『百年の孤舟』のその後Ⅱ

浪江・小高原発建設予定地のいま

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 「百年の孤舟」で、主人公の弟は海で拾ってきたコレクションを土間に並べて、納屋の中で何を考えていたのか。裏設定を暴露してしまうと、彼は「どうすれば浪江・小高原発計画を撤廃できるか」を考えていた。その結果、「福島第一原発に重大事故が起きれば可能だ」という、妄想的な結論を導き出したのだが、密かな願望が水素爆発という形で現実化してしまうと、自分の妄想が「呪い」として機能してしまったかのような罪悪感にさいなまれ、最終的に自殺してしまったわけだ。もちろん、画家としての才能に限界を感じたうえ、東京での生活が破綻してしまったことが直接の原因ではあるけれど。こんなことは小説には書けない。弟はわたしの分身でもあるから、どうしても書けなかった

 浪江・小高原発を象徴するアトムの看板は、現在は消えた。ベニヤ板にペンキの看板を十年以上も野ざらしにしていたのだから、ただでさえ傷んでいたのだ。。

 ご存じのとおり、浪江・小高原発建設計画は2013年3月28日に白紙撤回された。それにともない、予定地に建っていた高さ140mの気象観測塔は2014年11月に撤去された。実際問題、あれくらいの重大事故がなければ白紙撤回は不可能だったろう。

 観測塔の撤去を、朝日新聞はこう書いている。「午後3時半、3方向から鉄塔を支えていたワイヤのうち、北側が爆薬で爆破され、切断された。塔は10秒ほどかけて住宅の少ない南側に倒れた」その様子はユーチューブで見る事ができる。結果的には無用の長物になったわけだが、少年時代から目になじんでいた鉄塔だから、爆破され倒壊していく映像には、一抹の哀れさを感じてしまう。

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上写真は2012年4月。下写真左は2015年の鉄塔跡地。右写真は2021年。波消しブロックが置かれていた。

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2016年の棚塩集落。手つかずの風景画残されていた。

 作品中、雄高(小高)町側は予定地の面積が少なかったので抵抗は少なかった、と書いたが、実際は小高側の農家も浪江側に農地を持っている家が多く、地権者の数も浪江側とあまり変わらなかったと、小高町浦尻出身のフリージャーナリストNさんからご教示いただいた。

 また、予定地買収の裏工作について、棚塩原発反対同盟(複数あった団体のひとつ)の委員長だったM氏が、東北電力と直接売約せず、東北電力鹿島建設の意を受けた水谷建設などに通常の2倍以上の価格で買い取ってもらったという裏話も、Nさんからのメールで知った反対同盟の先頭にいた人が、裏で買収されていたわけだ。原発の怖さは放射能だけではない。建設予定地の住民を分断する。場合によっては家族や親族を分断し、信頼関係を失わせ、人の心を金でむしばんでいく。浪江側の120平方メートルの原発予定地は、浪江町に無償譲渡された

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上写真、道路の左側にある林が、原発に代わる開発のために、ごっそりと失った。

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 棚塩は、原発予定地があった浪江側の地区。そこがいま、水素工場を中心とした産業団地になっている。下の写真は浪江町のHPから。青色に見える部分はソーラーパネル。水素エネルギーは究極のクリーンエネルギーらしいが、わたしはあまり信用しない。エネルギーをどんどん使って、しかも地球にやさしいなんて、そんな都合のいい話には乗れない。メリットにはデメリットがつきもので、問題はデメリットのしわ寄せが誰に向くかだ。

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 とにかく、原子力の代わりが水素エネルギーかよ、とだけは言いたい。福島県浜通りは結局のところ首都圏のためのエネルギー基地という位置づけから離れられないらしい。まるで呪縛のように。「明るい未来のエネルギー」が手を変え品を変え、水素になったのだ。

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 産業団地の展望台からの光景。道路をはさんだ向こう側には昔と変わらない農村風景だ。

 一方、工業団地側を向くと、ほとんどがソーラーパネルで埋め尽くされている。地球にやさしい風景にはあまり見えない。どちらかといえば殺伐としているエコという名の自然破壊に見える。どっちみち人類の活動が活発になれば地球に負荷がかかるのだ。それは間違いない。自然エネルギーだからいいとは思えない。

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  「太陽光発電の寿命は30年だと言われてる。いま、ソーラーパネルが大量に作られているけど、処分方法は決まっていない。30年後にはきっと廃棄の問が出てくる」聖火リレーの日、南相馬の市会議員はここにぼくを案内しながら言った。

 なんだろう、このデジャブ感は。最初はイケイケどんどん。その後のことは成り行き次第、面倒なことは困ってから考える。この国はいつだってそうだ。太平洋戦争開戦も、原発も、オリンピックも、なるようになるで始めて諸問題は後回しにする。その繰り返しだ。

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 この辺りの道は鬱蒼としていたはずだ。いや、間違いかもしれない。記憶が混乱している。自分がどこにいるのか、ここがどこなのかわからない。原発よりはマシ、でいいのだろうか。

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 選択した覚えはないのに、いつの間にか選択させられている。招致前、国民の過半数が望んでいなかったオリンピックのためのエネルギーが、ここで作られるらしい。

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