記録映画「原発被災地になった故郷への旅」講演録

 

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 2013年、記録映画『原発被災地になった故郷への旅』(監督・杉田このみ)の制作に参加した。出演者は僕一人、制作スタッフは監督と撮影助手(監督の現在の夫)と僕の三人、一泊二日で小高町を撮影して回ったのだった。その後は各地で映画の上映とトークイベントをして回った。この経験は大きかった。故郷に対し、どういう態度で向き合うか、僕なりの姿勢がこの映画に出演したことで固まったと思う。以下に、トークの原稿から僕の敬愛する民俗学者宮本常一に関する部分を抜粋して掲載する。

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 この映画は何と云うことのない映画です。ただ、僕がかつての通学路を歩いて個人的な思い出を語っているだけです。

 大体においてこの映画は、監督の杉田さんが、「いろんな人が、自分の通学路を歩きながら思い出を語る映画を撮りたい」って言った時に、僕が「じゃあ被災地になった通学路を歩くのはどうだろう」って、その企画に乗っかったところから始まってるんです。そもそも、反原発とはまるで違うところからスタートしてます。

 皆さんも自分の通学路を持っていますよね。人が見たら何の変哲もない路地だけど、自分だけの特別な思い出がある、そういう道があるはずです。逆に言えば、何の変哲もない場所なんだけど、ある人が思い出を語った時から、その場所が違って見えたという経験は誰でもあると思うんです。僕がやりたかったのはそういうことです。

 そしてもうひとつ、言っておきたいのは、僕には、マスコミやジャーナリストが撮影した映像に対する違和感が根底にあったわけです。

 ジャーナリストは、あるテーマを持って被災地に入り、予め設定した文脈に沿って風景を切り取る。でも、被災地出身者にとってはテーマも文脈も必要ないんですね。白紙のまま被災地に入っていける。肩肘張らなくとも、テーマは風景の側にあるから、それを受け取ればいいわけです。

 簡単に言えば、ジャーナリストが原発被災地という枠組みで見ている風景を僕らは、「いや、被災地である以前に故郷なんだ」という意識で見る。

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 よそから来た人は、里山の夕日を見て「美しい」とはなかなか言えないけど、僕らは平気で言えちゃう自由がある。政治思想的な先入観を取っ払って、自由な眼差しを持った時に被災地がどう見えるかをまず知ってほしかった。その上で、「なぜ美しく見えるのだろう」という、その謎を多くの人と共有したかった。これが二つ目です。

 もちろん謎なんてないという言い方もできます。「放射能は目に見えないからだよ」と言ってしまえばそれが正解で、そこで終わっちゃう話ですが、そういう理屈では割り切れないものがどうしても心に残る。僕はその理屈で割り切れないものに焦点を当てたかったわけです。

 この映画は要するに、何かを訴える映画じゃないんです。人が集まって、何かを考えたり語り合うための道具としての映画であり、また、見る人の思いを入れる器でもあります。

 皆さんも、自分の通学路を思い出してみて下さい。もしそこが放射能に汚染されて無人の街になったとしたら、その道を歩きながら何を思うだろう何を語るだろうと考えてほしいんです。その上で、もう一度現実に立ち返って、原発事故とは何だったんだろう、原発の存在とは何だろうと考えてほしいんです。

(上映) 

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 この映画は冒頭と結びに宮本常一という人の言葉を置いてます。

 宮本常一民俗学者ですけど、戦前から戦後にかけて日本中をくまなく歩いて、離島や僻地で生きている人々の生活向上に一生を捧げた人です。その土地に入って土を舐めるだけで、この土壌なら何々を植えて特産品にしなさいと勧めたり、伝統芸能を復活させて村の名物にしたり。佐渡ヶ島の鬼出鼓座はご存知と思いますけど、あの太鼓集団の立ち上げを指導したのも彼なんです。

 映画の冒頭に、「自然は寂しい。しかし人の手が加わると温かくなる」という言葉を置いてますが、これを子供向けにわかりやすく書いた言葉が別にあります。

「人手の加わっている風景は、どんなにわずかに加わっていても、心を温かくするものです。そのような風景をよく考えてみると、この世を少しでも住みやすくしよう、と努力して作られたものなのです」というものです。

  宮本常一は、日の当たる山があれば開墾してミカン畑を作りましょうと提案する。ミカンが特産品になれば流通のために道路が作られる、港がよくなる、必然的に村が豊かになると考えた。

 ところで、宮本と同時代に、地方を豊かにしようとした日本人がもう一人いるんですね。田中角栄です。

 ただし、田中角栄は発想が逆なんです。道路を作り新幹線を整備すれば、企業や工場が誘致されて地方が豊かになると考えた。その結果、確かに豊かになったんだけど、地方が交付金補助金なしでは生きていけなくなり、地方自治が弱体化して中央の言いなりになってしまった

 その最たるものが原発なんです。1974年、田中政権の時代に、美浜原発の事故隠しが明らかになって、これでは新しい原発を作りにくくなると考えて編み出したのが、電源三法交付金制度です。

 原発建設と地域振興策をセットにして、日本にどんどん原発を増やしていった。その元を作ったのが田中角栄なんです。宮本常一田中角栄のこうした遣り方に反発していた。というか、激しい怒りを覚えていました。

 宮本が「自然は寂しい。しかし人の手が加わると風景は温かくなる」と言ったのは、街道の並木道や、開墾した田畑のことを指しています

 そこには、人間に対する深い信頼と祖先に対する感謝がありました。それを根こそぎ破壊したのが田中角栄だったんです。

 なぜ豊かにならなかったかというと、交付金制度にカラクリがあったんです。交付金を町は自由に使えなかったインフラとか公共設備にしか使えない縛りがあった。近年になって改正されたんですが、長い間そういう制限があった。要は、地方にばらまいた金を大手ゼネコンが吸い取るという仕組みです。ODAと同じです。儲かったのは大企業で、地方は箱物の維持が負担になって逆に財政的に追い込まれたことは、みなさんご承知と思います。冒頭にあの言葉を置いたのは、実はそういう意味を含めてのことだったんです。

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(上下、南相馬市小高区での撮影風景。後ろ姿は杉田監督。

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 冒頭の言葉だけでも、話はどんどん膨らんできちゃうわけですけど、そろそろ映画の最後に置いた、結びの言葉、

「小さいときに美しい思い出をたくさん作っておくことだ。それが生きる力になる」に移ります。

 これは、彼が22歳の時、大阪の小学校の教員になって、子供たちによく話して聞かせた言葉だそうです。この言葉には続きがあります。

「学校を出てどこかへ勤めるようになると、もうこんなに歩いたり遊んだりできなくなる。忙しく働いてひといき入れる時、ふっと、青い空や夕日のあった山が心に浮かんでくると、それが元気を出させるもとになる」

 みなさんもきっと思い当たると思います。僕もそうです。もちろん、震災心が傷ついた福島の子供たちのことが念頭にあったわけです。

 子供たちに「美しい思い出を与えられない」ということは、彼らの「生きる力」を削いでしまうということでもあるんです。
 その責任も考えなくちゃいけないなという思いがあって、あの言葉で最後を締めくくったわけです。

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 この記録映画は英文連アワード2014(主催・文化庁他)でパーソナル・コミュニケーション部門とパーソナル・ドキュメント部門で賞をいただいている。その意味でも感慨深い作品になった。

 付け加えておくと、講演録にある「なぜ美しく見えてしまうのだろう」という「謎」についてだが、数年後にその答えのひとつを見つけた。ヒントになったのは「国褒め」という言葉だ。

 「国褒め」とは、古代において天皇が高台に登り、里を見渡して土地の美しさ、豊かさを褒め称える歌を詠むことなのだが、歌うことによってその土地の地霊を祝い、鼓舞する意味があるという。僕がこの映画でしたこと、というより僕が故郷について話したり書いたりする行為はすべてこの「国褒め」なのだと気づいた。

 僕は「復興」という言葉をあまり使いたくない。どうしても「産業の復興」という意味合いが強くなるからだ。それが悪いというわけではないが、風土をかえりみない復興は逆に破壊につながる。僕が本当に願うのは土地の「再生」だ。「再生」とは風土の再生に他ならない。宮本常一の言葉を借りれば「人手が加わること」で「心が温かくなる」風景のことだ。その例を僕は水俣で見てきた。