■
『活字の森の迷い方』
2月23日(日)小高古本店 談話会記録
人口約5000人の小高町(南相馬市小高区)に、昨秋、なんと古本屋がオープンしました。
日本文学とガロ系(つげ義春など)や楳図かずおの漫画にあふれた、店主の趣味性があふれた昔ながらの古本屋です。「小高幻流」発行人で小高学講座を主催しているすぎた和夫さんの発案で、2月23日、店内でトーク会を催しました。これはその講演録です。

すぎたさんがデザインしたポスターです。知ってる人なら一目瞭然、つげ義春作「ねじ式」のパロディですね。つげ義春的自分のイラストに仰天。背景は小高古本屋の店内。
「活字の森の迷い方」というタイトルは杉田さんが考えたものです。素敵なタイトルですが、はて、どうして皆さんを迷わせたらいいのか、その時点で迷ってしまいました。そこで、自分が作家になるまで、どんな迷い道を歩いてきたかを話すことにします。
1 小学時代の僕とタイムカプセル
小説家になりたいと最初に考えたのは小学5年生の時です。
山本有三の『路傍の石』という児童文学を読んでえらく感動したのがきっかけです。
小説家って、極端な話、地球の裏側に住んでる人たちや、自分が死んだ後の未来の世代の人たちにも感動を与えることができるんだ、すげえ職業だって気がつきました。
ある意味、自我の拡大ってやつです。小学5年って思春期の入り口で、自我に目覚める時期じゃないですか。僕の場合、自意識がビッグバンを起こしたようなものでした。
ここに小学6年生の時の作文があります。これは小高小学校創立百周年のイベントで、タイムカプセルに入れた作文です。20年後にカプセルを開く予定だったので、タイトルは「ぼくの二十年後の予定」です。

夢でも希望でも目標でもなく、「予定」なんです。
出だしは「えーと」です。「エーと20年後は、20+12=32だから32歳」で始まります。子どもの作文としては画期的ですよね。
3枚半あるんですが、半分は冗談で占めています。死に方まで書いてあるんですよ。これによると僕は、71歳で、山本幸太郎(同級生)に借金を責められ、挙げ句の果てに殺されることになってます。バカですね。笑わせてやろうという目的意識だけで書いてます。
後半から、「小説家になってやろうと思う」と本当の夢について書いてます。
でも夢じゃないんですよ。タイトルが「二十年後の予定」ですから。夢とか目標とか曖昧にしたくなかったんです。僕が小説家になるのは「予定」であって、決定事項なんです。
どうすれば小説家になれるのかなんて、全然考えてませんでした。もちろん現実は厳しいですよ。競争があるなんて知りませんでした。僕の家は米屋だったので、生産者がいて小売店があるというふうに、ごく単純に世の中の仕組みを考えていました。
この作文がタイムカプセルに収められて、20年後に開かれたわけですが、そのイベントに僕は出席しませんでした。その時点で、僕は小説家になっていなかったからです。
32歳の頃は、僕は本屋で働いてました。働きながら小説を書いて新人賞に応募していましたが、二次予選まで通過して落選の連続でした。「予定」とまで書いたのに、20年前の自分との約束を破るようで、というか裏切るようで、怖くて作文を読めなかったんです。
僕はずっと、作文の締めくくりは「20年後の僕は小説家になっている」だと思い込んでいました。
作文を読んだのは35歳になってからです。
きっかけがあります。35歳の時、僕は胃癌になって東京で手術を受けました。
レントゲン写真に映った僕の胃袋は、これでよく生きてたなって、びっくりするくらいグチャグチャだったんです。まるで潰れたトマトみたいでした。
幸いにして余命宣告は受けなかったんですが、抗癌剤の副作用が酷くて、実家に帰って養生していたのですが、寝てても起きてても辛くなって、原町の市立病院に再入院することにしました。
ある夜、お腹が痛くて痛くて、ナースコールを押しました。看護師さんがやって来て、座薬の鎮痛剤を入れてくれました。いつもは自分で座薬を入れるんですが、その時はどうでもよくなっていたんです。
翌朝です。お医者さんが回診に来ました。一緒に、昨夜の看護師さんも来ました。
その彼女が、「志賀君、私のこと覚えてる?」とマスクを取りました。なんと、看護師さんは小中学時代の同級生だったんです。恥ずかしいというか、ただびっくりですよ。子どもの頃はまさか、彼女にお尻の穴を見られる運命にあるとは、思ってもみませんでしたから。
実は、その看護師さんが、タイムカプセルを開ける儀式に参加していて、僕の代わりに作文を受け取っていた人だったんです。
「志賀君の作文、面白かった。普通じゃない」と彼女が褒めるので、読んでみようかという気になりました。その作文は実家に置いてあったんです。
東京に戻ってから読みました。
するとね、作文の締めくくりは「僕は小説家になっている」じゃなかったんです。
記憶違いでした。書いてあったのは、「なーに人生は長いんだ。20年後を目標にやってみて駄目だったら30年後を目標にすればいい。長い人生、なんとかなるさ」だったんです。

諦めるな、頑張れって、小学校時代の自分に励まされた思いで、胸が熱くなりました。これからは生きてりゃいいんだ、くらいの気持ちでいましたが、また小説を書き始めました。なんとかなりそうな気がしたんです。
そして本当に30年後、ほぼほぼ30年後ですが、太宰治賞をいただいて小説家になったわけですから、人生って本当に、生きてみるものですよね。
今は絶望してても、この先、何が待ってるかわかりませんから。
2 書店で働いていた頃
32歳の頃に勤めていたのは、東京の小平市にある「松明堂」という駅前書店です。雇われ店長でした。本屋って薄利多売の商売ですから、ほんとブラック企業ですよ。
実は柳美里さんがフルハウスを始める時に、経験を買われて一緒にやらないかと誘われたんですが、どうなるか先が読めたので断りました。
賃金トラブルの不安もありましたけど、ああいうオーラの強い人の下にいると、そのオーラに支配されて抜け出せなくなる怖れがあるんです。経験がありました。僕が勤めていた「松明堂」という本屋は松本清張の次男が経営していたんです。
何も知らないで就職しました。面接の時に社長を見て、個性的な顔だなと思いましたが、松本清張そっくりだったんです。特に下唇が。
松本清張とも何度かお目にかかりましたが、ものすごいオーラでした。82歳で亡くなりましたが、亡くなってからもオーラが残っている感じがありました。
「松明堂」で10年くらい働いていましたが、だんだんね、松本清張のオーラに支配されているような気がしてきました。このオーラの中ではずっと社長の下に置かれる。オーラの外に出ないと作家になれないんじゃないかと思えてきたんです。
理屈に合わない考えですけど、その店を辞めたらアッという間にデビューしましたから。とにかく、教訓として、オーラが強すぎる人には警戒しろと学びました。


僕は店長をしていました。「松明丼」という、新刊案内のフリーペーパーを作ってお客さんに配ってました。ワープロ印刷の文字と手書き文字がごちゃ混ぜの手作り感あふれるフリーペーパーです。新刊案内の他に書評やエッセイも書きました。
四コマ漫画もあります。「働く本屋さん」という漫画で、僕が本屋の仕事で体験したことを元にラフを描いて、漫画家のセミプロがアルバイトにいましたので、彼女に仕上げてもらってました。総集編もあるんです。なかなか評判がよかったんですよ。

近くに武蔵野美術大学があった関係で、美大生のアルバイトが多かったんです。美大生にイラストを描いてもらったり、好き放題にやってました。時代もよかったんです。
バブルが弾けても書店では好景気が続きました。暗い世相じゃなかった。サブカルチャー全盛期で、ニューアカデミズムの流行もあって、本屋は活気づいていたんです。
だから出版社も本屋も、いろんなチャレンジが出来たんです。その店には地下にギャラリーがあって、会場の設営や作品を展示するのに僕も手伝っていましたから、いろんなアーティストやミュージシャンと交流できました。本当に、贅沢な経験をしていました。
ところが90年代末になると売れ行きがどんどん落ちていって、とうとうリストラされました。僕も40歳を過ぎて、そろそろ限界を感じ始めた頃だったので、いいタイミングだったんです。
3 日本中を貧乏旅で歩いた
もうこれから先、俺はやりたいことしかやらないって覚悟を決めました。
やりたいことは三つです。
ひとつは髪を伸ばすこと。肩まで髪を伸ばしました。
ふたつめは日本全国を貧乏旅で回ること。民俗学のフィールドワーク的なことをしたかったんです。寝袋を持って、野宿しながらかち歩きするスタイルに憧れました。
みっつめは出版社を立ち上げてフリーペーパーを作ることです。ただ旅をするだけじゃなくて、ルポタージュを書いて発表する場を自分で作ったわけです。
旅を始める前に、これが最後と決めて、前に落選した小説のタイトルだけ変えて、別の新人賞に送ろうと考えました。それが『指の音楽』です。
300枚です。それだけの長編を受け付ける新人賞はあまりないんです。
僕はずっと河出書房新社の文芸賞に応募していました。他に300枚の新人賞はないかとネットで調べて、筑摩書房に太宰治賞があるんだと、初めて知りました。ダメ元で原稿を送ってから、旅を始めたんです。
ぜんぜん期待していなかったし、旅が面白くて仕方なかったので、応募したこと自体、忘れていました。夜の間に徒歩で移動して、朝方の2,3時間、適当な場所で寝袋で眠って、昼間に活動する。一日に50キロは平気で歩いてました。不審人物として警察に通報されたこともあります。
かなりハードでしたが、精神的にも肉体的にも自分を追い込んでいきました。いまみたいに、ネットで何でも調べられる時代では、まだなかったんです。自分を追い込めば追い込むほど、神経が研ぎ澄まされるんです。そうするとラッキーな偶然が舞い込んでくるんです。こっちも、何かアクションを起こさないとルポルタージュが書けないので必死ですよ。
取材を断られて、どうしようか途方に暮れていたら、偶然にわか雨が降ってきたんで、これ幸いで、「雨宿りさせてください」と断って、軒下にずっと立っていたら、家の中に入れて貰えたりね。
正直、いつ野垂れ死んでもかまわないやって思ってました。それくらい幸せだったんです。
人生で、いちばん自由で、幸福な時期だったかもしれません。
いまでも覚えているのは、瀬戸内海の島を歩いていて、海に落ちていく太陽が本当に見事だったんですね。「ああ、あの太陽を抱いて死にたいなあ」と本気で考えました。
でも人間って、なかなか死なないんですよ。

「パシュラル出版」という名称は、詩人のガストン・パシュラールから。「ひらら」という誌名は、沖縄県の宮古島にある「平良(ひらら)市」から。語感がいいのと、宮古島に惚れ込んだのが誌名にした理由。4号の旅のあとに太宰治賞をとり、記念号を出してから5巻の東北の旅で終了。創作に専念するため出版社を閉じた。
沖縄から旅を始めました。とにかく不安でいっぱいだったのですが、沖縄の人や風土に触れて勇気づけられた。そこで、沖縄に恩返しをしようと思い、辺野古の基地反対運動に関わりました。ただし左翼的な政治活動は抵抗があったので、絶滅危惧種のジュゴン保護活動をしている団体に参加しました。定期的に定点観測会を開いて、通称「ジュゴンの見える丘」で大学生と一緒に一日中海を眺めたり、東京の街をデモ行進したり。楽しかったですね。

左は活動記録ノート。いよいよ機動隊が乗り込んでくるというので、スクラムを組む練習もしました。結局はぐらかされてしまいましたが。右は琉球新報に載った僕の記事です。活動は非暴力を徹底していました。地元の人ともたくさん交流ができて楽しかったし、政府が国益と称して地方を踏みにじるやり口を学んだことも大きかった。
4 筑摩書房から電話
あっという間に一年近くたって、和歌山県の新宮市で、尊敬している作家・中上健次のお墓にお参りして、ついでにお墓の玉石を一個いただいて、いったん東京に戻りました。
帰った夜に、筑摩書房から電話がありました。こっちは太宰賞に応募したこともすっかり忘れていたので、てっきりフリーペーパーを読んでくれたのかな、原稿依頼かな、と勘違いで舞い上がったくらいです。
筑摩の編集者の第一声が「ああ、よかった」ですよ。
「太宰治賞の最終選考にノミネートされています。急いで原稿を書き直してください。本当は二週間の余裕があるのですが、電話が繋がらなかったので締め切りまであと一週間しかありません」という話でした。ほぼ全体にダメ出しをくらいました。三日かけて原稿を書き直してメールで送りました。
するとその夜に担当の編集から電話が掛かってきました。「何なのこれ、前より悪くなった」と、本当に怒ってるんです。
それから、残り三日間、徹夜で書き直しました。コンビニで弁当を買ってきて食べるとき以外、パソコンから離れませんでした。
締め切りの朝、ようやく書き上げて編集に送ろうと思ったら、いきなりワープロソフト(一太郎)が壊れました。送れなくなったんです。呪われてると思いましたね。今のようにネットでソフトを購入してインストールする時代じゃありません。午前10時に近所のパソコンショップが開くのを待って、最新バージョンの一太郎を買って、急いでインストールして、原稿を筑摩に送りました。ぎりぎりセーフです。
メールの送信ボタンを押して、送信済みを確認した途端、眠りに落ちました。眠るというより気絶です。
これだけ頑張ったんだからもう、受かろうが落ちようがどうでもいいや、という気持ちでした。
目が覚めたら部屋の中が真っ赤に染まっていて、朝焼けかと思ったら翌日の夕焼けでした。一日半眠り続けていたんです。
それから何日かたって受賞したという電話が入りました。こうして作家デビューしたわけです。
5 僕が作家になれたわけ
振り返ってみると、自分が作家になるポイントって三つあったと思います。
一度目は、いまこの古本屋がある場所にまつわることです。僕が中学二年まで、好きだった同級生の女の子の家があった場所が、まさにここなんです。
歌のうまい子で、近所だったので彼女が学校を休むと給食のパンを届けに行ったこともあったんですが、彼女の歌声がね、家の外にまで聞こえていました。
どうして彼女を好きになったのかというと、「志賀君は小説家になれるよお」と言ってくれたからで、周りにそういう肯定的なことを言ってくれる人が一人もいなかったので、コロッと参っちゃったわけです。
その子の父親は埼玉県で仕事をしていて、生活の条件が整ったので家族を呼び寄せることになり、転校しました。クラスでお別れ会があって、彼女は歌をうたいました。井上陽水の曲です。「桜三月散歩道」と「小春おばさん」。それまで歌謡曲しか知らなかった僕には衝撃でした。それから、親に頼んでギターを買ってもらい、僕はフォーク少年になりました。
フォークの何に惹かれたかというと、歌詞に惹かれたんです。現代詩を読むように、歌詞を読んでいました。フォークを入り口にして、日本語の表現の幅の広さを知ったんです。デビュー作を読んだ読者が、SNSで「初期の井上陽水を思わせる文章」と書いてあったのを読んで鳥肌が立ちました。それだけ身体に染みついていたんです。
ですから、遠回りではありますが、僕が小説家になれたのは彼女のおかげです。彼女の家があった場所でこうして話しているのも、不思議な因縁ですよね。
二度目はガン体験です。「死」というものに正面から向き合った経験。「死」について考えるとは、自分の「存在」について考えることですから。
手術の前の晩、自分の人生を振り返って、いろんな場面が映画のコマオトシみたいにパタパタパタって頭の中を流れていって、最後の最後に小高の海が現れて止まったんです。
海面に銀色の光りが散って、キラキラ輝いていました。あの光景は今でも鮮明に覚えています。
「ああ、この海を抱いて死ぬなら、死ぬのは怖くない」と思いました。ある意味、恍惚感に浸っていました。あの経験って大きかったと思います。
手術は1995年の3月20日で、地下鉄サリン事件の日です。僕は何も知らなかったんですが、翌朝、目を覚ましたら父親が病室で新聞を広げていました。十人以上の死者が出た大変な事件で、自分の手術なんか消し飛んじゃうくらいの衝撃を受けました。僕は書店で働いていた関係で、オウム出版(オウム真理教出版部)の本の営業に来た信者と何度も話をしていたので、(空中浮遊を見たことはあるのか、麻原の予言を本気で信じているか等)まるきり他人事でもなかったんです。
でもそれ以上に、自分の個人の死と社会的な不特定多数の死とを相対化することが出来たことが、経験としては大きかった。その経験があったから、東日本大震災の死者たちと、自分なりに向き合えたのではないかと思います。
もう一つは、日本を旅して歩いた経験です。
沖縄のジュゴン保護活動の他に、九州では水俣病患者や支援団体と交流して、石牟礼道子さんともお会いしました。四国では、あの当時、高齢化率日本一だった瀬戸内海の島を訪ねて、その島に住むお年寄りの精神的な豊かさに感動しました。お寺が島の精神的支柱の役目となり、島民のために狂言や落語会、映画上映会を開いていたんです。
その旅を通じて実感したことは、人間は、その土地の風土によって作られるということです。人間は個人として生きているわけじゃなくて、自分が生まれ育った土地の、自然とか歴史とか、先人たちの思いに育まれながら生きている。それは強く感じました。
旅の体験があったからこそ、福島第一原発の事故が起きて、自分独自の視点を持って、小説を書き続けてこれたんじゃないかと思います。
奄美大島では島尾ミホさんの家を訪問しました。今日は、『東北と奄美の昔話』という島尾敏雄の本を持ってきました。付録として、島尾ミホさんが奄美の方言で昔話を録音しているソノシートがあります。再生するプレーヤーがないので僕もまだ聴いていません。すぎたさんがプレーヤーを持ってきてくださったのでみなさんと聴きたいと思います。

なんだか、死者の声を聞いているような感覚になりませんか。
でも、古本がそもそも死者の声かもしれません。
古本屋に入ると、僕はほっとするんです。新刊書店は、精神的にちょっときつさを感じる。一冊一冊の本が、買え買えってアピールしているような、押しつけがましさを感じて疲れるんです。
古本屋の本にはそれがないんです。棚から抜かなくても、背表紙を眺めているだけでも気持ちがいいじゃないですか。思い出の本に出会えたら、懐かしさにぽっと心が温かくなりますよね。それも古本屋の楽しみ方です。
小高は文学の故郷ですから、その小高に古本屋ができたのは意味のあることです。
古本屋は、新刊書店と違って、その町の人が育てていくもの、作り上げていくものです。町の人が、自分の持っている本を古本屋に売って、その本が古本屋に並んでいくことで、町の特色が生まれていく。そういうものです。
この古本屋をいい店にしましょう。そのためにはみなさんが自分の本棚から、自分はもう読み返さないけれど、他の人に読んで欲しいという本を選んでこの店で買い取ってもらうことです。しかし買い取ってもらうためにはこの店に経済的な余裕がなければいけません。
だから一冊でも買って帰りましょう。経済的な成長ではなく、文化的な質を高める成長のためです。
小高町をいい町にしていきましょう。
■
『いなかぶり』小論
― 島尾敏雄にとって小高とは?
1 はたて
「波はどんどんふくれ上がって来た。」
『いなかぶり』はこの、死の予感を暗示させる不吉な一行から始まる。
「都会の子」である主人公の少年「思無邪(シムヤ)」が父母の故郷である小高町(現南相馬市小高区)に滞在し、母方の祖母「ばあさん」と海岸線を「ぶち切る」ように盛り上がった小さな丘を抜けようとして、波が打ち寄せる崖下の荒磯を歩く場面。
現実には「村上の舘」と呼ばれる丘を、作中では「はたての丘」と呼称している。土地をよく知るばあさんが、「満ち潮のさかり」の時間帯に、なぜわざわざ危険なルートを選んだのか。
「角部内の浜から村上の浜に行くのに、丘の上をぐるっと迂回するよりは何倍も近かったから」というのが理由だが、現地を知る者ならここで疑問を抱くはずだ。
現実の地形を見るなら、高齢の女性と少年が歩けるような場所ではない。丘の上を歩く方がはるかに安全で、しかも早い。危険を承知で崖下を歩く方が丘を超える道より「何倍も近い」ということはあり得ない。島尾はなぜここで「偽り」を書いたのだろう。
いや、この「偽り」こそが、『いなかぶり』という小説が小高町の地名をそのまま用い、幼少期の思い出を書き綴ったように見せかけながら、実は虚構(幻想)の世界であることを示している。では、なぜ島尾は二人にわざわざ危険極まりない道行きを選ばせたのか?
「このようにして人は遭難! するのかも知れないのだ。そうだ、僕は遭難! するのかも知れない。今は何も用意はしていないのに」
荒磯を歩きながら、波に呑み込まれるかもしれないという死の恐怖に怯え、思無邪はこのような事態を招いたばあさんを恨む。
自分の選択ではない、いわば運命の力によって死に脅かされている心理描写を読む時、これが特攻隊長として奄美の加計呂麻(かけろま)島呑之浦(のみのうら)に配属され、不可避的な死を意味する出撃命令を待っていた、島尾の戦争体験を比喩的に表現したものだと推測するのは難しくない。
筆者(志賀)は二十数年前に呑之浦の特攻基地跡を訪ねたことがある。
入り江に面した山裾に、特攻船震洋を隠す横穴がいくつも掘られていた。その基地から、恋仲になった島の娘ミホの住む集落へ行くには山ひとつ超えなければならないが、磯伝いに歩けば、大きな岩がごろごろ積み上がった難所ではあるものの、はるかに早く集落の浜に行き着ける。そしてこのルートは、特攻隊に出撃命令が下った日の夜、ミホが島尾に会いたい一心で(共に死のうと決意して)歩き通し、基地に辿り着いたルートでもある。実際、筆者も歩いてみたが、入り江なので波はほとんどなく、足場は悪くても女性の足でも歩けないことはなかった。ただ、深夜にここを歩くのは無謀に思えた。
「はたての丘」の崖下の荒磯とは、実は呑之浦の磯ではなかったか。島尾にとって、村上の荒磯が実際に歩けるかどうかは問題でない。呑之浦を彷彿とさせる地形を村上の海岸に発見した。そのことが重要なのだ。島尾の頭の中で呑之浦と村上は重なり合う。
だからこそ、島尾は村上の舘を「はたての丘(果てと舘の組み合わせ)」と呼んだ。その呼称は島尾が自らの戦争体験を書いた初期作品のタイトル『島の果て』(1946年)に通じる。どちらも「果て」であり、その意味するところはこの世の果て、死と隣接した場所だ。
だとすれば、無事に荒磯を渡りきり向こう側の浜に辿り着いたあとで思無邪を襲う、死を逃れた虚脱感の意味も変わってくる。
「へんてこな、狐につままれたような違和の感じ」
「村上の浜に渡りきった時に、どっと押し寄せた安堵と共に、せつなく今過ぎてきた危険地帯をなつかしく思ったことが、白く回想される」
「遭難するかもしれなかった荒々しい大きな運命の渦巻きが、そっぽを向いて遠のいてしまった。」
この心理描写と、『出発は遂に訪れず』(1962年)で終戦の詔書を聞いた直後の「私」の心情を対比すると、同じ心境を違う言葉で表現していることに気がつくだろう。
「死の方に進まなくてもいい生きのびられる世界は、色あせて有りふれたものにしぼんでしまい、そこで手ばなしで享受できると考えた生の充実は手のひらの指のすきまからこぼれてしまったのか」
「それらの可能性が自分の意思の結果としてでなく、自然現象のように去ってしまうと、そのあとに空虚が残り、新たな局面に出かけて行って対処するエネルギーが生まれてこない」
『いなかぶり』が発表されたのは1951年。終戦から6年を経ている。
南島で終戦を迎え、父のいる神戸に復員した島尾を追って、翌年にミホが本土に渡り二人は結婚する。しかし特攻隊長と南島の娘の、死の緊張感とロマンティシズムに彩られた恋愛は、都会に置き換えられられるとたちまち色褪せてしまう。
戦時中、島民の眼には「軍神」と映った島尾は、戦後の虚無感を抱えた貧乏作家となり、島の娘ミホは慣れない都会生活に打ちひしがれていく。1952年、島尾は本格的な作家生活を目指して上京するが、その直後から夫婦生活はすさんでいき、島尾の浮気が露呈するのを機にミホの精神は異常をきたし、『死の棘』(1960~76年)に描かれたような家庭の修羅場が始まっていく。
『いなかぶり』は、島尾が戦争体験を経て修羅場の夫婦生活に移行していく、過渡期の心理を描いた小説として位置づけられるだろう。
2 たんぼ道
島尾にとって小高町とは、どのような意味合いを含んだ土地だったのだろう。
島尾は1917年に横浜で生まれた。1923年の関東大震災で横浜の生家は全焼している。病弱だった島尾は小高町で静養していたために被災をまぬがれた(両親は福島市にいて無事だった)。横浜にいたら死んでいたかもしれない。自分が生きているのは偶然そうなっただけ。死ぬべきだった自分が偶然の作用で生き延びているという心理は、特攻隊として南島に配属され、一度は出撃命令が下されるもそのまま敗戦を迎えた時の心理に重なる。
小高町にいたために生き延びたのなら、小高町は救いの土地と意識されてもよさそうなものだが、それよりも強く、小高町は死の不安と結びついてしまう。特攻体験が、ミホの生まれた南島に死の影を色濃く落としてしまったように。
いや、幼少期の思い出が詰まった愛すべき故郷、小高町が、特攻体験を経てからそのように変質してしまったと考えるのが妥当だろう。しかし、まさにそのことが島尾にとって小高町が、単なる両親の故郷、幼少期の思い出がある故郷であることを超えて、魂の原郷であるかのように意識されたのではなかったか。
『いなかぶり』の中盤、村上部落からばあさんの家(母の生家)に帰る田んぼ道では、島尾が比較的素直に幼少期の無垢な記憶を懐かしんで書いているような描写が続く。
「傍の小川に浮いている藻草の花。魚の影。ゲンゴロウやミズスマシ、ゴマ虫、アメリカ、ベッチョ虫。稲の葉かげにすっと身をかくすイナゴ、トンビの輪、たんぼに降りて来た鴉。」
土地の方言や田舎の子の遊びも交えた描写が何行も続き、ばあさんは「昔の有職故実に似た話柄を思無邪に話して聞かせる」。幸福感に満ちた場面だが、この場面だけ、大人になった作者が素顔をのぞかせているような、郷愁に浸りながら書いているような雰囲気が見え隠れする。たとえばばあさんの話をノートに書き留めようと思いつき、
「大百科事典さえある世の中なのだから、本気で勉強する気になった時に、しらべさえすれば、きっとどこかの書物に書いてあるという錯覚がそこにある」
というふうに。この計画は『いなかぶり』から22年後の1973年、『東北と奄美の昔ばなし』という本に結実する。
本当は、島尾は『いなかぶり』を郷愁にあふれた幸福な小説として書きたかったのではないか。しかしいざ書き始めると宿命のように死の影を落とし込んで書いてしまうところに島尾文学の特質がある。しかも『いなかぶり』というタイトル自体が、「田舎人のふり」つまり田舎の子のように振る舞いながらそこに違和を感じ、疎外感を表出してしまっているではないか。幼少期の記憶からも一歩引いて眺めてしまう表現は、文学的な性質というよりは作家自身が離人感、あるいは離魂病にとらわれているように思えてならない。
「いつ来てもいなかは骨董品のように思無邪の眼の前にすすけて現れ、思無邪は昔のおもちゃ箱をひっくり返したような、せつなく、そして恥じらいの伴ったなつかしさのとりこになる」
ここで「せつなく」「はじらいの伴ったなつかしさのとりこ」になっているのは少年思無邪ではない。大人になってこれを書いている島尾自身なのだ。
3 藁しべ
『いなかぶり』の後半は、ばあさんの孫娘おキイとの性的な遊びが描かれていく。
おキイは田舎娘を通り越して古代的な、あるいは古事記的な、奔放な性を体現した少女として描写される。大人たちにはやされ、電灯の下、素裸で踊るおキイはほとんど、天岩戸の前で踊るアメノウズメノミコトではないか。
「おとなたちが面白がってはやしたてると、おキイは口をとがらせ、わざわざ低燭光の電燈の下まで出て行って、手をあげ、お尻を振って踊った。」
というふうに。
ばあさんと村上の浜で漁師たちに出会った場面では、
「ただ漁師の股間の先っちょを藁しべで結んでいる奇妙さは、ちょっとばかり忘れ難い、眼にしたことがらであった」
と、古代人そのもののような漁師の風俗に眼がいっている。
そして「シムヤ」という主人公の奇妙な名前にも古代的(蝦夷的・アイヌ的)な響きがあり、「思無邪」という漢字表記も万葉仮名を彷彿とさせる。
昔話を語って聞かせるばあさん(母方の祖母、キク)は古代の「語り部」を思わせるし、彼女が語って聞かせる小高の「大蛇伝説」には古事記の「八岐大蛇伝説」を思い出しただろう。
結論を急げば、島尾にとって小高は古事記的世界だった。文学青年だった島尾が古事記に耽溺していたのは有名な話で、特攻隊長となって加計呂麻島に配属された時も古事記を携えていたし、島の風土に古事記的世界を感じ感激してもいる。古事記的世界という共通項で奄美と小高は重なるのである。(後年、島尾は「日本列島を二つ折りにすれば南島と東北は重なり合う」という独自の説を唱えている)
小高の思い出を書きながら、そこに奄美の記憶を忍び込ませていくのは、島尾にとっては不自然なことではなかった。
祖母の家で、「いつも鼻をたらして赤いちぢれた髪の毛にしらみをわかしていた」いとこのおキイを軽蔑しながら、真裸になって性的な遊びに興じるのを止められない。
「オトコトオナゴマーメッチョ。その言葉がきりきりと思無邪に襲いかかる。(中略)いけない。そう思いながら、思無邪はだんだん大胆になっていく」
ここには、結婚したミホが純粋無垢な島の娘ではなくなり、性的な肉体を持った女性として自分を搦め取っていくことの戸惑い、怖れが比喩として表出されているのではないか。
一方で、「どこか町方の娘らしい」「鉄道工夫の組長の娘のキヨミ」の垢抜けた清楚な容姿に「不思議なときめきを感じ」ている。キヨミは誰の比喩なのか。加計呂麻島で出会った頃のミホではなかったか。
結婚したミホと性的な関係を結びながら、無垢な娘だった過去のミホを慕う。この分裂した愛情がやがて夫婦間の亀裂となり、齟齬をきたし、『死の棘』の修羅場へと入って行くことになる。
4 うすばかげろう
『いなかぶり』は、「(はたて、藁しべ、たんぼ道、うすばかげろう)」と、呪文のような謎の言葉で締めくくられている。
「うすばかげろう」は蟻地獄の成虫であり、ここでは「べーゴ虫」と方言で呼んでいる。べーゴ虫は「毛深くて、不釣り合いに大きな尻を蠕動させてあとずさるのがなんとも言えず滑稽なのだ」。それはお尻を振って踊るおキイそのものだろう。ベーゴ虫(蟻地獄)はすり鉢型の穴の底にひそみ、成長して美しく儚いうすばかげろうになる。
それはまさに、『死の刺』に書かれた地獄を予感させる呪文ではないか。
5 まとめ
『いなかぶり』は島尾文学において比較的地味な作品として扱われているが、その内実には怖ろしいものを秘めている。幼少期の思い出を懐かしんでいるように装いながら、特攻隊長として戦死できなかった空虚感、戦後社会になじめない疎外感、夫婦関係の危機感がどうしようもなく書かれている。どうしようもなくとは、懐旧の情にあふれた小説を書こうという作者自身の意図を裏切ってまでも、作者の抱える実生活の不安・怖れが文章に影を落としてしまうという意味だ。
島尾敏雄が小高を愛していたのは間違いない。だからこそ、『死の棘』においては精神を病んだミホとの生活を立て直そうとして、小高への移住を目論んだのだ。しかし結果的には、自殺する場所を探すミホを追い、共に死のうと誓い、さまよう羽目になる。
小高は島尾敏雄の故郷であること以上に、文学的な原郷である。
奄美大島で島尾と交流のあった詩人と出会い、話を聞かせてもらったことがある。
「島尾さんは風呂に入りながらよく、千昌夫の『北国の春』を歌っていたよ」という思い出話が忘れられない。精神病院を退院した妻の心を癒やすために奄美大島に移住したが、島尾の心には常に故郷小高があったのだろう。
『爆心地ランナー』取材画像集(2)

『爆心地ランナー』を読まれた方、これから読もうとする方、ありがとうございます。ここでは収録された2作のうち、「こんなやみよののはらのなかを」の取材画像を紹介します。
「こんなやみよののはらのなかを」(略して「こんやみ」)は、震災当時双葉高校の在校生だった女性を主人公にしています。震災から聖火リレーまで、彼女が経験した10年間を通して、震災と原発事故は人の心に何を残したのかを問う作品です。
双葉高校は私の母校でもあるので、書いているといろんなことが次から次に思い出されて楽しく、同時に苦しかった。これ以上のものは当分書けないかもしれない。

P52「校庭の向こうに前田川が流れ、土手の桜並木は殺風景だけど、小さな蕾が開花にそなえて力をたくわえていた。この時機の蕾たちは「萌えろ、萌えろ」と呟き交わすようで楽しい。あと十日もすれば呟きは「まだか、まだか」になり、「咲くぞ、咲くぞ」に変わるのだ。」

手前が前田川。奥に見えるのが双葉高校。


物語は、双葉地方を聖火ランナーが走る2021年3月25日の前夜、つまり24日から始まる。震災と原発事故から10年後の年だ。10年間空き家だった我が家の蔵書を処分しようと、「わたし」は古本屋に出張買い取りを依頼する。
この家にはモデルがある。浪江町のT君(男性)の家だ。蔵書の出張買い取りの様子を私も横で見ていた。この経験を物語に活かしている。現実の古本屋に平賀さんのようなエキセントリックな人は(たぶん)いない。数十年分(欠本なし)の「暮らしの手帖」をごっそり一冊残らず買い取っていった。


P76「田んぼを埋めて造った住宅地だから、住宅が消えてしまうと風景は妙にフラットだ。(中略)世界中から人が消え、自分だけ取り残されたような、とびっきり寂しい夢が、わたしのいまいる場所」

P76「西の彼方に阿武隈の山並みが見える。夕陽が稜線を裏から照らし、でこぼこしたシルエットが牛の背中みたい」

校舎が解体され、児童の像だけが残された浪江小学校。物語には登場しないが、主人公の「わたし」もこの学校に通学していたはず。現在の浪江町を象徴する場所だ。


取り壊しが数日後に迫ったT君の家に無理を言って泊めてもらった。この時点では小説の構想も何もなかった。ただ、十年間空き家だった家で夜を過ごし何を感じるか、自分の身体で試したかったのだ。

夜の浪江駅前。午後八時頃なので、本来ならまだまだ賑やかな時間帯のはずだが、人がいない。駅前には酒場が数軒あるのみ。


P187「この街は音がしない。なんの匂いもない。家々から漏れてくるテレビの音も、子どもの声もしない。台所から漂う煮炊きの匂いもカレーの匂いもない」

P187「生活感のない光は冷たい。冷たくて痛い。(中略)どこを歩いてるの。生まれ育った土地に見覚えがないなんて」


P184「震災の傷が放置されている上に、経年劣化で崩れていく街を歩くと、不思議と心はなごんだ。ここは自分の居場所だという安心感があった。どう言えばいいのだろう。震災以来わたしが受けてきた傷に、街の傷がしっとりなじんだ。痛みに痛みが溶け合う心地がして、ほっとした。」

上記のような文章を浪江町民でない私が書いていいものか迷いもあったが、私が書きたかったのは、「傷」が自分そのものになってしまった人の哀しみだった。自分の「傷」を外側の何か託せるうちはまだ救いがある。それが故郷ならなおさら。しかしそれが消えてしまったら、どう生きていけばいいのだろう。そんな思いを込めた文章だ。


P135「スタンドに入ってもF高校の応援席に近づけなかった。すぐそこの応援席が遠い。そろいの白いTシャツにスクールカラーの緑のタオル、緑のメガホン。生徒たちがまぶしかった。懐かしい友だちの顔が見えない」
2011年夏。双葉高校野球部単独としては最後の公式戦となる、福島県大会。開成山球場に私も応援に行った。とにかく双葉高校が打ちに打ちまくって応援席は沸いた。あの試合の様子を忠実に再現した。ただし、双葉高校の応援席には近づけなかった元双葉高校生の目を通して。
実際、震災を機に転校した生徒と双葉高校に残った生徒との間には見えない壁があったように見えた。


東京の高校に転校した主人公「わたし」の唯一の友人になった樹里の故郷、いわき市薄磯の震災一ヶ月後の惨状。樹里の家も津波に流された。ちなみに、樹里が目撃した津波直前の「極端に潮が引いて黒々とした海底が露出した海」の光景は、薄磯の語り部から聞いたもの。



樹里の部屋の窓から見えたという塩屋崎の灯台。


P196「トーチの先に小さな炎を揺らして、聖火ランナーの女の子が手を振りながら目の前を走りすぎていった。幸福の絶頂を走るような笑顔に、彼女の中を通り過ぎていった十年間を思い、目頭が熱くなった」


P199「天野君は冨沢酒蔵の手前から路地に入り、板壁に沿って進んでいった。冨沢酒蔵の裏に回ると壁が完全に倒れて、巨大なタンクが剥き出しになっていた」



天野君の下宿屋のモデルにした家。現実は小説よりもっと酷かった。

P201「F高校は変わっていなかった。いや、変わっていないというのは大嘘で、十年も放置して傷まない建物はない」

P203「あっ、ほら。駐輪場に自転車があんなに。あれ、震災の日から十年間そのままなんだね。あの自転車の数だけ持ち主がいて、それぞれに十年間の物語があるんだよ」

P204「枯れ草を踏み分け、校庭を二人で歩いた。放射線量を下げるために校庭は盛り土をされて、地面を踏む靴の感触に違和感があった。」


小説ではわざと省いたが、現実の校舎の窓には「復活 双高」の言葉が掲げられている。双葉高校がどのような形で復活するのか、それがどのくらい先の話なのかわからないが、少なくとも双高の存在が歴史に葬られることのないよう、この作品がその一助になればと願う。








最後に、2011年正月に撮影した双葉高校と、高校生がよく利用したお店の画像を紹介します。


『爆心地ランナー』取材画像集(1)

『爆心地ランナー』を読まれた方、また、これから読まれる方も、ありがとうございます。この本には「爆心地ランナー」と「こんなやみよののはらのなかを」の2作が収録されています。
「爆心地ランナー」は東京に新型コロナウイルスのよる緊急非常事態宣言が発令される直前、そして東京オリンピック(聖火リレー)の延期が発表される直前の2020年3月末から物語が始まります。
「こんなやみよののはらのなかを」はその約一年後、2021年3月末、コロナ禍において東京オリンピックが無観客で強行されることとなり、聖火リレーが始まろうとする前夜から当日にかけての物語です。
どんなストーリーになるか固まらないまま、とにかく画像を撮りためてきました。ここに画像を紹介します。ネタバレの危険があるので出来れば読み終わってから観てほしい。作品理解のよすがになってくれればと願います。
爆心地ランナー


2020年3月26日、Jヴイレッジ駅。当駅が開業したのは約一年前だが、真新しいコンクリートの匂いがした。この駅で下車し、国際的サッカー練習場であり聖火リレーのスタート地点でもあるJヴイレッジを歩いた道行きは、そのまま主人公「ぼく」の足取りに重なる。なにも起こらないかもしれない。けれど行くだけ行ってみた。実際、なにかが起きたわけじゃなかった。それでも、「なにも起こらない」空虚感を実感できたのは収穫だった。
P6「野山を切り開いてコンクリートで固めた、ジオラマみたいな駅。「キャプテン翼」のイラストがある階段を上れば展望台があり、(後略)」


駅員は聖火リレーがあるという前提で配置されたのだと思うけど、乗降客はまばらで見るからに手持ち無沙汰な様子で、見ていて気の毒なくらいだった。
P7「海岸には火力発電所の黒ずんだ建物。補修中なのか鉄骨が組まれ、遠目に見れば老朽化した鉄の要塞だ」「無人駅らしく、改札口にはカードを読み取る機械がぽつん。なのに、今日は特別警戒なのか駅員が三人もいる」




P11「原発事故直後、Jヴイレッジは福島第一原発という戦場の前線基地だった。事故処理作業員が集結し、自衛隊のヘリも戦車もここから出動した」
この四枚は別の日、福島スタディツアーに参加してJヴイレッジ内のホテルに宿泊した際、通路の壁に飾られていた写真を撮影したもの。戦車は路上の瓦礫を除去するために使われた。しかしこうした写真を見ていると現場は本当に戦場さながらの凄まじさだったんだと思えてくる。


P11「前方から金属を打ち鳴らす音が聞こえてきた。なにかと思えば、セレモニーを予定していた広場で仮設ステージを解体していく物音だ」
作品中で「ぼく」はスーツ姿の男に「どいて」と追い払われたが、実際に私も追い払われたのだった。少しだけ腹が立った。

P8「なにか手にしていると思ったら、なんとピコピコハンマーだ。大真面目な顔で、ハンマーのおもちゃを聖火トーチに見立てて走っている」
写真のおじさんは、ピコピコランナーのモデルになった人。実際はバナナを掲げて走っていた。トラブルになりそうで走っている写真は撮れなかったが、Jヴイレッジ駅に着いて自撮りをしている姿を隠し撮りした。聖火リレーが延期になったので、せめて自分で走りたかったのだろう。

P15「風俗店の看板の匂うような色彩が、あっちからもこっちからも飛び込んで脳を刺激する。客引きの凶暴な笑顔や、風俗嬢の胸の谷間や、臍ピアスや太股のタトゥーがめまぐるしく行き交う」
緊急事態宣言直前の歌舞伎町。感染を怖れて街は閑散としていたが、風俗嬢とその客らしき男が連れ立って歩くのに何回もすれ違った。ビデオを回しながら路地から路地を歩いたが、怖そうなお兄さんが笑顔で客引きをしている姿が、別の意味で怖かった。


ウィッグ専門店のある新宿の地下街、サブナード。取材で最初に訪れた時は画像を撮らなかったので、緊急事態宣言発令後に撮影目的で入ろうとしたら、封鎖されていた。局地的ロックダウン。限定的な意味でライムさんの予言は当たったのだ。(ちなみに、私がウィッグ専門店の存在を知ったのはNHKの「ドキュメント72時間」という番組をたまたま観たから)


P22「振り向くと駅舎の壁に時計があり、二時四十七分から先に動かない。その下にからくり時計の銀色の扉。昔は時報のメロディと共に扉が開いた」
双葉駅。右が震災前で左が震災後。よく見ると震災後の銀色の扉に隙間がある。ちなみに私はからくり時計をが動くのを見たことがない。私が双葉高校生だった時代、駅は素朴な木製だった。震災前は双葉高校の運動部が好成績をおさめると駅に功績をたたえるポスターが貼られた。いい町だったなあ。




上段が2017年秋の駅前風景。下段が2020年3月。左側の上下を(車道のラインを目安に)見比べると、どれだけの建物が撤去されたかわかる。「たいやき」の看板がある渡部商店はなぜか残っている。この店は電車待ちの高校生がよくたむろしていた。もちろん私も。ラムネを飲んだよなあ。
「がらんどう」は、まさに私の実感。
P21「駅を囲んでいた店や家がみんな取り壊されて、空間がやけに広くなって、まるでがらんどうだ」
P27「その横に「たい焼き」の看板。あの店で父さんとたい焼きを食べたっけ」


P29「横断歩道を渡ると薬局があった。子ゾウののフィギュアが店頭に立ち、傷だらけの顔で愛嬌を振りまいていた。名前はサトちゃん、だっけ。日本でいちばん寂しいサトちゃんだ」
「誰かが踏み荒らした。手当たり次第に薬を盗んだ。そうとしか思えない。盗んだ薬でなにをしたのか考えると頭が混乱した。とてつもなく邪悪な想像が頭を掻き乱した」
作品ではここから主人公の様子がおかしくなる。街を歩いて目に付く盗難の跡だ。


右が震災直前の2011年正月に(たまたま)撮影した双葉町商店街。左側が2020年3月撮影。ほぼ同じ場所を逆方向から撮っている。街並みの変わりようが分かると思う。


P30「崩れたお寺の山門としだれ桜。(中略)春物セーターが黴びて黒ずんだ洋品店」

P27「消防署の望楼は窓が割れ、車庫のシャッターはいまにも弾け飛びそうに湾曲して」

P27「埃がこびりついた花屋のショーウィンドウ。花筒に干からびた花束、触れただけで壊れそうなカサカサの花びら」


P30「傷ついた街がぼくの傷になる。みんな叫びたがっている」


右が震災前の2011年正月撮影。左が2020年3月撮影。同じ看板を別の角度から撮影している。まさか、この二か月後にあんなことが起こるなんて夢にも思わなかった。
P31「商店街を抜けると広い道路に出た。斜向かいにF高校を示す矢印の看板」


P31「門の横に病気で歪んだ松の樹がある。(中略)ぼくはきっと、松ぼっくりのひとつなのだろう」

P32「校庭は一面に新しい土が盛ってあって、膝くらいの高さに木や草が伸びている」


P37「病院があり、駐車場には置きっぱなしの自動車が並び、黒い袋を積み上げた廃棄物置き場があり(後略)」


P37「鉄が裂けて、歪んで、叫びたがっている」


P37「防波堤は未完成で土の肌が光っていた」
P38「海水浴場だった砂浜に津波の残骸が散らかっている」


P38「マリンハウスが遠くからぼくを見ていた。いや、そんなのは錯覚だ。窓の配置で壁が人の顔に見えるだけだ」


マリンハウスから突堤を越えて波打ち際を歩くと、福島第一原発が見えてくる。物語はこの場所で終幕を迎える。私は双葉高校生時代に剣道部で、放課後にこの海岸までよく走った。防潮林の中の小道を走っていたらいつの間にか原発の敷地内を走っていたこともあり、びびった。といっても作業員のプレハブ宿舎がある場所だったので警備がゆるかったのだろう。なんにせよ思い出深い海岸だ。いまでは下の写真のように美しい砂浜が蘇っている。本当にきれいな海だ。

「爆心地ランナー」の全体的な構想がいつ生まれたのかは記憶にない。
2020年3月26日、海岸から市街地に戻り、かつて通学路だった坂道を歩いて駅に向かっていたら、一人の少年(?)が道の向かい側を走り抜けていった。走らないと電車に乗り遅れる時間帯じゃない。彼が何者で、どういう理由で走っていたのか定かではない。聖火ランナーが走るはずだった日に、双葉町を走りたかったのかもしれない。とりあえずそんな想像をしてみた。
「爆心地ランナー」の構想は、もしかするとあの時に芽生えたのかもしれない。

n
2023年 専修大学「地域とメディア」特別講義
「身の回りの古い物について調べる」とは?
― 浦尻貝塚の石器を例に ―
こんにちは。志賀泉と申します。
僕が出演している記録映画「原発被災地になった故郷への旅」(2013年 監督杉田このみ)視聴していただきありがとうございました。もう10年前になるのですね。このとおり僕も10年ぶん老けてしまいました。
縁あって、毎年、杉田さんの授業「地域とメディア」に招かれて、その後の福島について語らせてもらっています。よろしくお願いします。
杉田さんが毎年出している課題に、「身の回りにある古い物についてレポートを書け」 というのがあります。面白い課題なので、僕も毎年、学生になったつもりで、いろんな物を選んでここで発表しています。
毎回悩むんです。古けりゃいいってもんじゃない。大切なのは、古い物と自分との関係性ですよね。
関係性によって、その「古い物」の意味が変わってきます。言い換えると、意味を与えることによって、 「古い物」が存在の仕方を変える。そこからフィードバッグして、今度は自分自身の存在が変わる。
存在が変わるというと大袈裟ですけど、要するに気づきです。 自分がどうし て、ここに、このように存在しているのか、気づきがあるんです。 杉田さんの「身の回りの古い物を調べろ」というお題は、根本的にはそういうことじゃ ないかと思います。 だから、やってみると面白いんです。
そこで、今回持ってきたのはこれです。縄文時代の石器です。
拾ったのは浦尻貝塚です。 浦尻とは、「原発被災地になった故郷への旅」で、僕が小高でいちばん好きだと言った 干拓地の地名です。 小学 5,6 年生の頃は畑でした。人の畑の中をうろつき回って、土器や石器を拾い集め て、きれいに縄目模様が残っている土器を見つけると友だちに自慢したものです。

そこは福島第一原発からほぼ 10 キロの距離です。当然、避難指示が出ました。 ブルーシートを敷いているのは、遺跡を放射性物質から守るためです。事故から 5 年後の 2016 年に避難指示が解除されたのですが、僕は実家に帰るより先 に浦尻へと向かいました。
津波跡に瓦礫の処理場ができていました。放射性廃棄物です。高い塀で囲われて内部が見えなかっ たのですが、ここからなら見えるだろうと上ったのが浦尻貝塚なんです。案の定、丸見えでした。低線量廃棄物をフレコンバックから取り出し、仕分けしているのがわかります。




それにしても きれいな海でしょう。震災以前は海沿いにちょっとした集落がありました。それがみんな流さ れてしまった。手前は以前は田んぼでした。もっと昔は浦でした。 淡水と海水が混じっているので、魚介類が豊富です。縄文人はここに集落を作って、2700 年間住み続けました。縄文時代の前期・中期・後期を通して、2700年間、移動する必要がなかった。さらに古墳時代の遺跡もあります。つまり、それだけ豊かで、住みやすい場所だったんです。


現代でも海が見える貝塚っ て、実は珍しいんです。たいていは開発が進んだり、地形が変化してるから。つまり、いまでも縄文人の目になって海を望むことができます。それは素晴らしい体験なんです。
震災後初めてここに入った時は草ぼうぼうで、雑草と言っても背丈より高いんですから、 そこに飛び込むと目の前に草しか見えないんです。かき分けてもかき分けても草、ですよ。 草の海に溺れる感じです。

この写真、カメラが目の高さです。草ぼうぼうにもほどがある。方向がわかんなくなって、迷いに迷った末に、いきなり視 界が開けて水平線が見えた時の開放感。 それが縄文人の感覚と重なるかどうかはわかりませんけど。でも草の海に溺れて抜け出 せないと、死ぬんじゃないかとも考えるんですよ。 たとえばマムシに足を噛まれて、身体に毒が回って動けなくなっちゃうとか。そういう 不安は、縄文人と繋がると思うんです。
だからまあ、馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しいけど、いま思えば貴重な体験だったんじゃないかと。
いまはもう廃棄物処理場は役目を終えて撤去されています。


いま、小高の人たちの間で、地元の歴史を見直そうという活動が盛んです。道端の 文化財、石碑やお地蔵さんをすべて調査している人たちもいます。 この浦尻貝塚(2006 年に国指定史跡)も史跡公園として整備中で、貝塚の断面を見る 施設も作っています。(現在は公開中)
縄文時代の前期から後期までの時間の流れをこの一か所で体験できる。
そういう意味で は、時間は流れません。過去の時間が地層のように積み重なって現在があるんです。 だから、現在を知ろうとしたら過去を知らなければならない。それがアイデンティティー (自己同一性)の確認になり、復興のモチベーションに繋がっていくんです。
過去を知るとはそういうことです。過去を知ることで未来へのビジョンが描ける。また、そういうものでなくちゃならないんです。
話は少し脱線しますが、万葉集の時代には、国褒めというジャンルの和歌がありました。 天皇が山に上って国見をする。大和の国を見下ろして、なんて美しい国なんだ、豊かな 国なんだ、お米がたくさんとれるぞ、家のかまどから煙が立ってるぞ。 というふうに、その土地に宿る神様を一生懸命ほめる、おだてるわけです。神様を気持 ちよくさせて、活性化させるんですね。そうすることで国は豊かになると信じていた。言霊です。
僕の場合で言うと、「原発被災地になった故郷への旅」も一種の国褒めなんです。 だから、放射能に汚染された故郷でも、美しいと讃える。 間違いかも知れないけど、讃える。 そんなことをしたって現実は変わらないじゃないか。という批判はもちろんあります。 放射能に汚染された土地は危険だって言い続けた方が社会のためだ。 その考え方は正しい。だから反論しない。それくらい、僕も承知している。 むしろ危険な土地だからこそ、美しさを褒め称える必要があるんじゃないか。 それは、その土地を殺さないためなんです。 たとえ住めない土地になったとしても、その土地が本来持っている価値は否 定しない。
地霊や神様を信じているわけじゃありませんよ。その土地の歴史、風土、そこで生きてきた人たちの思いを尊重するということです。 それが礼節というものです。少なくとも、この視点を欠いた復興を僕は復興と呼ばない。破壊と同じです。
だから「福島に住めない」とは言わない。 放射線量って数字ですから。情報ですから。
現場に立たなくても、情報を集めれば判断を下せる。それが正しいと信じて疑わない。なるほど正しいのかもしれない。でも現場に立つと、情報以外の、感覚に訴えてくるものが自分の中に入ってくる。 五感で受け取ったものと、情報とが矛盾する時、どう折り合いをどうつけるか、それは 難しいし、面倒なんです。
その面倒臭いものを、課題として引き受ける。すると、オリジナルな視点、発想を持て る可能性が生まれる。 現場で考えるとはそういうことです。だから自分の身体で動かなくてはならないんです。
水素工場(浪江町)と未売却の土地
ここから少し南に下ると、浪江小高原発の建設予定地がありました。 その跡地がいまどうなっているか。 水素工場になってます。ここで水素を作っています。


水素エネルギーで新しい町作りをしようという、世界に先駆けた構想を浪江町が立ち 上げています。
この工場は電力をすべてソーラーパネル、太陽光発電でまかなっています。 まさにソーラーパネルの海です。 ところがソーラーパネルの海に、島があったんです。 島っていうより穴です。草ぼうぼうの畑の跡です。わかりますか。写真の上の方、北側です。

地権者が売るのを拒否したので、ここだけボコッと穴が開いたようになってる。 この土地の地権者は浦尻の人で、僕の友人です。彼に案内されて、実は初めて気づきました。ごめんなさい、僕の目も節穴でした。
原発計画の時、実は一度売却を成立させているんです。でも、計画が原発から水素工場に変わった 時の手続きが納得できなくて、売るのを止めた、拒否したという経緯があったそうです。

その場所に案内してもらいました。ここで畑の手伝いをしたんだよ、インゲン豆を取ってたん だよって懐かしそうにしみじみ語るんですね。 彼にとっては、この小さな土地が、自分がここで生きてきたという証でもあるんです。実家が津波で流され、そのうえ盛り土に覆い隠されて跡形もありません。 だからこそ、守りたいものがあったのかもしれません。
ところで、水素工場にはもう一か所、手つかずの土地があります。そこは雑木林です。航空写真の南側にある、それこそ島みたいに見える所がそうです。
原発計画の土地買収が進んでいた時期、一軒だけ、売却を拒否した農家がありました。原発反対同盟の人です。当時は、ひとつの土地を何人かで共同管理して、十人なら 十人、全員がハンコを押さないと、土地を売れないようにした。そうして裏切り者を出さ ないようにしてきたんです。
ところが、土建会社が札束を切らして一人一人切り崩していった。そして最後に一人だ けが残った。
最後の一人がハンコを押さないから土地が売れない。お金が入らない。 もの凄いイジメがあったそうです。とうとうその人は耐えられなくなって引っ越しまし た。いびり出されたようなものです。決して美談にはならない、泥沼の人間関係が、実はあったんです。


これも彼に教わって初めて知ったことです。水素工場の近くに開拓碑があります。痩 せた土地だったのを、戦後、開拓民が、血が滲むような努力で農地に変えていった。 ところが東北電力の原発計画が持ち上がって、泣く泣く売り渡したということが書いて あります。 でも、この石碑を作ったのは平成六年です。つまり東北電力への売却は完了してい ない。にも関わらず、完了形で書いている。その意味がわかりますか? 考えて下さい。 売却を拒否している人にプレッシャーをかけるためだと考えられませんか?
もし予定通り原発が完成していたら、この開拓碑は自然に存在していたはずです。それが、はからずも不自然な存在になってしまった。ある意味、負の遺産です。 歴史の皮肉です。

ちなみに彼は、例の、鉄腕アトムの看板を作った浦尻青年団の人たちと知り合いです。
原発計画が消えてしまってから、みんな口々に「実は俺も原発に反対だったんだ」と 言い出したそうです。 いい悪いじゃなくて、人間ってそういうものです。 太平洋戦争の時も、日本が負けてから、「実はわたしも戦争に反対でした」って言い始 めたんですから。 歴史は繰り返すんです。

震災遺構と原発事故
はい。ここまでが、杉田さんの課題に対する僕のレポートです。
ではここからが本題です。「地域とメディア」について話します。
震災の被災地にはいわゆる震災遺構があります。津波にあった小学校の建物とか。 震災遺構も一種のメディアです。それは津波の恐ろしさを後世に伝えるため、同じよう な災害が起きたとき犠牲者を最小限にするため、という目的があります。
では福島県の場合はどうか。東日本大震災と、原発事故の複合災害です。
特に原発事故について、何を、誰の目線で、どう伝えるか? 難しいものがあります。
原発で働いていた人は、いまも原発に愛着があります。これはやむを得ない。原発のお かげで家族を養ってきたのですから。日本の高度成長を支えてきた。地元を豊かにしてき た。その誇りはなくならない。
けれど一方で、大変な事故を起こしてしまった。故郷を汚してしまった。その罪悪感を 背負っている人もいるんです。 正直な人ほど気持ちの折り合いがつかない。
地元民の、原発に対する感情はさまざまで す。若い人もそうです。原発事故についてはあまり話したがらない。自分の経験を政治的 に利用されたくないっていう、アレルギー反応があるような気がします。
その上で、地元に伝承館を作ろうとすると、デリケートな問題を抱え込むわけです。
ここで紹介するのは、個人で作った伝言館、町が作ったアーカイブ・ミュージアム、福 島県が作った伝承館の三つです。 それぞれに、何をどう伝えようとしているのか、特徴があります。
それを比較する ことによって、「伝えるとはどういうことか」について考えてきたいと思います。
ヒロシマナガサキビキニフクシマ伝言館
まず、個人が作った、楢葉町にある伝言館。
楢葉町には、富岡町とまたがって福島第二原発があります。第二原発は、かろうじて、ぎりぎりで重大事故をまぬがれました。しかし第一原発から 20 キロ圏内に入るので、楢葉町民は全員避難しています。
この楢葉町に伝言館を作ったのは、宝鏡寺というお寺の住職です。早川䔍雄(とくお)さんです。 早川さんは去年の暮れに 83 歳で亡くなられてます。

室町時代から 600 年続く、浄土宗のお寺です。原発事故があって、早川さんも避難しましたし、このお寺も空き家になっていました。
楢葉町に福島第二原発の計画が持ち上がった1970 年代から、早川さんは原発に反対し ていました。50 年間ずっと、反対運動の先頭に立っていたんです。 それだけに、原発事故が起きて町民に避難指示が出たときは、「なぜ原発を止められな かったんだ」と無念の思いが込み上げたそうです。
早川さんは震災前、精神障害者や知的障害者のための施設を運営していたので、障害者 が避難先で弱っていく姿を間近で見ていました。障害者は一般に、環境の変化に敏感なん です。病気になったり、自殺したり、亡くなっていく人が少なくなかった。 僕も知的障害者の施設で働いてるから少しはわかります。
世の中が不安定になる と、いわゆる社会的弱者が、まっ先に切り捨てられ ていきます。 その人たちへの申し訳なさが、早川さんにはあったんだと思います。 自分の責任じゃない。仕方がなかったでは割り切れない思いがあった。
そこから、悔恨の場としての、「伝言館」設立に至ったんじゃないか。
お寺の境内に入って、まず目につくのは「非核の火」です。 これはもともと、上野の東照宮にあったんですが、東照宮の修復で、撤去されました。 行き場のなくなった火を、2021 年 3 月 11 日、宝鏡寺で引き取ったそうです。


ちなみにこの火は、ヒロシマの原爆投下でくすぶっていた火と、ナガサキの原爆瓦でと った火を合わせた火だそうです。 その火を、放射能の被害にあった楢葉町のお寺で灯し続けることに、意味を見いだした のでしょう。 ヒロシマ・ナガサキの被害とフクシマの被害を結びつける。 さらに、第五福竜丸の事件も結びつけた。


冷戦時代、アメリカがマーシャル諸島のビキ ニ岩礁で水爆実験を行った。いわゆるビキニ水爆実験。
たまたま死の灰を浴びたマグロ漁 船が第五福竜丸です。乗組員だった久保山愛吉さんが被曝で亡くなりました。 その久保山さんにゆかりのあるバラが、境内の片隅にある。 「愛吉・すずのバラ」です。久保山さんの奥さん、すずさんが育てたバラです。 ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマを結びつけて、
原子力による犠牲者を鎮魂する。 早川さんはそこに、原発被災地のお寺としての使命を見いだしたのです。 私費を投じて、境内に伝言館を作りました。ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ伝 言館です。


伝言館の壁です。日中戦争から真珠湾攻撃、原爆の写真が並んで飾られています。 なぜでしょう? ここが伝言館の独特なところです。
まず日本が中国に戦争をしかけた。そして太平洋戦争に拡大した。戦争に決着をつける ためヒロシマ、ナガサキに原爆が投下された。戦後になると、ソ連とアメリカで核兵器の開発競争が始まった。一方で、原子力の平和活用として原子力発電所が作られていった。 その結果として、フクシマの原発事故が起きたのだという、早川さんの歴史認識があります。 早川さんは仏教徒ですから、根っ子には仏教の思想があります。 この世界は因果で成り立っている。ひとつの結果が生まれるには、さまざまな原因があ る。だから、悪い結果をなくすためには、因果関係をさかのぼって、原因を消していく必 要がある。
「縁起の法則」「縁滅の法則」と言います。 「これによりてこれが起こる、これなければこれなし」
パンフレットにそう書いてあります。 この伝言館は、早川さんの歴史認識、思想の表明でもあります。 もちろん個人の施設だから出来るんです。

館内に入ります。 早川さんが、原発反対運動をしている過程で集めた資料が展示してあります。 主に、ポスターや当時の新聞です。 たとえば、福島民報の記事。何が書いてあるかというと、

原発ができれば巨額の交付金が支給さ れる。大熊町や双葉町は豊かになる。福祉の町に生まれ変わるんだ、ということがあからさまに書 いてあります。全面肯定です。
交付金目当てに、自治体が喜んで原発を受け入れていった歴史があった。要するにお金なんです。
1975 年の大熊町の一般会計が約 20 億円でした。税収の 90 パーセントが原発関係でした。おと なりの双葉町が 9 億 3300 万円。そもうち約 4 億円が交付金。原発を受け入れたことで国 から貰えるお金です。

この写真はインパクトありますね。エネルギー・アレルギー。 エネルギーがむんむん匂ってきます。
確かに危険な香りがしますね。 何を言いたいんでしょうか。僕ならこの手の女性には近づきません。怖いから。 電通あたりが作ったんじゃないでしょうか。

地下もあります。地下の展示は、アインシュタインから始まる原子力の歴史。戦争の歴 史です。
手前に展示してあるのはお寺で使う法具です。ガラス製です。 金属製の法具は、供出といって、太平洋戦争中に軍が持ち去ってしまいました。代わりに置いていったのがガラスの法具でした。
早川さんは四、五歳で、横でその様子を見ていたそうです。 お寺の道具が、戦争で人殺しの道具になる、それがお国のためだと聞かされて、子供心 におかしいと感じたそうです。
その体験が、早川さんの原点なのかもしれません。
原爆瓦も展示してます。触れますので、ぜひ触ってみてください。不思議な感触 がしますから。ちなみに、この二人は友人の詩人夫婦です。

次に紹介するのは、富岡町にあるとみおかアーカイブミュージアムです。富岡町の運営 です。




富岡町には福島第二原発があります。 津波の被害も相当なものでした。 駅前の街並みが津波で破壊されました。 第一原発から 20 キロ圏内に入っているので、警戒区域になり住民は全員避難しました。いまも一部は帰還困難区域のままです。 帰ってきているのは元の人口の一割程度です。(14000 人が 1300 人に)。
商店街も更地ばかりになりました。 それを踏まえて、ミュージアムに入っていきます。


半分は純粋な歴史資料館です。 動物の化石から始まって、縄文式土器、弥生式土器、平安時代の瓦、たたら製鉄、 たたら製鉄はご存じですか? 「もののけ姫」に出てきましたね。古代から江戸時代に かけての製鉄方です。

富岡町は鉄の産地だったんです。鉄は貴重品でしたから、江戸時代は天領になりました。 天領とは幕府の直轄地です。江戸時代は税が優遇されました。 年貢も軽かったんです。そういう土地には商人が集まりますよね。 富岡町は栄えたんです。双葉地方でいちばん栄えた町になりました。 戦争の展示 、戦後の展示 と続いて、館内の半分を占めるのが東日本大震災の展示です。


これが、とみおかアーカイブミュージアムの特徴です。 縄文時代から延々と栄えてきた富岡町の歴史が、原発事故によって切れるんです。 原発事故が奪い去っていったものの大きさがわかるんです。
原発事故は、いまの時代の人間にだけ被害を与えたんじゃない。何千年と培ってきた 歴史・文化にも損害を与えてしまった。 でも、同時に逆のことも伝えています。

富岡町はこれだけ栄えた町だったんだ。そのプライドを取り返そうという、復興のモチ ベーション作りにも役立ってるんです。
そして、このミュージアムのもうひとつの特徴は、よけいな説明を入れない。物をして 語らしめるところに、コンセプトがあるように思います。 ひとつひとつは、ささやかな物なんです。でも、それの意味するもの感じ取れば、震災直後、原発事故直後の混乱、緊張感がリアルに伝わってきます。展示ケースに臨場感がみなぎっています。




おそらく、これらの物を集めて保管した人は役場の職員だと思います。
地元の人、現場にいた人でなければ、これらが近い将来に貴重な資料になるとは、思いつかない。 自分も大変な思いをしたからこそわかるものがある。 意思伝達としてはアナログなメモ用紙、手書きのポスター。これらは実用以外の何物でもない。だから、緊急の用が過ぎればそれこそ紙くずとして処分される運命にあった。しかし、これら殴り書きの筆跡から当時の切迫した心境が痛いほど伝わってきませんか? これらに資料的価値を見つけて保管していた人の、先見の明に頭が下がります。
また、来館者も感性のレベルを最大に高めておく必要があります。たとえば原爆資料館の展示物のような衝撃度はここにはないかもしれない。しかしだからこそ、沈黙している物たちのささやく声に耳を澄まさなければなりません。


次に紹介するのが、双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館です。ここは福島県 の施設です。
おさらいすると、楢葉町の伝言館には思想がありました。仏教に基づく独特な歴史観が示されていました。
富岡町のアーカイブ・ミュー ジアムには物、痕跡がありました。説明は最小限におさえ、物をして語らしめる展示です。
この二つには欠けているものがあります。何でしょう?
それはデータです。 何年何月に何が起きて何人が犠牲になり何人が避難したか、という客観的なデータがない。
双葉町の伝承館はデータ中心の展示です。データで、情報で伝えようとし ている。そこに伝承館の特徴があります。
入るとまず、大スクリーンで津波と原発事故の映像を見ることになります。


次に年表のあるスロープを上 って、展示室に入っていきます。 オープンした時は展示内容に批判が集まり、一部展示替えがありました。ひと言で言えば、。原発事故の失敗から何の教訓も導き出していない、という批判です。 東電や政府に対して遠慮、忖度があるんじゃないかと疑われました。
その批判に対して、伝承館側は、地元の人の意見を集めて調整した結果、こうなったと答えていました。地元の新聞にはそう書いてありました。
言い訳ではなく、それもあり得る話だと僕は思います。誰もが納得できるような展示にしようとすれば、中身 は薄まります。 政治的中立を意識すれば何も言えなくなる。放射能の影響を強調されると復興の足かせになるから、不安を煽るような展示はやめて ほしい、という意見もあるでしょう。悲惨な過去は思い出したくないという人も。でも、それらをすべて取り入れたら、何のための伝承館かわからなくなってしま う。
だって、伝承館は未来の人類に伝えていくための施設でしょう。 最低でも百年の視野が必要です。
百年後も伝承館を残していくつもりなら、百年後の人類に何を伝えるべきか、その視点が必要です。
展示室の壁を埋めているのはデータです。数字は中立です。客観的な事実です。嘘はつかない。 でも、嘘をつかないからこそ、数字の裏に隠れているものが見えにくくなります。




いまも何人の方が避難生活を送っています。これはデータです。データを見て理解する。
けれど避難者の中には、路頭に迷いホームレス 化した人がいます。
ホームレス化した避難者を救済するNPOの代表から話をきいたこと があります。子どもを連れて、自殺しようかどうか迷いながら、踏切の近くをうろついて いたお母さんがいました。最後の最後に、スマホでNPOの存在を知って連絡してきた。 NPOの方が駆けつけて保護した時は、所持金は数十円だったそうです。 そういう事実がある。でも、その実態は把握しきれない。
把握できない人は存在しないことにされてしまう。 それがデータの怖さなんです。ホームレス化した避難者のことも展示に加えろと言ってるんじゃありません。ただ、データですべてをわかったような気になってしまうことの怖さを言ってるんです。
ここで何人、津波の犠牲者になりましたと数字で示されたら、人間が見えなくなる。
津波被災地にはそれぞて慰霊碑があります。 名前と共に年齢も刻んである慰霊碑があります。 苗字が同じで、90 歳の人と 60 歳の人が並んでいたら、ああ、この人は年老いた親を助 けようとして逃げ遅れたのかもしれないと想像できますよね。 0 歳の子どもと、30 代の女性が同じ苗字で並んでいたら、親子だったんだろうな。お母 さんはさぞかし無念だったろうなと、誰でも胸が痛みます。 自然と手を合わせてしまうでしょう。 それが鎮魂です。データを見て数字に手を合わせる人はいないでしょう。
たとえば、津波の跡から見つかったランドセルと運動靴も、一個ずつでは、言葉は悪い ですが標本と変わりません。 浪江町にかつて「思い出館」という施設がありました。 津波跡で見つかったものを洗浄して、きれいにして、持ち主に返すのが目的の施設で、 いまはありません。展示が目的ではないのですが、誰でも入れるので僕は何度か見学させ てもらいました。


そこにはおびただしい数の写真や日用品、美術品が置いてありました。 たとえばランドセルならランドセル、靴なら靴がたくさんあることで、ひとつひとつ の特徴が浮き上がってきます。そこで初めて、これを使っていた子どもの姿が、個性を持った人間として見えてくるんです。

もうひとつ比較例をあげます。これはいわき市のショッピングモールのフロアに展示され ていたものです。 体育館の避難所を再現したものです。この展示から何がわかりますか? せまいですね。 男の人と女の人です。綿入れ半纏が小さいから女の子でしょう。男の人はたぶん父親 です。女の子は思春期かもしれません。着替えだって、お父さんには見られたくない。だ から、ただでさえせまいのに、さらに半分に仕切ったんですね、おそらく。 そんな避難生活がこの展示から見えてきます。この展示にお金がいくらかかりました? タダ同然でしょう。でも、これを製作した人が、何を伝えようとしたのか、どんな想いをこめたのか、その切実さが伝わってきます。

双葉町の伝承館にある福島第一原発の模型です。リアルに再現されています。このリアルさが何を訴えてくるでしょうか。人それぞれだとは思います。でも僕は、模型は模型であり、模型を超えてはいないように感じます。
双葉町の伝承館の目的は、「復興の拠点づくり」「町おこしのための観光資源」ではないでしょうか。
それが悪いとは言いません。 観光資源だから、重くて暗い、深刻な内容じゃ困るのでしょう。
展示の最後を飾るのは、 明るい双葉町の未来です。再生エネルギーを用いた、自然豊かな町づくりを目指し ます、という構想をデザインして、明るい気持ちで帰ってもらう。そのことの意義は否定しません。
けれど、災い転じて福となす、で完結してしまうと、結局のところ、原発事故は何を残し たのか、考えずに済んでしまうんです。だって、結論としては明るい未来 なんですから。
でも、これはあくまで僕個人の感想です。 入館されていない人に先入観は植え付けたくありません。もしもあなた方の中で、夏休みに福島に足を運ぼうとする人がいたら、どうか僕の感想は気にせずに、 みなさんまっさらな気持ちで見てくださるようお願いします。
自分で足を運ぶことは大事です。その時、僕が話したことと異なる印象をあなたが抱いたのなら、そこにあなた自身のオリジナルな発想の芽があるはずです。どうかそれを大事にしてください。

加賀乙彦と歩いた福島(2016年5月)

今年1月12日、小説家であり精神科医であり、またクリスチャンでもあった加賀乙彦先生が老衰のためお亡くなりになられた。戦中戦後の日本人の精神性を深い眼差しで考察してこられた、日本文学最後の巨星と呼ぶにふさわしい方だったと思う。
先生は、自身の戦後体験に東日本大震災の惨状を重ね、特に放射能災害に見舞われた福島県については憂慮されておりました。震災の年に、文学者有志で結成した「脱原発社会を目指す文学者の会」(以後、脱原の会)の会長になられてからは、晩年まで会の精神的支柱でおられました。
私は旧警戒区域出身作家として会に参加し、本来なら雲の上の人である先生と親しく文学論を交わすなどの光栄に浴してきました。特に酒の席では先生のとなりにすわり、ドストエフスキー文学について議論をふっかけるなど、一時代前の文学青年のような真似をしていたのですが、温厚なお人柄の先生はやわらかく受け止め、真摯に反論してくださったのはいい思い出です。
私は脱原の会のメンバーとして毎年一度、福島視察旅行を企画し、参加者を案内してきました。先生は執筆に忙しく、またご高齢のため、視察旅行に参加したのは2016年5月の一度だけでした。わたしの故郷の南相馬市小高区は小さい町ながら、なぜか埴谷雄高、島尾敏雄など戦後文学を代表する小説家と縁の深い土地柄です。単に原発被災地というだけでなく、両氏の始祖の地である小高を先生に視ていただいたことは、それなりに有意義であったと思います。
結果として、先生は震災や原発事故についての文章を公に発表するとことは遂にありませんでした。先生が亡くなられた後は、こうした事実も忘れ去られてしまいます。それはあまりに寂しく、惜しいことです。それで、ささやかながら、ここにこうしてその足跡を記しておこうと思った次第です。

加賀乙彦先生が福島を訪問されたのは2016年の5月10・11日。あいにくの雨だった。最初に訪れたのは富岡駅前。津波で被災した駅前の家並みは撤去され、更地が広がっていた。駅もまだ再建は手つかずの状態。駅の東側から海岸線を埋め尽くしていた黒いフレコンバックの壁も中間貯蔵施設に移送中で、以前の圧倒される印象は薄らいでいた。


(下)修復中の富岡漁港の堤防を視る。雨が冷たかった。ここから先には進めず、海岸から福島第二原発を遠望することはかなわなかった。


国道6号線を南下。国道沿いから雨にけぶる福島第一原発を視る。指さしているのはフォトジャーナリストの豊田直巳氏。氏は脱原の会のメンバーではないが、今回の視察旅行の案内役をお願いした。



(下)豊田氏が「空気を止めてください」(息を止めてくださいの言い間違い)と冗談を飛ばし、みなで笑った場面。雨の影響もあってかなり線量が高かった。この後、双葉町に移動し「原子力明るい未来のエネルギー」のPR看板跡地をバリケード越しに視た。

南相馬市小高区に移動。広範囲に津波被害が広がった福浦地区を視てもらった。写真は蛯沢集会所の慰霊堂。この時期は慰霊碑はまだ建立されておらず、被災地にあった石仏等を集めて慰霊碑にしていた。クリスチャンである先生は雨にも関わらず帽子をとり合掌していた。


下写真右は、集会所の裏にある製塩所跡。福浦地区はかつて地名どおりの浦で、この辺りまで海が入り込んでいた。満潮時にこの横穴に海水を汲み、煮沸して塩を取っていた。震災には関係ないが、海の恵みによって生きていた漁村の習俗に触れてほしかった。


小高駅前。この頃、常磐線はまだ修復中で、駅は閉鎖されていたが、町民の帰還は始まっていた。ただし商店は少なく、駅前では上写真右の東町エンガワ商店くらいだった。(現在は役割を終えて撤去)


店内でコーヒーを飲みひと息入れる。その後、ついでに私の実家を訪ねてみる。折良く両親が家にいた。まさか、大作家とうちの父親が庭先で立ち話をする光景を目にするとは思わなかった。(避難解除はこの年の7月だが、両親は帰還準備で2日前に仮設住宅を引き払い入居したばかりだった)。
この後、若松丈太郎氏(故人・南相馬市を代表する詩人)と合流し、閉鎖中の埴谷島尾文学資料館を開けてもらい、展示を見学する。偶然にも小高区を訪れていた渡辺一枝氏とも出会った。展示されていた、かつての文学仲間の集合写真を先生は食い入るように見て、思い出を語っていた。私は話を聞くことに専念しようと、画像も動画も撮らなかった。いま思うと残念。

翌日、飯舘村の奥部、蕨地区にある減容化施設(廃棄物の焼却炉)を視察。ここはかつて、酪農のための牧草地があったところ。となりに共同墓地があったが、除染で樹木は伐採され、地面はシートで覆われていた。これも一種の荒廃であり、先祖を大切にしてきた村人の思いを踏みにじるものだと思う。


豊田氏から説明を受ける加賀先生。朽ちた墓標が歴史を物語っている。うしろの斜面がかつて牧草地だった。


浪江町の海辺の集落、請戸地区へ。昨年(2015年)はまだ漁船が打ち上げられたままになっていたが、すべて撤去されて、夏草に埋もれて民家の土台のみが残っていた。


請戸小学校。この頃は規制がゆるく、自由に入れた。




この時、先生が口を開けながら撮っていたのは、下写真の壊れた時計。先生が何に関心を寄せ、何を撮っていたのか、できたらその写真を見たいものだ。

その後、浪江駅前に移動。浪江はまだ避難解除されておらず、壊れかけた街並みが残っていた。いまではほとんど撤去されて更地ばかり広がっている。傷ましい光景ではあるけれど、懐かしさも感じる。


浪江駅。右下に移っているバスは、線量が高いために震災以来ずっとここに置かれていた。いまでも走れそうだが、よく見るとタイヤの空気が抜けている。


先生は疲れて車から降りてこなかった。かなりのハードスケジュールだった上に悪天候が続き、口には出さなかったが相当無理をしたのではと思う。わたしも無慈悲であった。下の写真は、戦後のヒット曲「高原の駅よさようなら」の歌碑。作曲家が浪江町出身ということだ。この歌碑の前で歓談し、視察旅行は終わり。うしろに映っている街並みもいまは消滅している。人も町もはかない。失って初めて大切さを知る。

加賀乙彦略歴
1929年、東京生まれ。東京大学医学部卒業。東京拘置所医務技官を務めた後、精神医学および犯罪学研究のためフランス留学。帰国後、東京医科歯科大学助教授、上智大学教授を歴任。代表作「フランドルの冬」「死刑囚の記録」「宣告」「湿原」「永遠の都」「雲の都」「帰らざる夏」など多数。
(参考 「ある若き死刑囚の生涯」より)
なぜ私が加賀乙彦先生を「日本文学の巨星」と呼ぶのかというと、十九世紀末西洋文学のゴシック的雰囲気を漂わせながら、時代精神を切り取っていく大柄な作風が多かったからだ。精神科医であり、また敬虔なクリスチャンだったこともあり、自身が生きた戦中戦後の時代を市民の視点から、強さも弱さも、美しさも醜さも容赦なくえぐり出し、しかしながら人間賛歌として謳いあげる力量は、ただただ敬服するのみである。
先生のデビュー作は『フランドルの冬』。これは太宰治賞に応募し候補作に上った作品だが、応募した原稿は前半のみで、その後、後半を書き加えて完全版として出版したものが評価された。私が先生と出会った時、私は作家として崖っぷちにいたのだが、私が太宰治賞を受賞していることで、先生は縁を感じて目をかけてくださったのだと思う。
私が脱原の会を退会した理由は、一口で言えば、会の活動の実態と私個人が目指す活動との差違が、震災から年月を経るにつれ無視できないほど開いてしまったためだった。会に対しては恩義を感じているし、会の存在なくしては、いわゆる「震災文学」を私は書けなかったかもしれない。それは認めても、会員であることのメリット以上に負担の方が大きくなってしまっては、脱会するしかなかった。先生に対しては申し訳なかったと思う。これからも福島を書き続けていくという決意を表明することで、先生への謝意に変えたい。


