加賀乙彦と歩いた福島(2016年5月)

 今年1月12日、小説家であり精神科医であり、またクリスチャンでもあった加賀乙彦先生が老衰のためお亡くなりになられた。戦中戦後の日本人の精神性を深い眼差しで考察してこられた、日本文学最後の巨星と呼ぶにふさわしい方だったと思う。

 先生は、自身の戦後体験に東日本大震災の惨状を重ね、特に放射能災害に見舞われた福島県については憂慮されておりました。震災の年に、文学者有志で結成した「脱原発社会を目指す文学者の会」(以後、脱原の会)の会長になられてからは、晩年まで会の精神的支柱でおられました。

 私は旧警戒区域出身作家として会に参加し、本来なら雲の上の人である先生と親しく文学論を交わすなどの光栄に浴してきました。特に酒の席では先生のとなりにすわり、ドストエフスキー文学について議論をふっかけるなど、一時代前の文学青年のような真似をしていたのですが、温厚なお人柄の先生はやわらかく受け止め、真摯に反論してくださったのはいい思い出です。

 私は脱原の会のメンバーとして毎年一度、福島視察旅行を企画し、参加者を案内してきました。先生は執筆に忙しく、またご高齢のため、視察旅行に参加したのは2016年5月の一度だけでした。わたしの故郷の南相馬市小高区は小さい町ながら、なぜか埴谷雄高島尾敏雄など戦後文学を代表する小説家と縁の深い土地柄です。単に原発被災地というだけでなく、両氏の始祖の地である小高を先生に視ていただいたことは、それなりに有意義であったと思います。

 結果として、先生は震災や原発事故についての文章を公に発表するとことは遂にありませんでした。先生が亡くなられた後は、こうした事実も忘れ去られてしまいます。それはあまりに寂しく、惜しいことです。それで、ささやかながら、ここにこうしてその足跡を記しておこうと思った次第です。

 加賀乙彦先生が福島を訪問されたのは2016年の5月10・11日。あいにくの雨だった。最初に訪れたのは富岡駅前。津波で被災した駅前の家並みは撤去され、更地が広がっていた。駅もまだ再建は手つかずの状態。駅の東側から海岸線を埋め尽くしていた黒いフレコンバックの壁も中間貯蔵施設に移送中で、以前の圧倒される印象は薄らいでいた。

 (下)修復中の富岡漁港の堤防を視る。雨が冷たかった。ここから先には進めず、海岸から福島第二原発を遠望することはかなわなかった。

 国道6号線を南下。国道沿いから雨にけぶる福島第一原発を視る。指さしているのはフォトジャーナリストの豊田直巳氏。氏は脱原の会のメンバーではないが、今回の視察旅行の案内役をお願いした。 

(下)豊田氏が「空気を止めてください」(息を止めてくださいの言い間違い)と冗談を飛ばし、みなで笑った場面。雨の影響もあってかなり線量が高かった。この後、双葉町に移動し「原子力明るい未来のエネルギー」のPR看板跡地をバリケード越しに視た。

 南相馬市小高区に移動。広範囲に津波被害が広がった福浦地区を視てもらった。写真は蛯沢集会所の慰霊堂。この時期は慰霊碑はまだ建立されておらず、被災地にあった石仏等を集めて慰霊碑にしていた。クリスチャンである先生は雨にも関わらず帽子をとり合掌していた。

 下写真右は、集会所の裏にある製塩所跡。福浦地区はかつて地名どおりの浦で、この辺りまで海が入り込んでいた。満潮時にこの横穴に海水を汲み、煮沸して塩を取っていた。震災には関係ないが、海の恵みによって生きていた漁村の習俗に触れてほしかった。

 小高駅前。この頃、常磐線はまだ修復中で、駅は閉鎖されていたが、町民の帰還は始まっていた。ただし商店は少なく、駅前では上写真右の東町エンガワ商店くらいだった。(現在は役割を終えて撤去)

 店内でコーヒーを飲みひと息入れる。その後、ついでに私の実家を訪ねてみる。折良く両親が家にいた。まさか、大作家とうちの父親が庭先で立ち話をする光景を目にするとは思わなかった。(避難解除はこの年の7月だが、両親は帰還準備で2日前に仮設住宅を引き払い入居したばかりだった)。

 この後、若松丈太郎氏(故人・南相馬市を代表する詩人)と合流し、閉鎖中の埴谷島尾文学資料館を開けてもらい、展示を見学する。偶然にも小高区を訪れていた渡辺一枝氏とも出会った。展示されていた、かつての文学仲間の集合写真を先生は食い入るように見て、思い出を語っていた。私は話を聞くことに専念しようと、画像も動画も撮らなかった。いま思うと残念。

 翌日、飯舘村の奥部、蕨地区にある減容化施設(廃棄物の焼却炉)を視察。ここはかつて、酪農のための牧草地があったところ。となりに共同墓地があったが、除染で樹木は伐採され、地面はシートで覆われていた。これも一種の荒廃であり、先祖を大切にしてきた村人の思いを踏みにじるものだと思う。

 豊田氏から説明を受ける加賀先生。朽ちた墓標が歴史を物語っている。うしろの斜面がかつて牧草地だった。

 浪江町の海辺の集落、請戸地区へ。昨年(2015年)はまだ漁船が打ち上げられたままになっていたが、すべて撤去されて、夏草に埋もれて民家の土台のみが残っていた。

 請戸小学校。この頃は規制がゆるく、自由に入れた。

 この時、先生が口を開けながら撮っていたのは、下写真の壊れた時計。先生が何に関心を寄せ、何を撮っていたのか、できたらその写真を見たいものだ。

 その後、浪江駅前に移動。浪江はまだ避難解除されておらず、壊れかけた街並みが残っていた。いまではほとんど撤去されて更地ばかり広がっている。傷ましい光景ではあるけれど、懐かしさも感じる。

 浪江駅。右下に移っているバスは、線量が高いために震災以来ずっとここに置かれていた。いまでも走れそうだが、よく見るとタイヤの空気が抜けている。

 先生は疲れて車から降りてこなかった。かなりのハードスケジュールだった上に悪天候が続き、口には出さなかったが相当無理をしたのではと思う。わたしも無慈悲であった。下の写真は、戦後のヒット曲「高原の駅よさようなら」の歌碑。作曲家が浪江町出身ということだ。この歌碑の前で歓談し、視察旅行は終わり。うしろに映っている街並みもいまは消滅している。人も町もはかない。失って初めて大切さを知る。

 加賀乙彦略歴

 1929年、東京生まれ。東京大学医学部卒業。東京拘置所医務技官を務めた後、精神医学および犯罪学研究のためフランス留学。帰国後、東京医科歯科大学助教授、上智大学教授を歴任。代表作「フランドルの冬」「死刑囚の記録」「宣告」「湿原」「永遠の都」「雲の都」「帰らざる夏」など多数。

(参考 「ある若き死刑囚の生涯」より)

 なぜ私が加賀乙彦先生を「日本文学の巨星」と呼ぶのかというと、十九世紀末西洋文学のゴシック的雰囲気を漂わせながら、時代精神を切り取っていく大柄な作風が多かったからだ。精神科医であり、また敬虔なクリスチャンだったこともあり、自身が生きた戦中戦後の時代を市民の視点から、強さも弱さも、美しさも醜さも容赦なくえぐり出し、しかしながら人間賛歌として謳いあげる力量は、ただただ敬服するのみである。

 先生のデビュー作は『フランドルの冬』。これは太宰治賞に応募し候補作に上った作品だが、応募した原稿は前半のみで、その後、後半を書き加えて完全版として出版したものが評価された。私が先生と出会った時、私は作家として崖っぷちにいたのだが、私が太宰治賞を受賞していることで、先生は縁を感じて目をかけてくださったのだと思う。

 私が脱原の会を退会した理由は、一口で言えば、会の活動の実態と私個人が目指す活動との差違が、震災から年月を経るにつれ無視できないほど開いてしまったためだった。会に対しては恩義を感じているし、会の存在なくしては、いわゆる「震災文学」を私は書けなかったかもしれない。それは認めても、会員であることのメリット以上に負担の方が大きくなってしまっては、脱会するしかなかった。先生に対しては申し訳なかったと思う。これからも福島を書き続けていくという決意を表明することで、先生への謝意に変えたい。