『百年の孤舟』その後
2021年4月9日、特急ひたちに乗って南相馬市に向かった。県境を越えて福島に入ると、「こんなに美しい土地だっけ」とひそかに心打たれていた。もちろん仲春の季節だからという理由もある。鮮やかな新緑に草花が彩りを添え、桜の花も残っている。野山は俳句の季語にある「山笑う」といった風情だ。この時期に故郷を訪れることはしばらくなかった。
けれど、季節だけが理由ではない。公園や民家の庭はもちろんのこと、道ばたや川の土手、畑のへりなどいたるところに色鮮やかな花がある。以前は、というのは震災前のことだが、これほど熱心に花を植える習慣は、地元の人にはなかった気がする。震災や原発事故で暗くなった心を少しでも明るくしようという意志が、思い過ごしかもしれないけど、感じられるのだ。
列車が旧警戒区域、帰還困難区域に入っても思いは変わらなかった。いや、いっそう強く感じた。ぼろぼろになった民家の庭や、建物を撤去した更地の庭でさえ、草花が鮮やかだった。明らかに人が手入れしている。まるで草花の世話をすることで、この土地を見捨ててはいない証とするように。その心を尊いと感じた。
ぼくは『百年の孤舟』に、震災や原発事故が人の心に残したもの、多くは心的外傷として癒やしがたく刻まれたものを書いてきたが、暗い面ばかり強調したきらいがある。もちろん、ぼくなりに必然性があってそうしたわけだし、物語の方から「そう書け」と要求された結果でもある。
けれど、どんな物事にだって光と影はある。現場に立ち、現地の人と交流を持てばその両面に触れることになる。しかし物語を創作する上で難しいのは、光と影を同時に描ききることだ。その意味でぼくは未熟なのだと思う。『百年の孤舟』はぼくの故郷である小高町(南相馬市小高区)を舞台にしているが、暗い話ばかりになってしまい、現実に小高町で日常生活をいとなんでいる人たちに対しては、申し訳ない思いも実はしている。個人的には、故郷の再生に地道に取り組んでいる地元の人たちに敬意を惜しまないし、ぼくの誇りでもある。
だから、せめてこのブログで、小高町の何が変わり何が変わっていないかを、新旧の画像で比較しながら紹介したいと考え、一人旅をしたのだった。コロナ禍ゆえに誰とも会わず、急ぎ足の日帰り旅行だったけど。
旧福浦村・浦尻地区(島尻)
旧福浦村(小高町の南側、海寄り)、宮田川で見つけた舟。たぶん川漁で使われていたものだろう。丸木舟ではないが、いまでは珍しい木の舟で、「百年の孤舟」のイメージに近い。偶然の出会いに胸がときめいた。川岸の葦といい、静謐な流れといい、絵に描いたような光景だ。舟にまといつくように浮かんだ花びらは、山桜の花びらが川に散って流れたもの。一句詠む。
沈みゆく孤舟を惜しみ山桜
「百年の孤舟」で「鳥の巣箱のよう」と表現した桃内駅。桃内という駅名にたがわず、小さな駅舎がかわいい。ぼくが乗り降りしていた〇十年前は木造の素朴な駅で、無人駅なのになぜか駅員がいた。小高駅と桃内駅の間には四つの短いトンネルがある。「百年の孤舟」の主人公は、真夜中に右写真のトンネルを通り抜けてきた。ちなみに、作品中に書いたトンネルを走り抜ける命がけの遊びは、ここではないけど実際にやった。よい子は真似しないように。
桃内駅のホームかの眺望。主人公が夢の中で鉄道を伝い、桃内駅のホームから見渡したときは真夜中だったので、暗闇の底が抜けたような真っ暗闇だったはず。左が2014年大晦日、右が2021年4月。あまり変わっていないようだが、よく見ると奥の建物がいくつか消えている。
海岸から3キロ地点に置かれた線量計。左が2014年大晦日。右が2021年4月。干拓によって作られた広大な水田地帯だったが津波で冠水した。福島第一原発からは15キロくらいか。2014年には残っていた被災家屋が現在は撤去され、代わりに廃棄物置き場が出現した。ちなみに線量の数値は2014年が0.155マイクロシーベルト毎時。現在は0.085まで下がっている。
上写真と同じポイントから視線を海側に転じると、彼方の海岸まで視線をさえぎるものがない。中学時代に自転車でよく走った道だ。人がいないので井上陽水とかの歌を大声で歌った。やはり左が2014年で右が2021年。かつては民家の庭木だった枯れ木立ちが消えた。仕方のないことだとしても。
左右とも2021年4月。線量計写真の道路をはさんで山側は廃棄物置き場になり(左)、海側は太陽光発電の基地と化した。東芝のロゴが見える。エコなんだろうけど、違和感を覚えるのはわたしのエゴか。
家屋が流されても庭木や花壇を残している家は案外多い(左)。こういう心遣いが風景をやさしくする。この土地が死んでいない証明なのだ。右は無人飛行機の離発着場所らしい。テスト飛行なのだろう。舗装して短い滑走路を作るのだろうか。もしそうだとすると、左の風景まで消滅してしまうかもしれない。
土を入れ替えるなどして農地を再生させる計画があると、市会議員から聞いた。実際、いたるところで作業が行われていた。重機の音を頼もしく感じる経験って、あまりない。個人の農家ではなく、大規模な農場経営が可能な企業に土地を託すというが、名乗りをあげる企業はまだないそうだ。生きているうちに、青々とした水田の風景を見てみたい。どうか、工業団地にだけはしないでほしい。
井田川干拓地の水門。同じ橋の上から撮影した。左は2012年4月。右は2021年4月。傷んでいた橋も新しくなり、慰霊の祭壇も移された。
同じ水門を反対側から撮影した。左が震災前。右が2021年。背後の防潮林がすっかり消滅している。防潮林のない海岸は寂しい。植林はされているので早く大きくなってほしい。
宮田川は干拓地をまっすぐに貫く。この川をさかのぼると舟のある場所に行き着く。いい風景だとあらためて思う。
一時は「海に戻った」と言われた干拓地だが、2012年の夏には懸命の排水が効果を現し始めた。排水しても雨が降れば水かさが増し、復旧は無理と言う人も多かった。上写真は2012年4月。下写真は同年の7月に撮影。冠水していた土地が草原となり、赤く錆びた農機具や自動車が至る所に転がっていた。
しかし2014年の暮れに訪れてみると、一角に白いフェンスが張り巡らされ、廃棄物の処理場が作られていた。仕方がないこととはいえ、なんとはなし、裏切られたような気分だった。
下2枚は同じ日に撮影。津波が残していった水はいたるところに残り、荒れた印象は拭えなかった。しかしシラサギが餌を探している風景は救いだった。以前は生き物の気配もなかったのだ。
浦尻貝塚から見下ろした廃棄物処理場。上下とも、左が2016年7月で右が2021年4月。このまま仮置き場にされるのではと懸念していたが、めでたく役割を終えて撤収されていた。囲いの中で防潮林の苗木が植えられている。
「百年の孤舟」にも貝塚の話が出てくるが、浦尻貝塚がモデル。下は、震災前に撮影した海辺の集落。直角に海岸へ向かう道路を目印に見て欲しい。この区域だけで39戸が津波で流失し、31戸が損壊した。犠牲者の数は24名。避難を呼びかけて命を落とした人もいる。
2016年に訪れたときは、人の背丈を超えるほどの藪に覆われていた貝塚。果敢にも藪に分け入り、いまは地元の人の努力で整備され、見事な貝塚遺跡として再生された。感謝。感謝。竪穴住居跡や土偶も発見されたのだ。縄文時代からここが豊かな土地だった証拠。ぼくが土器や石器を拾っていた1970年代は畑だった。なぜか縄文ブームが小学生の間で沸き起こったのだ。2021年、還暦を過ぎたぼくはここで二つの石器を拾った。ぼくが子どもの頃は、拾うのはOK、掘るのはNGというルールがあった。いまもそのルールが適用されているという前提で、合法的に持ち帰った。
上写真。津波に破壊された民家の破片だろう。防波堤の真下はえぐり取られ、水が溜まっていた。2012年4月撮影。下はその10年後。防波堤は倍ほどの高さだ。苗木が防潮林になるころには、ここにあった集落を記憶している人も少なくなるのだろう。
下写真。慰霊碑も立派になった。(左)2014年の時点ではお地蔵様3体だったが、(右)その後、慰霊碑と観音様が建立されていた。2021年撮影。
今後、この土地をどう利用していくのかわからないけど、ゼネコン主流の乱暴な開発だけは辞めて欲しい。それだけは切に願う。
小高の海は独特だ。どーんという波音が深い。重低音で胸板を叩く。ざあっという波が引いていく音も激しい。他の、どの海岸に行っても、同じ波音を聞いたことがない。この岸壁の上に綿津見神社がある。
浪江町との境へ続く坂道。下りていくと水平線が見えてくる坂道って、いいものだ。設定では、「百年の孤舟」の主人公の家は、この坂道の(海に向かって)左奥にある。
坂道を上ったところに浪江町との境がある。近くに「百年の孤舟」でも取り上げたアトムの看板があったが、いまは消えている。