかった」と言われ続けたわけですから。ほんと迷惑だったと思います。

 原発事故が起きて、小高町警戒区域に入り、住民はみんな避難しました。彼女もお母さんと一緒に避難しました。埼玉県です。埼玉県の避難者交流会で、もう一人の志賀泉に会いました。初めての出会いです。イヤな人だったら困るなと心配してましたが、幸い、「志賀泉」に悪い人はいません。素敵な人でした。これも何かの縁と思い、僕は志賀泉という酒を、彼女に送りました。志賀泉が志賀泉に志賀泉を贈るという離れ業をしたんです。

 こんな芸当ができる人、他にいますか? ある意味、奇跡ですよね。志賀泉酒蔵に、直接、ネットで注文したんですが、向こうも前代未聞のことで相当混乱したみたいで、お酒は送り主の僕のところに届いてしまいました。そこで、志賀泉酒蔵に電話をかけて改めて手配をしたという経緯があります。不思議な話だと思いませんか?  

 自己紹介に変えて、僕の名前に関するエピソードを語らせていただきました。 

 実は先日、みなさんの最終課題を一部ですけど、拝見しました。杉田さん(講師)がどういう講義をしているのか、それにみなさんがどう答えているのか、知った上で今日の講義に望みたいと思ったからです。

 実は、今日の講義は、「言葉」や、「コミュニケーション」を中心に話す予定だったんですが、みなさんのレポートを読んで気が変わりました。僕も杉田さんの学生になったつもりで、杉田さんが出した課題に取り組んでみました。その方が、皆さんと問題意識を共有できて、楽しめるんじゃないかと思ったんです。

 課題のひとつ目は 、

「自分の家にあるいちばん古い物は何か?」です。

 生まれた家と、いま住んでいる家と両方あります。生まれた家から考えてみました。さっきも話しましたが、僕が生まれた家は、南相馬市の小高区、小高町にあります。原発事故を起こした福島第一原発から二十キロ圏内です。震災で家が傾いちゃって、建て直したんですが、建て直す前の家にあった物で、いちばん古い物は何だったか考えました。たぶん、鍋敷きです。実物がないので絵を描きました。これです。f:id:futakokun:20210226101000p:plain

 鍋の下に敷く、ごく普通の鍋敷きです。たしか、サクラの木で出来ていました。昔はいつも、みそ汁の鍋の下に敷いて使っていました。

 僕が大学生の時だったかな、夏休みか何かで帰省してました。家族でご飯を食べていて、ふと、鍋敷きに目がとまったんです。この鍋敷き、俺が小さい時からあるよな」って、どんなに記憶を遡ってもこいつはあったんです。ところどころ焦げて、古くて汚い、でも頑丈な鍋敷きが。

 僕の質問にお祖母ちゃんが答えました。昔はこの上におっきな鉄鍋を置いてたんだげんちょも、戦争中に供出で持って行かれた」って。

「供出」って知ってますか? 太平洋戦争が行き詰まって、日本が物資不足で困ったことになりましたよね。

 そこで、国民に、家にある金属を出せって命じたんです。それが鉄砲の弾になったり銃剣になったり、もしかすると零戦に生まれ変わったかもしれません。お寺の鐘を国に差し出したとかいう話は聞いたことがありますけど、「鍋かよ」って、びっくりしましたね。

 そんなこまごまとした物まで掻き集めないと戦争が出来ないんですから、アメリカに負けるわけです。

 イメージを膨らませるために、古い写真をお見せします。1965年頃ですね。

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 僕の家は「相馬屋」という米屋でした。写真右、小さい方の子どもが僕で、大きい方が兄です。真ん中にいる人がお祖母ちゃんです。左の写真。 親父とお袋と、親戚の叔母さんや従姉も一緒です。店先でみんな何をしてるかというと、お祭りの行列を見ているんです。いい写真です。

 この話で僕が何を言いたいかというと、何の変哲もない、毎日、日常的に使っている家庭用品が実は戦争の生き証人だったということです。米屋でさえ戦時中は食べ物に困ったんです。一家の大黒柱を兵隊に取られてますから、五人の子どもをお祖母ちゃんは女手ひとつで食べさせなくちゃならなかった。食べるものがないと井戸水で腹を膨らませたそうです。そうやって、水っ腹になって母屋に引き返す時、お腹の水がちゃぽんちゃぽん音を立てたという話も、聞いてます。

 そういう時代も、その鍋敷きはちゃぶ台の横で、ずっと見てきたわけです。戦争って遠くに感じますけど、ひょっとすると身近に、さりげなく、歴史の証人がいるかもしれない。それは人ではなくて、物かもしれない。物に歴史を語らせることができるかもしれない。

 こうして考えると、「家の中の古い物を探す」という課題の隠れた意図が見えてきます。それは言い換えると、「日常性の謎を探す」になります。さりげなくそこにある物、ふだん見慣れている物が、何かのきっかけで謎として立ち現れる。ブラックボックスとして見えてくる。ブラックボックスを開くことで、我々は自分の日常を物語として組み立て直すことが可能になる。僕の例で言えば、自分の日常に「戦争」という物語が組み込まれていく。そこで初めて、「戦争」という遠い話を、自分の事として語ることができるようになるんです。戦争に限りません。家の中の古い物を調べることで、自分の家の歴史が見えてくる。それは、なぜ自分が存在するのか、なぜこんなふうに自分は生きているのか、っていう謎を解き明かしていくことにも繋がるんです。 

 12歳の自分に救われた

 話を進めます。これは実家の話です。じゃあ自分がいま住んでる家の中でいちばん古い物はなんだろうと探してみました。見つけたのは、僕が小学六年の時に書いた作文です。小六の年がちょうど、小学校が創立百周年を迎えた年です。記念事業としてタイムカプセルに絵や作文を入れました。

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  これは未来の絵です。ごらんの通り人類が滅亡しています。宇宙から降り注ぐ放射能が強力になって、地上に住めなくなり、一部の科学者が地下に都市を作って繁栄しますが、やがてヒトラーのような独裁者が生まれて戦争が起こり、人類が滅びてしまうという、夢のないストーリーが画用紙の裏に書いてます。

 未来の世界を描けっていう、お題ですけど、未来のどの時点を描いたらいいのか、わからなかったんです。未来っていうのは永遠じゃないだろう。いつか未来が終わる。いつ終わるのかというと、人類が滅亡した時だ。その時点が究極の未来だ。じゃあ人類が滅亡した未来を描くしかないだろうって答えを出したんです。

 ちなみに僕の予言では、地上が滅びるのは2800年代、人類が滅亡するのが3200年です。まだまだ先ですのでご安心ください。

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 次に作文です。タイトルは「ぼくの20年後の予定」です。この中で、「20年後の自分は小説家になってる」と宣言していますが、「将来の夢」じゃなくて「予定」なんです。だから小説家になるのはもう決定事項だと言ってるのと同じで、子どもの頃に人生のハードルを思いっきり上げちゃったんです。

 小説家になろうと考えたのは小学5年です。山本有三という小説家がいるんですが、その人の『路傍の石』という児童文学を読んだのがきっかけです。えらい感動しました。小説家ってすげえと思いましたね。何が凄いかっていうと、小説を書けば、自分が死んでからも人に感動を与えられる。翻訳されれば、自分が行ったこともない外国の人にも感動を与えられる。つまり、自分っていう存在を無限に拡張していけるわけです。

 なぜ20年後かというと、20年後に卒業生が集まってタイムカプセルを開ける計画だからです。32歳です。現実の僕は、本屋の店員でした。うだつの上がらない男です。毎年毎年、小説を書いては新人賞に応募しては落選していました。

 そういう状態だったので、ぼくはタイムカプセルを開ける行事には参加しませんでした。12歳の自分を、裏切ったという思いが強かったんです。申し訳なくて、12歳の自分に会えなかった。僕の絵と作文は、同級生がいったん預かって、それから実家に渡されたわけですが、そういう経緯があって、僕はその作文をずっと受け取らずにいました。

 作文を初めて読んだのは35歳の時です。僕に何が起きたのか?

 胃癌になったんです。かなり進行していました。手術で胃を切ったのですが、どこに転移するか予断を許さない状態でした。僕は独身で、独り暮らしをしていたので、退院後、しばらく実家に帰って療養していました。するとだんだん、抗癌剤の副作用に苦しめられてきました。外科的な痛みって、気力があれば我慢できるんです。でも抗癌剤の副作用は、その気力を少しずつ奪っていく。髪は抜ける、全身に発疹が起きる、食欲がない。食べると吐き気がする。下痢もする。全身だるくて、寝ていてもしんどい。体が衰弱して、これは駄目だ、死にそうだと考えて、地元の病院に再入院しました。隣町にある、原町市立病院です。そこがいちばん、設備が良かったので。食事ができなくて、点滴で栄養を入れてたんですが、身体に入った水分は、ほぼ一時間おきに下痢になって出て行くんです。水様便ですが、腸の内壁が剥がれて、赤いものが浮いているんです。だから腹痛もひどい。

 ある夜、どうしようもなく辛くて、眠れなくて、看護師さんを呼んで鎮痛剤の座薬を入れてもらいました。いつも座薬は自分で入れてたんですが、この時だけは指に力が入らなくて、看護師さんに入れてもらいました。向こうもプロですから、人のお尻の穴なんて見飽きてると思いますけど。

 次の朝です。その看護師さんが僕の前に現れました。そして「志賀君」って呼ぶわけです。「私のこと覚えてる?」って。マスクをしていたから気づかなかったんですが、マスクを外したら、なんと、小6の時にクラスメイトだった女性ですよ。「うわっ、この人に尻の穴を見られた」って、びっくりですよ。まさか、彼女に尻の穴を見られるなんて、小六の時は想像もしなかった。当たり前ですけど。その時の短い会話で、タイムカプセルに入れた僕の絵と作文を、彼女がしばらく預かってくれていたと判明しました。そういう経緯があって、地元の病院を退院してから、初めて自分の作文を読みました。

 するとですね、頭に記憶していた文章と、実際に書いていた文章と、違っていたんです。「絶対、小説家になってる」とは書いてなかったんです。ちゃんと、小説家になれていない自分のことも想定していたんです。

「なーに、人生は長いんだ。20年後を目標にしてやってみて駄目だったら30年後を目標にすればいい。長い人生、なんとかなるさ」で作文を締めくくっていたんです。これ、まったく記憶になかったんで、意外でした。12歳の自分に励まされたんですよ。ありがたくて涙が出るくらいでした

 そして僕はどうにか体力を回復して、作文に書いた通り、30年後に、正確には1年前倒しの29年後ですけど、41歳で、文学賞を受賞して作家デビューを果たしました。だからやっぱり、夢じゃなくて「予定」だったんです。小説家になるのは。

 面白い話だと思いませんか。何から何まで実話です。でも、この話にはまだ続きがあります。僕の作文を預かってくれて、座薬を入れてくれた看護師さんは、それから数年後に、妊娠中毒症で亡くなりました。それも含めて、運命の不思議さを感じます。 

 僕は胃癌になって良かったと思ってるんです。きれいごとじゃなくて、大袈裟でもなく、リアルに「死」ってものに向き合えた体験は、やっぱり大きかった。

 手術の前日に何を考えていたかというと、もしかすると手術中に死ぬってこともあり得るんだから、今のうちに自分の一生を振り返ってみようと思ったんですね。するとですね、意外なことに、それまで自分が重要だと思っていたことがぜんぜん心に引っかからないんです。小説家になりたいってことも含めて、青春時代とか、彼女のことなんかもね、悩んだことも楽しかったことも、するする通り過ぎるだけなんです。

 自分にとって大事な思い出っていうのは、ぜんぶ子ども時代なんです。10歳より下です。特別な体験じゃなくって、たとえば、従兄弟と縁側に並んでスイカ食ったとか、裏の畑にいっぱい赤とんぼが飛んでたとか、そういう他愛ない思い出ばっかりなんです。

 たぶん、自分が無垢でいられた時代なんでしょうね。人間、歳をとるほど汚れていきますから。人を傷つけてばっかりだしね。

 ちなみにトルストイも、「イワン・イリッチの死」という小説で同じことを書いてます。

 「人生がこんなに無意味で、こんなにけがわらしいものだなんて、そんなことのあろうはずがない」って書いてます。僕がこの小説を読んだのは退院してからです。本当にこの通りだったんです。

 自分が死ぬと決まると、欲が抜けていくじゃないですか。そこで価値観が変わるんじゃないかと思います。 トルストイの小説では、最後には黒い穴が見えてきて、その穴に落ちていくと「光」が見えてくるんですね。

「死とはなんだ? 恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。死の代わりに光があった。」こう書いてます。臨死体験そのままなんです。

 僕の場合は、臨死体験じゃないからそこまでいきません。

 ぱたぱたぱたって、音を立てる感じで記憶の断片が流れていって、最後に田舎の海が見えてきたんですね。海がうねっていて、そこに光が当たってキラキラまぶしいんです。

 「ああ、この海に抱かれて死ぬのなら、死ぬのも悪くないな」って思いました。小高の海ですよ。それで、死ぬのが怖くなくなったんです。

 受け入れたんですね。こんなふうに話すと、きれいにまとめちゃった感があるんで、ちょっと気に入らないんですけど、嘘偽りなく、大体はこんな感じです。

 だから、いま子どもに対する虐待が増えてますけど、本来無垢であるべき子ども時代が、暴力と恐怖で支配されてる状態っていうのは、本当に悲惨だなって思います。それはつまり、生きる力を削いでいくことになるんで、虐待する側は、自分が考えている以上に酷いことを子どもにしているんだって、自覚すべきなんです。

 先日、杉田さんとリモートで話をして、「小説っていうのは『生と死』をめぐる話が多いですよね」って話になったんですが、作家がストーリーを組み立てていく時って、あまりそういうことは意識しないので、うまく答えられなかったのですが、つまりこういうことだと思います。

 身の回りに死んだ人が誰もいないうちは、世界は自分で経験できる範囲で完結している。ということは、比較的、日常が安定しているわけです。ところが、人が死ぬことで、世界があちら側とこちら側というふうに二重化する。あちら側から見るこちら側という、別の視点を得ることで、こちら側を相対化するすると価値観が変化するわけです。小説って、そのシミュレーションをしてるんじゃないのか。いろんなパターンのシミュレーションを繰り返すことで、我々のリアルな日常に帰った時に、現実への対応力が増すわけです。

 価値感はひとつじゃないよ。いくつもあるんだよ、と知ることで柔軟性を身につけるんです。また、他人のことを理解できる。もちろん、あの世なんてない、人は死んだらそれきりで、魂もないのかもしれない。それでも同じなんです。自分で自分の死は体験できませんから。自分が死ぬ間際の時点を設定して、そこから今の自分をふりかえってみることでも同じです。

 それも一種の、「生と死」の二重構造なんです。

 

 これから、「生と死」の話に入っていきます。 

 杉田さんは、生まれて間もなく亡くなったお兄さんがいるという話をしました。同じように、僕にはお姉さんがいます。生まれてすぐに亡くなりました。その次に兄が生まれ、僕が生まれましたわけです。両親は、子供は二人と決めていたそうなので、もしお姉さんが生きていたら、僕は存在しなかったわけです。だから、生きているお姉さんについて僕が考えるのは理論的に矛盾があるわけです。

 沖縄にはユタという人がいます。聞いたことはありますか? 簡単に言えば、神様を下ろして神様の言葉を告げる人です。霊媒師、という言葉は聞いたことがあるでしょ。その沖縄版と思ってください。ただ、沖縄のユタは、今も人の生活に溶け込んだ存在です。なぜかって、沖縄に行くと感じるのは、死者や、神が、近いというか、当たり前に隣にいるんですね。だから、死者や神と、人間をつなぐ役割としてのユタが必要になるんです。

 信じるか信じないかは人の自由ですけど、僕は沖縄でNO2と言われたユタに会いに行ったことがあります。ユタから、僕は4人兄弟の末っ子だと告げられました。戸籍では2人兄弟ですけど、神様の数え方は違っていて、生まれるはずだった人も含めて、魂の数なんですね。3人は把握してるけど、あと1人はわからない。でもそれは別にいいんです。僕が言いたいのは、死んだ人も生きている人も、魂として見れば、変わりはないということです。だから、僕がお姉さんのことを考えるのも、矛盾しないっていうことです。

 こんな夢を見ました。夢の話で恐縮です。ジェットコースターのゴンドラに乗って、スタートを待ってるんです。一台ずつゴンドラはスタートするんだけど、よく見るとレールの先が切れていて、ゴンドラがピョ-ンピョ-ンと次々空中に放り出されて、人が死んでいるんですね。だんだん自分の番が近づいている。やばいな、このままでは俺も死ぬな。けれどゴンドラを下りることはできないんです。そういうルールだから。

 いよいよ自分の番がやってきて、もうダメだって言うときに、人が駆け寄ってきて、「死んだと思っていたお姉さんが実は生きていた。今すぐ会いに行ってあげなさい」と言うんです。ゴンドラを下りる理由ができたんですね。「助かった」って、夢の中でわんわん泣きました。「お姉さんに救われた」って。目覚めたらやっぱり泣いてました。

 この夢を見たのは大学生の時で、精神的にかなり不安定だった頃です。

 もうひとつ、同じ時期に、似たような夢を見ています。僕は田舎の実家にいて、明日、船に乗らなければならない。でも、ラジオからニュースが流れていて、その船が明日沈没すると予告している。天気予報のように事故の予報もしていたんです。船に乗ったら間違いなく死ぬ。でも僕は船に乗らないといけない。ルールだから避けられない。さっきと同じパターンですね。違うところは、お姉さんその人がやってきて、なぜか小学生なんですけど、やっぱりお姉さんなんです。お姉さんその人が、あなたはもうひと晩、お家に泊まっていかないといけないと言いだしたんです。船に乗らない理由ができたんです。そこで僕は、「救われた」と思うんですね。この夢では泣きませんでしたが。

 なぜか忘れましたが、この時期はたぶん、死の不安に取り憑かれていたんでしょうね。その不安を取り除く者として、死んだはずの姉があちら側からやって来る。夢の構造はこういうものです。 

 もちろん夢ですから、幻想です。でも、幻想にせよ、守られてるという感覚を持つことは、一種の強みなんです。何が言いたいかというと、こうした感覚は伝統的な日本人の精神構造と同じなんです。 

 田舎の古い家にお邪魔すると、ご先祖の写真が鴨居にずらっと並んでいます。

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 左は、震災前の僕の家ですけど。さっき話したお祖母ちゃんの写真もあります。これは先祖が神になって家を守っていますよ、子孫を守ってますよ、という意味です。お祖母ちゃんも先祖の仲間入りをしたんですね。そういう意味では先祖は死んでいない。子孫と共にいるんです。右は両親が住んでいた仮設住宅の中です。狭いのですが、お祖母ちゃんの写真だけは飾っていました。  

 死者が子孫を見守るという考えは、日本だけでなく、世界中にあります。

僕はチェルノブイリを旅行したこともありますが、その時にお邪魔した、立入禁止区域内にあるウクライナの農家(写真右)にも、イエス・キリスト聖母マリアのイコンと並んで、亡くなった家族の写真が壁に飾られていました(写真左)

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 亡くなった家族は、その家の守り神になるんだと、ガイドさんが教えてくれました。日本人と同じ風習がウクライナの農村に残っていたんです。ということは、世界中の、少なくとも農耕民族には、共通してあるのかなと想像できます。 

 変わって、この写真はなんだかわかりますか?

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 そう、墓地です。これは福島県の、飯舘村という山間の村の共同墓地です除染のために木を伐採して丸裸にした。表面の土も剥いだんでしょうね。それで表面が崩れやすくなったんで、ゴムシートで保護してるんです。こういうのも破壊なんですよ。精神風土の破壊です。悲しくなりませんか、こういう風景を見て。

 では次に、小高町の南隣にある、浪江町の海沿いの集落、請戸に伝わる安波(あんば)祭を紹介します。これは田植え踊りです。毎年2月に、くさの神社の前で田植え踊りを奉納する祭です。農業と漁業で栄えた土地でしたから、豊作祈願と共に、大漁祈願もします。

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 請戸地区には487の家があって、1617人が住んでいましたが、震災の津波でほぼすべての家が流され、行方不明も含めると160人近く、だから人口の一割の人が犠牲になりました。しかも翌日に原発事故が起こって、被災者の捜索が打ち切られました。救える命があったのに、瓦礫の下から呻き声が聞こえているのに、泣く泣く撤収するしかなかった。そういう悲劇が起きた土地です。住民は、ばらばらに避難しましたが、伝統の火は消さなかったんです。それぞれの避難先で、踊り子は踊りの稽古を続けました。そして震災の翌年には、仮設住宅で踊りを披露する形で祭を続けたんです。

 震災前と同じ、毎年2月に神社の前で踊りを奉納するようになったのは2018年からです。僕が見学したのは2020年で、あいにく雨の日でした。請戸地区は津波危険地帯に指定されて、人は住めません。今では想像もつきませんが、個々に立派な街があったんです(下写真左)。その集落自体が、津波で消えてしまった。踊り子はふだんばらばらに生活していて、祭の日に集まって踊るのです。

 農業はもうできません。漁業は、試験操業だけが許されています。それでも豊作を祈願し、大漁を祈願します。震災後には、震災の犠牲者を追悼するという意味が加わりました。

 消えてしまった集落で祭をする意味はそこにあるんです。踊ることで土地の再生を祈るんです。住めないけれど、ここに我々の集落があったんだと、永遠に記憶し、先祖を慰める祭。そして、普段はばらばらに暮らしている人達が、集まるための祭。津波で死んでいった人たちを忘れないための祭。だから尊いんです。

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 請戸漁港は修復しました。防波堤に「浪江町の復興は請戸漁港から」と書かれています。

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 左は、祭りを終えたあとの記念写真ですが、みなさんいい笑顔でしょ。右は、祭りを終えて帰って行く人達です。寂しい風景ですけど、祭りがあるから、故郷に繋がっていられるんです。

 

 僕自身のフィールドワークの報告

 福島第一原発があった、大熊町双葉町です。帰還困難区域が解除されたばかりの町を、2020年3月に聖火ランナーが走る予定でした。けれど、みなさんご存じの通り、新型コロナウイルスの影響で、直前になってオリンピックが延期になり、聖火リレーも取りやめになりました。まあ、それはそれとして、レンタカーを予約しちゃったし、町の様子がどんなか知りたくて、出かけたわけです。

 政治的な先入観は抜きにして、率直な感想だけを話します。その先は皆さんご自身で考えてください。

 大熊町の駅です。駅名は大野駅です。立派な駅が出来ました。開業したのは今年の3月です。聖火リレーの予定に合わせる形で開業したんですね。

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 駅前ロータリーはきれいになりました。ただしその周辺はまだ手つかずので、便宜的に一本だけ開いている道がありますが、他は、どこへ行くにも道が塞がれています。つまり、帰還困難区域、立入禁止区域に駅がぐるりと囲まれている状態です。

 これは商店街の入り口です。バリケードがあって中に入れません。この向こうは震災当時のままです。

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  帰還住民の復興住宅が山の方にあるんですが、そこに通じる道だけが解除区域で、道の両側は今も帰還困難区域です。山の上の方でいま、盛んに復興住宅を建設してます。これは除染で出た土砂を運ぶダンプカーです。一般に「汚染土」と呼んでますが、ダンプの正面には「除去土壌等」と書いてます。「等」がミソですね。「等」と付ければ何でもアリですが、放射能」をなるべく連想させないための配慮ですね。イメージ戦略とも言います。

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 ここ双葉町商店街です。2020年の3月に帰還困難区域が一部解除になりました。福島第一原発から3キロちょっとの距離です。駅前はとてもきれいになりました。壊れた民家は撤去して、広々としています。でも、住民が帰る家はまだないというのが現実です。

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 自由に歩けますが、「避難指示解除準備区域」なので、歩けるのは日中だけです。道路は舗装し直してますが、震災で傷ついた家がほとんどそのままです。

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 駅から離れて海岸へ向かう途中に、フレコンバッグの仮置き場がありました。五段積みです。

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 海岸のすぐ近くに巨大なビルが建設中です(当時)。警備員の人に聞いたら、東日本大震災原発事故伝承館だそうです。双葉町の復興の目玉にするんでしょうね。

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 僕は双葉高校の出身で、剣道部だったんで学校から海までよく走っていました。昔のこの辺りを知っているから思うんですけど、こんな巨大な建物なんか本当は建って欲しくない。これが復興だなんて思いたくない。都会のど真ん中にでもありそうなハコ物を田舎に作れば、みんな喜ぶだろうっていう、発想がそもそも貧困なんです。原発事故から何も学んでない証拠なんです。

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 これは、伝承館の裏手の道ばたに、未だに置いてある津波の瓦礫です。 

 以上、ざっと見てきて、素朴な疑問ですよ。僕は政治も経済も素人なので素朴なことしか言えません。復興っていいますけど、これは一体、誰のための復興ですか、どこを目指している復興なのか。目線がどこを向いているのか。原発事故とは何だったかを、とことん突き詰めて考えたら、あんなバカでかい建物を平気で作ったりはしないはずです。

 原発を建設した時と発想が同じなんです。とにかく巨大な物を作る。そのぶん税金を落としてやる。雇用を生み出してやる。何か問題でも? ですよね。行政から見れば、これは従来通りの正しい方法です。ただし進歩もない。未来がない。

  伝承館を巨大なビルにする理由、そのまわりに公園を作る理由。目線が東京を向いている証拠です。住民に向いてない。誤解してほしくないんですが、僕は誰かを批判しているわけではありません。自分の意見を皆さんに押しつけているわけでもない。

 

 報道は必ず偏向する

 マスコミの報道は、必ずが何らかの意図を持っています。そして意図を持っているということは、必ず偏向しているということです。

 「地域とメディア」という課題で浪江町を取り上げた方がいらっしゃいました。その方の論調は明確で、マスコミ報道は被災地の傷ついた部分、荒れた部分ばかり取り上げているが、実際に現地を見てみたら、街は復興に向けて前向きに動き出している。そちらを報道しないで被災地の傷ついた部分ばかり取り上げるのは、復興の妨げになるんじゃないかという論旨でした。この方の言ってることは正しい。取り上げ方で被災地のイメージはずいぶん変わってきます。僕も悩むところです。

 だから、僕からのメッセージは、自分のしていることを絶えず疑え、ということです。

 被災者の生の声を聞いた。だからこれは真実なんだと言う人もいます。けれど、被災者にもいろんな立場の人、いろんな考え方の人がいます。報道する側は、誰の声を拾うか、あるいは切り捨てるか、意識的にせよ無意識的にせよ、必ず選択が入るんです。つまり偏向してしまう。

 でも、自分が何かを伝えたいのなら、偏向は必ずしも悪いことじゃない。大事なのは、自分の伝えたいことを唯一の真実と思わないことです。何でもそうです。真実はいくつもあると言えるし、真実なんてないとも言える。その上で、なるべく公平に伝えたいと思ったら、今は難しいですが、何度も現場に足を運んで、できたら現地の人の話を聞くことです。

 現地の人でも意見ばらばらですから。なるべく場数を踏むことです。どんな場合でも、いちばん大事なのは、現地の人、当事者の目線で見ることです。

 

 アフターコロナの時代に

 これから皆さん、自分が希望する仕事に就くことが益々難しい時代になります。腐ることも悩むことも傷つくこともいっぱい出てくるはずです。自分の頭だけで考えを煮つめていくと、必ず間違えます煮詰まっているなと思ったら、環境を変えて、ぱあっと広いところに出ることです。いろんなものが見えてきますから。どうも、抽象的なことしか言えませんけど。 

 アフターコロナの時代だ。これからは在宅勤務だ、おうちでテレワークだって言ってますけど、自分の生活をシステム化しすぎると、偶然が入り込む余地がなくなって、小さく固まってしまう危険があります。

 順調な時はそれでいいけど、行き詰まった時に、うまく対応ができなくなって、一気に破綻してしまうリスクが増えるんじゃないかと、それが心配です。組織としてはうまく乗り切れても、あなた個人はどうなるのか?

 それともう一つ、頭だけ使う仕事がもてはやされて、肉体労働が低く見られて、格差が広がるんじゃないかと、それも心配です。これから社会のリモート化がどんどん進むと思いますが、どんなに社会が変わっても肉体労働は残ります。絶対に残ります。キャバクラもホストクラブも残ります。なぜかって、必要とされてるから。

 ですから、皆さんがこれから、自分の望まない仕事に就いてしまってもね、必要とされてる仕事なら意味のある仕事ですから、あんまり腐らないでください。そこから学べるものを学んでいけば、次の展開は必ずやってきます。 

 僕の場合は、この仕事もそろそろウンザリだな、煮詰まってきたなと思えてきたら、こんな仕事をしていた時代もあったよなあって、今の自分を思い返している、未来の自分を想像していました。未来を先取りして、今の辛い自分を過去のものに考えるんです。こういうことを考え始めると、大抵チャンスが巡ってくるんです。ほんとそうでした。チャンスはいろんな形でやってくるけど、見逃さない。ちゃんとちゃんと掴んでいけば、難しい時代ですけど、楽しんで生きていけるんじゃないかと思います。 

 以上です。楽しんでいただけたでしょうか? ありがとうございました。