「花火なんか見もしなかった」と火の祭

f:id:futakokun:20210324193330j:plain

「花火なんか見もしなかった」に描いた雄高町の花火大会は、小高町の「火の祭」をモデルにしている。

火の祭は相馬野馬追祭の行事のひとつ。古くは、祭を終えて郷(相馬領内の行政区分)に帰った騎馬武者を、民衆が松明をかかげて出迎え、ねぎらったのが始まりだというが、深読みをすれば、騎馬武者に宿った先祖の魂を慰霊するためだったのではないかと想像する。騎馬武者が先祖伝来の甲冑を身につけること自体が、意識的にせよ無意識的にせよ、先祖の霊との一体化なのだから。そもそも日本全国どこでも、花火大会には「お盆の迎え火」的な要素があったはずだ。だから花火大会は夏の風物詩であり、華やかさの裏に一種のわびしさが漂うものなのだと思う。

「花火なんか見もしなかった」は、花火大会の会場で花火を見ていない主人公が何を見ていたか(何を見ようとしていたか)、その心の軌跡をたどっていく話だ。現実の花火大会に、主人公は小学六年の学芸会で発表した劇銀河鉄道の夜の記憶を重ねていく。

「花火なんか見もしなかった」は、2016年7月25日に開催された、6年ぶりの「火の祭」を僕が実際に見物した体験に基づいて書いた。小高町はその年の6月に住民の帰還が始まった。相馬野馬追祭の開催日に合わせたのだろう。小高町に実家のある僕も祭を見るために帰郷した。もちろん、感無量だった。やっと、小高がここまで復興したのかと。しかし同時にそれは、復興の「現実」を突きつけられた体験でもあった。

f:id:futakokun:20210324192945j:plain

 復興の「現実」とは何か? 見慣れた町の光景が消滅していくことだった。

 これは2016年7月25日の小高駅前。この町並みはもはや存在しない。半分以上の家屋が消滅している。「花火なんか」は、消えていく町へのレクイエムという側面を併せ持つ。

f:id:futakokun:20210324193015j:plain
f:id:futakokun:20210324193030j:plain

f:id:futakokun:20210324193056j:plain

帰還を諦めた住民が次々と自宅を解体し、更地にしていった。見えるはずのない裏道が表通りから見通せたのは衝撃だった。仕方ないと言えばそれまでだが、僕はこの光景を「第二の破壊」と感じた。震災後に僕が思い描いていたのとは、まるで異なった「復興」が始まろうとしていた。

f:id:futakokun:20210324193042j:plain

震災の爪痕は一掃されていた。ごくたまに、個人宅の裏手のほうに、納屋か何かが崩れたままになっているのが見受けられた。上は、民家跡にたたずんでいたネコ。血統のよさそうな毛並みだ。まるまる太っているのは、ネズミなどの獲物が多いからか? 人間が珍しいのか懐かしいのか、逃げもせず僕をじっと見ていた。

f:id:futakokun:20210324193107j:plain

f:id:futakokun:20210324193132j:plain
f:id:futakokun:20210324193119j:plain

放置されてジャングルのようになった庭。こうした光景を見ると逆にほっとした。廃墟には廃墟なりの、空間にみなぎる力がある。家屋を撤去した跡地には、「がらんどうの廃墟」「記憶喪失の空間」とでも言うべき空虚感があった。

f:id:futakokun:20210324193145j:plain

これは前回に紹介した小高教会幼稚園の庭。草ぼうぼうだが、なぜか野菜を栽培していた。

f:id:futakokun:20210324193200j:plain

そして花火大会の夜。数日前まで無人だった町を見物客が歩く。小高駅は先日再開したばかりだ。写真の蔵造りの家は、元書店。僕も世話になったが、この建物もいまは存在しない。

断っておくと、ポケモンGOをしながら歩いていた若い男女は本当にいた。「おっ、こんなとこにもいたポケモン!」「小高って意外にちゃんと町なんだね」という会話も僕は実際に聞いたのだった。

f:id:futakokun:20210324221000j:plain
f:id:futakokun:20210324221017j:plain

 商店があった交差点の一角にソーラーパネル。この先に小高小学校がある。

f:id:futakokun:20210324193213j:plain

明かりのともる家はまれだった。裏通りに入ればなおさら、基本的にはほとんど無人の町だった。

f:id:futakokun:20210324193228j:plain
f:id:futakokun:20210324193243j:plain

 本来なら水田地帯に点在していた篝火。星空を地上に下ろしたような幻想的な光景が広がっていたのに、その風情はなくなった。実行委員の努力には頭が下がるのだけれど。原発事故後、かつての水田地帯は除染のために表土を削られ、ざらざらした地面を剥き出している。かつては水の匂いがし、ホタルも飛んでいたのに。

f:id:futakokun:20210324193259j:plain

 そして、セレモニーの花火が上がった。感傷的な音楽が流れる。夏の夜を彩る花火が、この日は震災の犠牲者を悼み、慰霊する花火になった。

f:id:futakokun:20210324221135j:plain

 一発目を 見上げる人々の、この表情。作品中、僕はかなり正直に、正確に描写している。一人一人、感無量で見上げていたと思う。僕自身、ついつい涙ぐんでしまった。

f:id:futakokun:20210324221400j:plain

f:id:futakokun:20210324221435j:plain

牛のオブジェを荷台に載せた軽トラックが、走り抜けていった。運転しているのは、「反原発」を訴え続ける吉沢牧場(希望の牧場)の牧場主。吉沢牧場は小高と浪江町の境にあり、線量は高い地区だが、牛の薬殺に抗議して牛を飼い続けている。

f:id:futakokun:20210324221655j:plain

f:id:futakokun:20210324221727j:plain

f:id:futakokun:20210324193315j:plain
f:id:futakokun:20210324193346j:plain

 市街地から見ると花火は爆撃のように見えた。花火と共に暗闇から浮き上がり、また沈んでいく町並みの光景から、僕は宮沢賢治春と修羅の序にある「風景やみんなといっしょに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける」の詩句を思い出していた。この詩句を足がかりに小説のストーリーを組み立てていった。

f:id:futakokun:20210324193400j:plain
f:id:futakokun:20210324193415j:plain

f:id:futakokun:20210324193428j:plain

 町が燃え上がるようだった。そして下写真が、最後の花火。特別の大玉だった。小説で描写した光景、そして主人公の心情は、ほとんど僕がこの夜、実際に体験したことを忠実に再現したものだ。

花火大会が終わってしばらく、駅に向かって走り「ダメだ、終電に間に合わねえ」と道ばたにへたり込んだ二人の中学生男子がいた。彼らは無事に家に帰れただろうか。

f:id:futakokun:20210324193447j:plain

 主人公の家は海の近くにあり、津波で流された。小高町の塚原か村上地区を想定している

 震災二年目の塚原地区の状態を参考までに掲載する。平地の民家は土台しか残っていない。高台にも津波は押し寄せ、多くの民家を破壊していった。

f:id:futakokun:20210324193510j:plain
f:id:futakokun:20210324193538j:plain
f:id:futakokun:20210324193602j:plain
f:id:futakokun:20210324193625j:plain

f:id:futakokun:20210324193650j:plain

 田んぼの中に流された自動販売機。

f:id:futakokun:20210324193714j:plain