2023年 専修大学「地域とメディア」特別講義

 「身の回りの古い物について調べる」とは? 

 ― 浦尻貝塚の石器を例に ―

 こんにちは。志賀泉と申します。

 僕が出演している記録映画原発被災地になった故郷への旅」(2013年 監督杉田このみ)視聴していただきありがとうございました。もう10年前になるのですね。このとおり僕も10年ぶん老けてしまいました。

 縁あって、毎年、杉田さんの授業「地域とメディア」に招かれて、その後の福島について語らせてもらっています。よろしくお願いします。

 杉田さんが毎年出している課題に、「身の回りにある古い物についてレポートを書け」 というのがあります。面白い課題なので、僕も毎年、学生になったつもりで、いろんな物を選んでここで発表しています。

 毎回悩むんです。古けりゃいいってもんじゃない。大切なのは、古い物と自分との関係性ですよね。

 関係性によって、その「古い物」の意味が変わってきます。言い換えると、意味を与えることによって、 「古い物」が存在の仕方を変える。そこからフィードバッグして、今度は自分自身の存在が変わる。

 存在が変わるというと大袈裟ですけど、要するに気づきです。 自分がどうし て、ここに、このように存在しているのか、気づきがあるんです。 杉田さんの「身の回りの古い物を調べろ」というお題は、根本的にはそういうことじゃ ないかと思います。 だから、やってみると面白いんです。

 そこで、今回持ってきたのはこれです。縄文時代の石器です。

 拾ったのは浦尻貝塚す。 浦尻とは、「原発被災地になった故郷への旅」で、僕が小高でいちばん好きだと言った 干拓地の地名です。 小学 5,6 年生の頃は畑でした。人の畑の中をうろつき回って、土器や石器を拾い集め て、きれいに縄目模様が残っている土器を見つけると友だちに自慢したものです。

 そこは福島第一原発からほぼ 10 キロの距離です。当然、避難指示が出ました。 ブルーシートを敷いているのは、遺跡を放射性物質から守るためです。事故から 5 年後の 2016 年に避難指示が解除されたのですが、僕は実家に帰るより先 に浦尻へと向かいました。

 津波跡に瓦礫の処理場ができていました。放射性廃棄物です。高い塀で囲われて内部が見えなかっ たのですが、ここからなら見えるだろうと上ったのが浦尻貝塚なんです。案の定、丸見えでした。低線量廃棄物をフレコンバックから取り出し、仕分けしているのがわかります。

 それにしても きれいな海でしょう。震災以前は海沿いにちょっとした集落がありました。それがみんな流さ れてしまった。手前は以前は田んぼでした。もっと昔は浦でした。 淡水と海水が混じっているので、魚介類が豊富です。縄文人はここに集落を作って、2700 年間住み続けました縄文時代の前期・中期・後期を通して、2700年間、移動する必要がなかった。さらに古墳時代の遺跡もあります。つまり、それだけ豊かで、住みやすい場所だったんです。

 現代でも海が見える貝塚っ て、実は珍しいんです。たいていは開発が進んだり、地形が変化してるから。つまり、いまでも縄文人の目になって海を望むことができます。それは素晴らしい体験なんです。

 震災後初めてここに入った時は草ぼうぼうで、雑草と言っても背丈より高いんですから、 そこに飛び込むと目の前に草しか見えないんです。かき分けてもかき分けても草、ですよ。 草の海に溺れる感じです。

 この写真、カメラが目の高さです。草ぼうぼうにもほどがある。方向がわかんなくなって、迷いに迷った末に、いきなり視 界が開けて水平線が見えた時の開放感。 それが縄文人の感覚と重なるかどうかはわかりませんけど。でも草の海に溺れて抜け出 せないと、死ぬんじゃないかとも考えるんですよ。 たとえばマムシに足を噛まれて、身体に毒が回って動けなくなっちゃうとか。そういう 不安は、縄文人と繋がると思うんです。

 だからまあ、馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しいけど、いま思えば貴重な体験だったんじゃないかと。

 いまはもう廃棄物処理場は役目を終えて撤去されています。

 いま、小高の人たちの間で、地元の歴史を見直そうという活動が盛んです。道端の 文化財、石碑やお地蔵さんをすべて調査している人たちもいます。 この浦尻貝塚(2006 年に国指定史跡)も史跡公園として整備中で、貝塚の断面を見る 施設も作っています。(現在は公開中)

 縄文時代の前期から後期までの時間の流れをこの一か所で体験できる。

 そういう意味で は、時間は流れません。過去の時間が地層のように積み重なって現在があるんです。 だから、現在を知ろうとしたら過去を知らなければならない。それがアイデンティティー (自己同一性)の確認になり、復興のモチベーションに繋がっていくんです。

 過去を知るとはそういうことです。過去を知ることで未来へのビジョンが描ける。また、そういうものでなくちゃならないんです。

 話は少し脱線しますが、万葉集の時代には、国褒めというジャンルの和歌がありました。 天皇が山に上って国見をする。大和の国を見下ろして、なんて美しい国なんだ、豊かな 国なんだ、お米がたくさんとれるぞ、家のかまどから煙が立ってるぞ。 というふうに、その土地に宿る神様を一生懸命ほめる、おだてるわけです。神様を気持 ちよくさせて、活性化させるんですね。そうすることで国は豊かになると信じていた。言霊です。

 僕の場合で言うと、原発被災地になった故郷への旅」も一種の国褒めなんです。 だから、放射能汚染された故郷でも、美しいと讃える。 間違いかも知れないけど、讃える。 そんなことをしたって現実は変わらないじゃないか。という批判はもちろんあります。 放射能に汚染された土地は危険だって言い続けた方が社会のためだ。 その考え方は正しい。だから反論しない。それくらい、僕も承知している。 むしろ危険な土地だからこそ、美しさを褒め称える必要があるんじゃないか。 それは、その土地を殺さないためなんです。 たとえ住めない土地になったとしても、その土地が本来持っている価値は否 定しない

 地霊や神様を信じているわけじゃありませんよ。その土地の歴史、風土、そこで生きてきた人たちの思いを尊重するということです。 それが礼節というものです。少なくとも、この視点を欠いた復興を僕は復興と呼ばない。破壊と同じです。

 だから「福島に住めない」とは言わない。 放射線量って数字ですから。情報ですから。

 現場に立たなくても、情報を集めれば判断を下せる。それが正しいと信じて疑わない。なるほど正しいのかもしれない。でも現場に立つと、情報以外の、感覚に訴えてくるものが自分の中に入ってくる五感で受け取ったものと、情報とが矛盾する時、どう折り合いをどうつけるか、それは 難しいし、面倒なんです。

 その面倒臭いものを、課題として引き受ける。すると、オリジナルな視点、発想を持て る可能性が生まれる。 現場で考えるとはそういうことです。だから自分の身体で動かなくてはならないんです

 水素工場(浪江町)と未売却の土地

 ここから少し南に下ると、浪江小高原発の建設予定地がありました。 その跡地がいまどうなっているか。 水素工場になってます。ここで水素を作っています。

 水素エネルギーで新しい町作りをしようという、世界に先駆けた構想を浪江町が立ち 上げています。

 この工場は電力をすべてソーラーパネル太陽光発電でまかなっています。 まさにソーラーパネルの海です。 ところがソーラーパネルの海に、島があったんです。 島っていうより穴です。草ぼうぼうの畑の跡です。わかりますか。写真の上の方、北側です。

  地権者が売るのを拒否したので、ここだけボコッと穴が開いたようになってる。 この土地の地権者は浦尻の人で、僕の友人です。彼に案内されて、実は初めて気づきました。ごめんなさい、僕の目も節穴でした。

 原発計画の時、実は一度売却を成立させているんです。でも、計画が原発から水素工場に変わった 時の手続きが納得できなくて、売るのを止めた、拒否したという経緯があったそうです。

 その場所に案内してもらいました。ここで畑の手伝いをしたんだよ、インゲン豆を取ってたん だよって懐かしそうにしみじみ語るんですね。 彼にとっては、この小さな土地が、自分がここで生きてきたという証でもあるんです。実家が津波で流され、そのうえ盛り土に覆い隠されて跡形もありません。 だからこそ、守りたいものがあったのかもしれません。

 ところで、水素工場にはもう一か所、手つかずの土地があります。そこは雑木林です。航空写真の南側にある、それこそ島みたいに見える所がそうです。

 原発計画の土地買収が進んでいた時期、一軒だけ、売却を拒否した農家がありました。原発反対同盟の人です。当時は、ひとつの土地を何人かで共同管理して、十人なら 十人、全員がハンコを押さないと、土地を売れないようにした。そうして裏切り者を出さ ないようにしてきたんです。

 ところが、土建会社が札束を切らして一人一人切り崩していった。そして最後に一人だ けが残った。

 最後の一人がハンコを押さないから土地が売れない。お金が入らない。 もの凄いイジメがあったそうです。とうとうその人は耐えられなくなって引っ越しまし た。いびり出されたようなものです。決して美談にはならない、泥沼の人間関係が、実はあったんです。

 これも彼に教わって初めて知ったことです。水素工場の近くに開拓碑があります。痩 せた土地だったのを、戦後、開拓民が、血が滲むような努力で農地に変えていった。 ところが東北電力の原発計画が持ち上がって、泣く泣く売り渡したということが書いて あります。 でも、この石碑を作ったのは平成六年です。つまり東北電力への売却は完了してい ない。にも関わらず、完了形で書いているその意味がわかりますか? 考えて下さい。 売却を拒否している人にプレッシャーをかけるためだと考えられませんか?

 もし予定通り原発が完成していたら、この開拓碑は自然に存在していたはずです。それが、はからずも不自然な存在になってしまった。ある意味、負の遺産です。 歴史の皮肉です。

 ちなみに彼は、例の、鉄腕アトムの看板を作った浦尻青年団の人たちと知り合いです。

 原発計画が消えてしまってから、みんな口々に「実は俺も原発に反対だったんだ」と 言い出したそうです。 いい悪いじゃなくて、人間ってそういうものです。 太平洋戦争の時も、日本が負けてから、「実はわたしも戦争に反対でした」って言い始 めたんですから。 歴史は繰り返すんです。

 震災遺構と原発事故

 はい。ここまでが、杉田さんの課題に対する僕のレポートです。

 ではここからが本題です。「地域とメディア」について話します。

 震災の被災地にはいわゆる震災遺構があります。津波にあった小学校の建物とか。 震災遺構も一種のメディアです。それは津波の恐ろしさを後世に伝えるため、同じよう な災害が起きたとき犠牲者を最小限にするため、という目的があります。

 では福島県の場合はどうか。東日本大震災と、原発事故の複合災害です。

 特に原発事故について、何を、誰の目線で、どう伝えるか? 難しいものがあります。

 原発で働いていた人は、いまも原発に愛着があります。これはやむを得ない。原発のお かげで家族を養ってきたのですから。日本の高度成長を支えてきた。地元を豊かにしてき た。その誇りはなくならない

 けれど一方で、大変な事故を起こしてしまった。故郷を汚してしまった。その罪悪感を 背負っている人もいるんです正直な人ほど気持ちの折り合いがつかない

 地元民の、原発に対する感情はさまざまで す。若い人もそうです。原発事故についてはあまり話したがらない。自分の経験を政治的 に利用されたくないっていう、アレルギー反応があるような気がします。

 その上で、地元に伝承館を作ろうとすると、デリケートな問題を抱え込むわけです。

 ここで紹介するのは、個人で作った伝言館、町が作ったアーカイブミュージアム、福 島県が作った伝承館の三つです。 それぞれに、何をどう伝えようとしているのか、特徴があります。

 それを比較する ことによって、「伝えるとはどういうことか」について考えてきたいと思います。

ヒロシマナガサキビキニフクシマ伝言館

 まず、個人が作った、楢葉町にある伝言館。

 楢葉町には、富岡町とまたがって福島第二原発があります。第二原発は、かろうじて、ぎりぎりで重大事故をまぬがれました。しかし第一原発から 20 キロ圏内に入るので、楢葉町民は全員避難しています。

 この楢葉町に伝言館を作ったのは、宝鏡寺というお寺の住職です。早川䔍雄(とくお)さんです。 早川さんは去年の暮れに 83 歳で亡くなられてます。

 室町時代から 600 年続く、浄土宗のお寺です。原発事故があって、早川さんも避難しましたし、このお寺も空き家になっていました。

 楢葉町福島第二原発の計画が持ち上がった1970 年代から、早川さんは原発に反対し ていました。50 年間ずっと、反対運動の先頭に立っていたんです。 それだけに、原発事故が起きて町民に避難指示が出たときは、「なぜ原発を止められな かったんだ」と無念の思いが込み上げたそうです。

 早川さんは震災前、精神障害者知的障害者のための施設を運営していたので、障害者 が避難先で弱っていく姿を間近で見ていました。障害者は一般に、環境の変化に敏感なん です。病気になったり、自殺したり、亡くなっていく人が少なくなかった。 僕も知的障害者の施設で働いてるから少しはわかります。

 世の中が不安定になる と、いわゆる社会的弱者が、まっ先に切り捨てられ ていきます。 その人たちへの申し訳なさが、早川さんにはあったんだと思います。 自分の責任じゃない。仕方がなかったでは割り切れない思いがあった。

 そこから、悔恨の場としての、「伝言館」設立に至ったんじゃないか。

 お寺の境内に入って、まず目につくのは「非核の火」です。 これはもともと、上野の東照宮にあったんですが、東照宮の修復で、撤去されました。 行き場のなくなった火を、2021 年 3 月 11 日、宝鏡寺で引き取ったそうです。

 ちなみにこの火は、ヒロシマの原爆投下でくすぶっていた火と、ナガサキの原爆瓦でと った火を合わせた火だそうです。 その火を、放射能の被害にあった楢葉町のお寺で灯し続けることに、意味を見いだした のでしょう。 ヒロシマナガサキの被害とフクシマの被害を結びつける。 さらに、第五福竜丸の事件も結びつけた。

 冷戦時代、アメリカがマーシャル諸島ビキ ニ岩礁で水爆実験を行った。いわゆるビキニ水爆実験。

 たまたま死の灰を浴びたマグロ漁 船が第五福竜丸です。乗組員だった久保山愛吉さんが被曝で亡くなりました。 その久保山さんにゆかりのあるバラが、境内の片隅にある。 「愛吉・すずのバラ」です。久保山さんの奥さん、すずさんが育てたバラです。 ヒロシマナガサキ・ビキニ・フクシマを結びつけて、

 原子力による犠牲者を鎮魂する。 早川さんはそこに、原発被災地のお寺としての使命を見いだしたのです。 私費を投じて、境内に伝言館を作りました。ヒロシマナガサキ・ビキニ・フクシマ伝 言館です。

  伝言館の壁です。日中戦争から真珠湾攻撃、原爆の写真が並んで飾られています。 なぜでしょう? ここが伝言館の独特なところです。

 まず日本が中国に戦争をしかけた。そして太平洋戦争に拡大した。戦争に決着をつける ためヒロシマナガサキに原爆が投下された。戦後になると、ソ連アメリカで核兵器の開発競争が始まった。一方で、原子力の平和活用として原子力発電所が作られていった。 その結果として、フクシマの原発事故が起きたのだという、早川さんの歴史認識があります。 早川さんは仏教徒ですから、根っ子には仏教の思想があります。 この世界は因果で成り立っている。ひとつの結果が生まれるには、さまざまな原因があ る。だから、悪い結果をなくすためには、因果関係をさかのぼって、原因を消していく必 要がある。

 原発問題と反戦・平和が因果で繋がるわけです。

 「縁起の法則」「縁滅の法則」と言います。 「これによりてこれが起こる、これなければこれなし」

 パンフレットにそう書いてあります。 この伝言館は、早川さんの歴史認識、思想の表明でもあります。 もちろん個人の施設だから出来るんです。

 館内に入ります。 早川さんが、原発反対運動をしている過程で集めた資料が展示してあります。 主に、ポスターや当時の新聞です。 たとえば、福島民報の記事。何が書いてあるかというと、

 原発ができれば巨額の交付金が支給さ れる。大熊町双葉町は豊かになる。福祉の町に生まれ変わるんだ、ということがあからさまに書 いてあります。全面肯定です。

 交付金目当てに、自治体が喜んで原発を受け入れていった歴史があった。要するにお金なんです。

 1975 年の大熊町の一般会計が約 20 億円でした。税収の 90 パーセントが原発関係でした。おと なりの双葉町が 9 億 3300 万円。そもうち約 4 億円が交付金原発を受け入れたことで国 から貰えるお金です。

 この写真はインパクトありますね。エネルギー・アレルギー。 エネルギーがむんむん匂ってきます。

 確かに危険な香りがしますね。 何を言いたいんでしょうか。僕ならこの手の女性には近づきません。怖いから。 電通あたりが作ったんじゃないでしょうか。

  地下もあります。地下の展示は、アインシュタインから始まる原子力の歴史。戦争の歴 史です。 

 手前に展示してあるのはお寺で使う法具です。ガラス製です。 金属製の法具は、供出といって、太平洋戦争中に軍が持ち去ってしまいました。代わりに置いていったのがガラスの法具でした。

 早川さんは四、五歳で、横でその様子を見ていたそうです。 お寺の道具が、戦争で人殺しの道具になる、それがお国のためだと聞かされて、子供心 におかしいと感じたそうです。

 その体験が、早川さんの原点なのかもしれません。

原爆瓦も展示してます。触れますので、ぜひ触ってみてください。不思議な感触 がしますから。ちなみに、この二人は友人の詩人夫婦です。

とみおかアーカイブミュージアム

 次に紹介するのは、富岡町にあるとみおかアーカイブミュージアムです。富岡町の運営 です。

 富岡町には福島第二原発があります。 津波の被害も相当なものでした。 駅前の街並みが津波で破壊されました。  第一原発から 20 キロ圏内に入っているので、警戒区域になり住民は全員避難しました。いまも一部は帰還困難区域のままです。 帰ってきているのは元の人口の一割程度です。(14000 人が 1300 人に)

 商店街も更地ばかりになりました。 それを踏まえて、ミュージアムに入っていきます。

半分は純粋な歴史資料館です。 動物の化石から始まって、縄文式土器弥生式土器平安時代の瓦、たたら製鉄 たたら製鉄はご存じですか? 「もののけ姫」に出てきましたね。古代から江戸時代に かけての製鉄方です。 

  富岡町は鉄の産地だったんです。鉄は貴重品でしたから、江戸時代は天領になりました。 天領とは幕府の直轄地です。江戸時代は税が優遇されました。 年貢も軽かったんです。そういう土地には商人が集まりますよね。 富岡町は栄えたんです。双葉地方でいちばん栄えた町になりました。 戦争の展示 、戦後の展示 と続いて、館内の半分を占めるのが東日本大震災の展示です。

 これが、とみおかアーカイブミュージアムの特徴です。 縄文時代から延々と栄えてきた富岡町の歴史が、原発事故によって切れるんです。 原発事故が奪い去っていったものの大きさがわかるんです。

 原発事故は、いまの時代の人間にだけ被害を与えたんじゃない。何千年と培ってきた 歴史・文化にも損害を与えてしまった。 でも、同時に逆のことも伝えています。

 富岡町はこれだけ栄えた町だったんだ。そのプライドを取り返そうという、復興のモチ ベーション作りにも役立ってるんです。

 そして、このミュージアムのもうひとつの特徴は、よけいな説明を入れない。物をして 語らしめるところに、コンセプトがあるように思います。 ひとつひとつは、ささやかな物なんです。でも、それの意味するもの感じ取れば、震災直後、原発事故直後の混乱、緊張感がリアルに伝わってきます。展示ケースに臨場感がみなぎっています。

  おそらく、これらの物を集めて保管した人は役場の職員だと思います。

 地元の人、現場にいた人でなければ、これらが近い将来に貴重な資料になるとは、思いつかない。 自分も大変な思いをしたからこそわかるものがある。 意思伝達としてはアナログなメモ用紙、手書きのポスター。これらは実用以外の何物でもない。だから、緊急の用が過ぎればそれこそ紙くずとして処分される運命にあった。しかし、これら殴り書きの筆跡から当時の切迫した心境が痛いほど伝わってきませんか これらに資料的価値を見つけて保管していた人の、先見の明に頭が下がります。

 また、来館者も感性のレベルを最大に高めておく必要があります。たとえば原爆資料館の展示物のような衝撃度はここにはないかもしれない。しかしだからこそ、沈黙している物たちのささやく声に耳を澄まさなければなりません。

東日本大震災原子力災害伝承館

  次に紹介するのが、双葉町にある東日本大震災原子力災害伝承館です。ここは福島県 の施設です。

 おさらいすると、楢葉町の伝言館には思想がありました。仏教に基づく独特な歴史観が示されていました。

 富岡町アーカイブ・ミュー ジアムには物、痕跡がありました。説明は最小限におさえ、物をして語らしめる展示です。

 この二つには欠けているものがあります。何でしょう?

 それはデータです。 何年何月に何が起きて何人が犠牲になり何人が避難したか、という客観的なデータがない。

 双葉町の伝承館はデータ中心の展示です。データで、情報で伝えようとし ている。そこに伝承館の特徴があります。

 入るとまず、大スクリーンで津波原発事故の映像を見ることになります。

 次に年表のあるスロープを上 って、展示室に入っていきます。 オープンした時は展示内容に批判が集まり、一部展示替えがありました。ひと言で言えば、。原発事故の失敗から何の教訓も導き出していない、という批判です。 東電や政府に対して遠慮、忖度があるんじゃないかと疑われました。

 その批判に対して、伝承館側は、地元の人の意見を集めて調整した結果、こうなったと答えていました。地元の新聞にはそう書いてありました。

 言い訳ではなく、それもあり得る話だと僕は思います。誰もが納得できるような展示にしようとすれば、中身 は薄まります。 政治的中立を意識すれば何も言えなくなる。放射能の影響を強調されると復興の足かせになるから、不安を煽るような展示はやめて ほしい、という意見もあるでしょう悲惨な過去は思い出したくないという人も。でも、それらをすべて取り入れたら、何のための伝承館かわからなくなってしま う

 だって、伝承館は未来の人類に伝えていくための施設でしょう。 最低でも百年の視野が必要です。

 百年後も伝承館を残していくつもりなら、百年後の人類に何を伝えるべきか、その視点が必要です。

 展示室の壁を埋めているのはデータです。数字は中立です。客観的な事実です。嘘はつかない。 でも、嘘をつかないからこそ、数字の裏に隠れているものが見えにくくなります。

 いまも何人の方が避難生活を送っています。これはデータです。データを見て理解する。

 けれど避難者の中には、路頭に迷いホームレス 化した人がいます。

 ホームレス化した避難者を救済するNPOの代表から話をきいたこと があります。子どもを連れて、自殺しようかどうか迷いながら、踏切の近くをうろついて いたお母さんがいました。最後の最後に、スマホNPOの存在を知って連絡してきた。 NPOの方が駆けつけて保護した時は、所持金は数十円だったそうです。 そういう事実がある。でも、その実態は把握しきれない。

 把握できない人は存在しないことにされてしまうそれがデータの怖さなんです。ホームレス化した避難者のことも展示に加えろと言ってるんじゃありません。ただ、データですべてをわかったような気になってしまうことの怖さを言ってるんです。

 ここで何人、津波の犠牲者になりましたと数字で示されたら、人間が見えなくなる。

 津波被災地にはそれぞて慰霊碑があります。 名前と共に年齢も刻んである慰霊碑があります。 苗字が同じで、90 歳の人と 60 歳の人が並んでいたら、ああ、この人は年老いた親を助 けようとして逃げ遅れたのかもしれないと想像できますよね。 0 歳の子どもと、30 代の女性が同じ苗字で並んでいたら、親子だったんだろうな。お母 さんはさぞかし無念だったろうなと、誰でも胸が痛みます。 自然と手を合わせてしまうでしょう。 それが鎮魂です。データを見て数字に手を合わせる人はいないでしょう。

 たとえば、津波の跡から見つかったランドセルと運動靴も、一個ずつでは、言葉は悪い ですが標本と変わりません。 浪江町にかつて「思い出館」という施設がありました。 津波跡で見つかったものを洗浄して、きれいにして、持ち主に返すのが目的の施設で、 いまはありません。展示が目的ではないのですが、誰でも入れるので僕は何度か見学させ てもらいました。

 そこにはおびただしい数の写真や日用品、美術品が置いてありました。 たとえばランドセルならランドセル、靴なら靴がたくさんあることで、ひとつひとつ の特徴が浮き上がってきます。そこで初めて、これを使っていた子どもの姿が、個性を持った人間として見えてくるんです。

 もうひとつ比較例をあげます。これはいわき市のショッピングモールのフロアに展示され ていたものです。 体育館の避難所を再現したものです。この展示から何がわかりますか? せまいですね。 男の人と女の人です。綿入れ半纏が小さいから女の子でしょう。男の人はたぶん父親 です。女の子は思春期かもしれません。着替えだって、お父さんには見られたくない。だ から、ただでさえせまいのに、さらに半分に仕切ったんですね、おそらく。 そんな避難生活がこの展示から見えてきます。この展示にお金がいくらかかりました? タダ同然でしょう。でも、これを製作した人が、何を伝えようとしたのか、どんな想いをこめたのか、その切実さが伝わってきます

 双葉町の伝承館にある福島第一原発の模型です。リアルに再現されています。このリアルさが何を訴えてくるでしょうか。人それぞれだとは思います。でも僕は、模型は模型であり、模型を超えてはいないように感じます。

 双葉町の伝承館の目的は、「復興の拠点づくり」「町おこしのための観光資源」ではないでしょうか。

 それが悪いとは言いません。 観光資源だから、重くて暗い、深刻な内容じゃ困るのでしょう。

 展示の最後を飾るのは、 明るい双葉町の未来です。再生エネルギーを用いた、自然豊かな町づくりを目指し ます、という構想をデザインして、明るい気持ちで帰ってもらう。そのことの意義は否定しません。

 けれど、災い転じて福となす、で完結してしまうと、結局のところ、原発事故は何を残し たのか、考えずに済んでしまうんです。だって、結論としては明るい未来 なんですから。

 でも、これはあくまで僕個人の感想です。 入館されていない人に先入観は植え付けたくありません。もしもあなた方の中で、夏休みに福島に足を運ぼうとする人がいたら、どうか僕の感想は気にせずに、 みなさんまっさらな気持ちで見てくださるようお願いします

 自分で足を運ぶことは大事です。その時、僕が話したことと異なる印象をあなたが抱いたのなら、そこにあなた自身のオリジナルな発想の芽があるはずです。どうかそれを大事にしてください。

 

加賀乙彦と歩いた福島(2016年5月)

 今年1月12日、小説家であり精神科医であり、またクリスチャンでもあった加賀乙彦先生が老衰のためお亡くなりになられた。戦中戦後の日本人の精神性を深い眼差しで考察してこられた、日本文学最後の巨星と呼ぶにふさわしい方だったと思う。

 先生は、自身の戦後体験に東日本大震災の惨状を重ね、特に放射能災害に見舞われた福島県については憂慮されておりました。震災の年に、文学者有志で結成した「脱原発社会を目指す文学者の会」(以後、脱原の会)の会長になられてからは、晩年まで会の精神的支柱でおられました。

 私は旧警戒区域出身作家として会に参加し、本来なら雲の上の人である先生と親しく文学論を交わすなどの光栄に浴してきました。特に酒の席では先生のとなりにすわり、ドストエフスキー文学について議論をふっかけるなど、一時代前の文学青年のような真似をしていたのですが、温厚なお人柄の先生はやわらかく受け止め、真摯に反論してくださったのはいい思い出です。

 私は脱原の会のメンバーとして毎年一度、福島視察旅行を企画し、参加者を案内してきました。先生は執筆に忙しく、またご高齢のため、視察旅行に参加したのは2016年5月の一度だけでした。わたしの故郷の南相馬市小高区は小さい町ながら、なぜか埴谷雄高島尾敏雄など戦後文学を代表する小説家と縁の深い土地柄です。単に原発被災地というだけでなく、両氏の始祖の地である小高を先生に視ていただいたことは、それなりに有意義であったと思います。

 結果として、先生は震災や原発事故についての文章を公に発表するとことは遂にありませんでした。先生が亡くなられた後は、こうした事実も忘れ去られてしまいます。それはあまりに寂しく、惜しいことです。それで、ささやかながら、ここにこうしてその足跡を記しておこうと思った次第です。

 加賀乙彦先生が福島を訪問されたのは2016年の5月10・11日。あいにくの雨だった。最初に訪れたのは富岡駅前。津波で被災した駅前の家並みは撤去され、更地が広がっていた。駅もまだ再建は手つかずの状態。駅の東側から海岸線を埋め尽くしていた黒いフレコンバックの壁も中間貯蔵施設に移送中で、以前の圧倒される印象は薄らいでいた。

 (下)修復中の富岡漁港の堤防を視る。雨が冷たかった。ここから先には進めず、海岸から福島第二原発を遠望することはかなわなかった。

 国道6号線を南下。国道沿いから雨にけぶる福島第一原発を視る。指さしているのはフォトジャーナリストの豊田直巳氏。氏は脱原の会のメンバーではないが、今回の視察旅行の案内役をお願いした。 

(下)豊田氏が「空気を止めてください」(息を止めてくださいの言い間違い)と冗談を飛ばし、みなで笑った場面。雨の影響もあってかなり線量が高かった。この後、双葉町に移動し「原子力明るい未来のエネルギー」のPR看板跡地をバリケード越しに視た。

 南相馬市小高区に移動。広範囲に津波被害が広がった福浦地区を視てもらった。写真は蛯沢集会所の慰霊堂。この時期は慰霊碑はまだ建立されておらず、被災地にあった石仏等を集めて慰霊碑にしていた。クリスチャンである先生は雨にも関わらず帽子をとり合掌していた。

 下写真右は、集会所の裏にある製塩所跡。福浦地区はかつて地名どおりの浦で、この辺りまで海が入り込んでいた。満潮時にこの横穴に海水を汲み、煮沸して塩を取っていた。震災には関係ないが、海の恵みによって生きていた漁村の習俗に触れてほしかった。

 小高駅前。この頃、常磐線はまだ修復中で、駅は閉鎖されていたが、町民の帰還は始まっていた。ただし商店は少なく、駅前では上写真右の東町エンガワ商店くらいだった。(現在は役割を終えて撤去)

 店内でコーヒーを飲みひと息入れる。その後、ついでに私の実家を訪ねてみる。折良く両親が家にいた。まさか、大作家とうちの父親が庭先で立ち話をする光景を目にするとは思わなかった。(避難解除はこの年の7月だが、両親は帰還準備で2日前に仮設住宅を引き払い入居したばかりだった)。

 この後、若松丈太郎氏(故人・南相馬市を代表する詩人)と合流し、閉鎖中の埴谷島尾文学資料館を開けてもらい、展示を見学する。偶然にも小高区を訪れていた渡辺一枝氏とも出会った。展示されていた、かつての文学仲間の集合写真を先生は食い入るように見て、思い出を語っていた。私は話を聞くことに専念しようと、画像も動画も撮らなかった。いま思うと残念。

 翌日、飯舘村の奥部、蕨地区にある減容化施設(廃棄物の焼却炉)を視察。ここはかつて、酪農のための牧草地があったところ。となりに共同墓地があったが、除染で樹木は伐採され、地面はシートで覆われていた。これも一種の荒廃であり、先祖を大切にしてきた村人の思いを踏みにじるものだと思う。

 豊田氏から説明を受ける加賀先生。朽ちた墓標が歴史を物語っている。うしろの斜面がかつて牧草地だった。

 浪江町の海辺の集落、請戸地区へ。昨年(2015年)はまだ漁船が打ち上げられたままになっていたが、すべて撤去されて、夏草に埋もれて民家の土台のみが残っていた。

 請戸小学校。この頃は規制がゆるく、自由に入れた。

 この時、先生が口を開けながら撮っていたのは、下写真の壊れた時計。先生が何に関心を寄せ、何を撮っていたのか、できたらその写真を見たいものだ。

 その後、浪江駅前に移動。浪江はまだ避難解除されておらず、壊れかけた街並みが残っていた。いまではほとんど撤去されて更地ばかり広がっている。傷ましい光景ではあるけれど、懐かしさも感じる。

 浪江駅。右下に移っているバスは、線量が高いために震災以来ずっとここに置かれていた。いまでも走れそうだが、よく見るとタイヤの空気が抜けている。

 先生は疲れて車から降りてこなかった。かなりのハードスケジュールだった上に悪天候が続き、口には出さなかったが相当無理をしたのではと思う。わたしも無慈悲であった。下の写真は、戦後のヒット曲「高原の駅よさようなら」の歌碑。作曲家が浪江町出身ということだ。この歌碑の前で歓談し、視察旅行は終わり。うしろに映っている街並みもいまは消滅している。人も町もはかない。失って初めて大切さを知る。

 加賀乙彦略歴

 1929年、東京生まれ。東京大学医学部卒業。東京拘置所医務技官を務めた後、精神医学および犯罪学研究のためフランス留学。帰国後、東京医科歯科大学助教授、上智大学教授を歴任。代表作「フランドルの冬」「死刑囚の記録」「宣告」「湿原」「永遠の都」「雲の都」「帰らざる夏」など多数。

(参考 「ある若き死刑囚の生涯」より)

 なぜ私が加賀乙彦先生を「日本文学の巨星」と呼ぶのかというと、十九世紀末西洋文学のゴシック的雰囲気を漂わせながら、時代精神を切り取っていく大柄な作風が多かったからだ。精神科医であり、また敬虔なクリスチャンだったこともあり、自身が生きた戦中戦後の時代を市民の視点から、強さも弱さも、美しさも醜さも容赦なくえぐり出し、しかしながら人間賛歌として謳いあげる力量は、ただただ敬服するのみである。

 先生のデビュー作は『フランドルの冬』。これは太宰治賞に応募し候補作に上った作品だが、応募した原稿は前半のみで、その後、後半を書き加えて完全版として出版したものが評価された。私が先生と出会った時、私は作家として崖っぷちにいたのだが、私が太宰治賞を受賞していることで、先生は縁を感じて目をかけてくださったのだと思う。

 私が脱原の会を退会した理由は、一口で言えば、会の活動の実態と私個人が目指す活動との差違が、震災から年月を経るにつれ無視できないほど開いてしまったためだった。会に対しては恩義を感じているし、会の存在なくしては、いわゆる「震災文学」を私は書けなかったかもしれない。それは認めても、会員であることのメリット以上に負担の方が大きくなってしまっては、脱会するしかなかった。先生に対しては申し訳なかったと思う。これからも福島を書き続けていくという決意を表明することで、先生への謝意に変えたい。




 

 

「自由人の集い」講演

 2023年1月13日、小高伝道書で催された「自由人の集い」で一時間半にわたり講演をしてきました。僕は小高教会幼稚園の卒園生です。講演の内容を、講演原稿を基に再録しました。

       自由人の集い

  ただいまご紹介をいただきました志賀泉と申します。

 今日は暖かい夜でなによりでした。お集まりいただきありがとうございます。

 よろしくお願いします。

 僕は神奈川県の川崎市に住んでいますが、年に数回は小高(南相馬市小高区)に帰ってきます。帰るたび、いい町になったなあ、人は少ないけど、小高をいい町にしようという人の気持ち、元からの住民も、移住してきた人も、いっしょに町を盛り上げようとする気概が、歩いているだけで伝わってきます。僕は文章を書くことしか能がない人間ですので、頭が下がる思いがします。ありがとうございます。

2018年9月撮影。ボランティアで小高駅の飾り付けをする駅守さん。飾りは季節ごとに変わり、年々豪華になっている。小高駅は無人駅になったが、人の手の暖かさは失われていない。

 1 一途で頑固な家に生まれて

 僕の実家は、むかしの銀砂工場(いまは駐車場ですが)のとなりにあります。以前は、相馬屋という米屋を営んでいました。

 明治元年頃に産まれた曾祖父が、浪江町の津島(山間の集落)で炭を買い、馬を借りて町まで運び、炭を売り、そのお金で米を買い、それを津島に運んで売るという商売を始めた。それが米屋の始まりだと聞いています。

 米屋以外にもいろんなことをしていました。山を買って材木商をしていましたし、炭屋もしていた。使用済みロウソクの滓を集めて、いまでいうリサイクルですね、再生したロウソクを売ったり、商人宿もしていたそうです。裸一貫から、がむしゃらにのしあがろうとした、典型的な明治の庶民でした。 

 僕が生まれたのは1960年です。当時は豚小屋があり、養鶏場もあり、卵を店で売っていました。毎日の卵取りは子どもの仕事でした。畑もあります。震災のとき津波の泥を被りましたが、兄が土を入れ替えて再生しました。

 商店街のどこを探したってこんな家はありません。しかも駅前で、表では商売をしながら、裏では農家と同じことをしていたんですから。一途で頑固な家風だったんです。

 米屋ですから、米の配達を手伝わされました。米農家と契約して精米も請け負っていましたから、小高町の海から山まで走り回っていました。中でも、浦尻がなぜか、僕は好きだったんです。日曜日には自転車で走って、海を眺めたり、貝塚で土器を拾ったりしていました。一人でいるのが好きだったんです。

 1960年代の祖馬屋の店先。たぶん野馬追見物で親戚が集まったときの写真。

 2 小説家になりたい

 小説家になりたいと思ったのは小学五年生からです。

 小説を書き始めたのは高校生からです。高三のとき、学研の雑誌のコンクールに応募しました。佳作ですけど入選しました。賞品はジーパンでした。

 美術部員が放課後、部室に置いてあったウイスキーを飲んで酔っ払い、寝込んで目覚めてみたら夜だった、というそれだけの話です。不良っぽい話を書きたかったんですね。実際、その頃にはお酒を飲んでましたし。まあ、佳作だけど入選したのが、俺には才能あるんじゃねえかと勘違いした始まりです。 

 家族には反対されましたけど、東京の大学の文学部に進学して小説を書き続けました。

 卒業しても、就職はしないでアルバイトをしながら小説を書いてました。けれど、ろくなものが書けなくて、親は帰って来い帰って来いとうるさいし、僕はまったく先が見えないのに意地ばかり張って、あの頃は本当に辛かったです。

 当時はバブルの入り口で、小説も垢抜けた都会的な小説が流行りだしました。音楽はテクノ、美術はポップアート。時代の変わり目でした。変化に追いつこうと必死でした。故郷みたいな泥臭いものを引きずってたら変われないから、一生懸命、自分の根っ子を断ち切ろう、断ち切ろうとして、何年も実家に帰らなかったんです。

 でも現実には、四畳半のアパートにせんべい布団の生活ですから、都会的になろうったってたかが知れてます。吹雪の夜は、窓の隙間から雪が吹き込んで、翌朝、畳の上にほっそーく雪の筋が積もってるんです。それが朝日を受けて輝いていたのを覚えてます。

 まあ、バブル時代の光と陰の、ホントの日陰でした。

 精神的にはどん底まで落ちて、生きるか死ぬかまで自分を追い込んで、ある日とうとう「もうダメだ、限界だ」って、何の予告もなしに小高に帰ったんです。

 夜中にいきなりですよ。実家の玄関に立って、でも「ただいま」とは言えませんでした。「すいません、帰ってきました」と、驚いて出てきた両親に頭を下げました。

 そのときの親父の言葉が、「自分の家に帰るのに謝るやつがいるか」でした。それ以上のことは何も言いませんでしたし、尋ねなかった。叱られると覚悟してたんですが。

 僕は晩飯の残りをもそもそと食べていました。それで救われたんですね。

 親も帰って来いとは言わなくなって、迷いが吹っ切れたんです。

 それからは、出版社の新人賞に応募すると、二次予選くらいまでは必ず残るようにはなって、少しは明るい光がさしてきた。

 でも、デビューまでにはまだまだ、十年以上もかかりました。

 

 3 埴谷雄高「ソーマリウム」

 小高にゆかりのある作家で、埴谷雄高という人がいます。

 その人が、相馬地方には大昔、「ソーマリウム」という隕石が落ちたんだと言ってるんです。落ちた隕石の断片が散らばって放射線を発散している。その影響を受けて、相馬地方には独創的な文学者(埴谷雄高島尾敏雄荒正人)が生まれたんだという、妄想ですけど。ソーマリウムの影響を受けた人間を、埴谷雄高「極端粘り族宇宙人の、つむじ曲がり子孫」と呼びました。「極端に粘り強くて、ひねくれ者」という意味です。

 この言葉に励まされてました。僕も粘り強さでは人に負けませんから、ソーマリウムの放射線を浴びた一人に違いないと信じてました。

 でも、なぜ頑張れたのかというと、やっぱり書くのが楽しいからです。

 いくら辛くても、他人に強いられた辛さじゃありませんから。自分で選んだ辛さですから。だから不幸じゃないんです。生活は苦しくても、書いているときは自由なんですよ。自由だし、安心していられるんです。毎日書いてました。一日休んだら、一日デビューが遅れると思ってましたから。

 

 4 東京の病院で故郷と出会う

 転機が訪れたのは、1995年です。僕は35歳でした。日本にとってもターニングポイントの年です。阪神淡路大震災があり、神戸でサカキバラ事件があり、オウム真理教事件があった年です。マスコミは日本の安全神話が崩れた、と言ってましたが、僕は自分の安全神話が崩れました。胃癌になったんです。入院したのは東京の武蔵野赤十字病院です。自分の死にリアルに向き合った、初めての経験でした。

 

 手術の日の朝、ストレッチャーに乗せられて手術室に運ばれていきます。

 手術の付添人として、親父と伯母さんが両脇にいました。歩きながら、世間話をしていたんですが、ストレッチャーを押していた看護師さんが、

「もしかして福島県の方ですか?」と話しかけたんです。「はい、そうです」

浜通りですか?」「そうです」

南相馬市ですか?」「そうです」

 実は、その看護師さんは原町(南相馬市原町区)の生まれだったんです。

「いやあ、わたしらは小高なんですよ」「どうしてわかったんですか?」

 お二人の「訛り」でわかったと言うんです。

 看護師さんの実家は昔、釣具屋をやっていたそうで、親父は知っていると言います。僕の家は米屋で、看護師さんは知っていると言いました。

 この偶然は凄くないですか? 東京の病院でのことですよ。僕は、何かに守られてるんじゃないかと思いましたよ。手術は成功する。俺は生き延るって確信しました。

 非常にリラックスして、手術室に入るまで、田舎話に花が咲いて手術を受けることができたんです。

(ついでに言いますと、手術の日は地下鉄サリン事件の日でした。僕は朝イチの手術だから影響なかったんですが、その後の手術はぜんぶ延期になりました。サリンの被害者を乗せた救急車が次々に運ばれてきたからです)

 

 5 20年前の自分に励まされた

 胃癌に関連して、もうひとつ、話したいことがあります。

 東京の病院を退院してから、しばらく自宅療養で小高に帰っていましたが 抗がん剤の副作用がきつくて、死にそうなくらい辛くなって、原町の私立病院に再入院したことがあるんです。

 ある夜、お腹が痛くてどうしようもなくて、看護師さんを呼んで、鎮痛剤の座薬を入れてもらいました。いつもは自分で入れるんですが、このときはその気力もなかったんです。

 その翌朝のことです。昨夜の看護師さんがやってきました。そして、

志賀君、わたしのこと覚えてる?」って、マスクを外したんです。

 なんと、小中学校の同級生でした。

「うわっ、こいつに尻の穴見られた」って、ショックでしたね。

 まあ、田舎の病院ですから、そういうこともあり得るんですけど。

 ただ、他にも偶然がありました。

 僕らが小学校を卒業するとき、絵や作文をタイムカプセルに入れて、20年後に開けるという企画があったんですが、僕はその、タイムカプセルを開けるイベントに参加しませんでした。

 なぜかというと、僕は作文に、「20年後は絶対小説家になってる」と書いちゃったからなんです。20年前の自分を裏切るようで、申し訳なくて参加できなかったんです。

 それで、僕の絵や作文を一時的に預かっていたのが、実は、座薬を入れてくれた看護師さんだったんです。その絵や作文は僕の手元に届いていましたが、さっき話した事情で、やっぱり読む気になれなかった。けれど、そういう経緯があったものだから、東京に帰って、読んでみる気になったんです。

 驚きました。作文の題名は、「僕の20年後の予定」。「夢」じゃなくて「予定」です。小説家になるのは夢じゃなくて、予定だったんです。

 作文の内容はというと、僕は小説家になってる、と書いたつもりだったんですが、記憶が違ってました。途中まではそうなんですが、締めくくりが、

「なーに人生は長いんだ。20年後を目標にやってみてだめだったら30年後を目標にすればいい。長い人生、なんとかなるさ」です。

 泣きましたね。まさか、20年前の自分に励まされるとは思ってもみなかったので。そして、作文通りに、20年後はダメだったけど、30年後(正確には32年後)に文学賞を受賞するんです。

 「エート」で始まるところが画期的。「斎藤道三」の名が出てくるのは、この年のNHK大河ドラマ国盗り物語」の主人公が斎藤道三だったから。相馬地区がロケ地だったこともあり、夢中で見ていた。

 こんなふうに、僕は自分の故郷と、縁を切ろう切ろうとしていたんですが、トカゲの尻尾と同じなんです。切っても切っても、切ったそばからまた生えてくるんです。生えてくるのは、必要だからですよ。 

 特に震災後は、故郷抜きじゃ小説を書けません。と言うより、僕は震災後の福島を書くために、小説家になった、というか、小説家になるよう仕向けられた、というか導かれたような気がしてるんです。なぜかっていうと、偶然にすごく助けられたからです。実力3割で運が7割ですね。

 

 6 貧乏旅を始めた

 

 僕は41歳までずっと本屋で働いていたんですが、出版不況で本が売れなくなって、リストラされました。

 それまでずっと、本屋で働きながら新人賞に応募していました。だからわかるんです。40歳過ぎたら純文学で受賞するのはほぼ無理なんです。でも時代小説だったら、50代60代で受賞する例がありますから、ここは一旦仕切り直しで、しばらく小説を書くのは止めて、人生経験を積んでから、時代小説にチャレンジしてみようと、計画を変更しました。

 それで、これが最後と決めて、前に応募して落選した原稿のタイトルだけ変えて、別の文学賞に応募しようとしました。

 文学賞には応募規定というものがあって、枚数が決まってます。僕は300枚の原稿を送ろうとしましたが、長編を受けつける新人賞ってなかなかありません。ネットで調べて、ひとつだけ見つけたのが、太宰治賞でした。それまでは太宰治賞って知らなかった。

 よく、太宰治が好きで太宰治賞を狙ったんでしょうと訊かれて、「はいそうです」と答えていましたが、あれは嘘です。たまたまだったんです。

 だから、あのタイミングでリストラされなかったら、いまの自分はなかったはずです。

 それで、出版社に原稿を送ってから、いまのうちにやりたいことをやっておこうと決めて、旅を始めました。旅をしながら、ルポタージュを書いて、それをフリーペーパーにして全国の書店に勝手に配っておいてもらったんです。寝袋を持って、基本、野宿の貧乏旅です。

 ルポタージュを書くためには自分からアクションを起こして、面白いエピソードを作らなきゃいけない。そのためには、行く先々で出会いがないとダメなんです。これはもの凄いプレッシャーなんです。出たとこ勝負ですから。

 でも、人間って必死になると何とかなるものなんです。いろんな出会いがありました。

 コツがあるんです。観光客のあまり行かない辺鄙な土地に行って、「この土地を調べに来ました。いやあ、いい所ですねえ」と言うと、大体みんなよくしてくれます。

「お前気に入った。俺の家に泊まれ」というのは、しょっちゅうありました。

 

 7 水俣との出会い

 その中で、いまの仕事に繋がっている出会いをひとつだけ上げます。熊本県水俣市の体験は大きかった。

 緒方正人さんという人に会いに行きました。漁師で、水俣病の患者でもあります。水俣病闘争の武闘派、過激派と呼ばれたくらいの人でした。

 その人の著書を読んで、興味を持って、住所がわからなかったんですが、なんとか家を探し出して、アポなしで会いに行ったんです。ところが留守だったんですね。でも、庭に離れがあったんで、覗いてみたら、いたんですよ、緒方さんが。

 いろいろ話をしてくれました。大事なところだけを話します。

 緒方さんは、長年、水俣チッソ工場を敵に戦ってきたわけですが、ある夏の日に、不意に気がつくんです。チッソ工場と戦ってきた俺だけど、自分の生活は工場の製品に囲まれてる。チッソ工場は肥料を作るだけじゃないんです。主に作っているのはプラスチックの原料です。プラスチック製品は、チッソ工場で作られた原料から出来ている。

 プラスチックを使ってない家電品なんてないじゃないですか。テレビも洗濯機も冷蔵庫も、どこかにプラスチックは使われている。漁船も本体はプラスチックなんです。

 つまりチッソ工場を敵と見て戦ってる俺が、実は、チッソ工場なしでは生きられない人間だったと気づいて、本人が話すには、気が狂いました。家の中にあるプラスチック製品をみんな家の外にぶん投げて、何日もさまよい歩いて、その果てに辿り着いた境地が、「わたしもチッソであった」です。

 「わたしもチッソである」という横断幕を工場の前に掲げて、座り込みを始めた。

 でも、一体何を言いたいのか、何をしたいのか、誰も理解してくれないんですよ。

 緒方さんが言いたかったのは、チッソ工場を悪と決めつけて、戦ったって世の中は変わらない。チッソ工場なしに生きられないのが現実なんですから。問題は社会システムであり、文明というネットワークなんです。誰もそこから逃れられない。けれど、まずそこを自覚しなくちゃいけない。世の中をかえようとするなら、自分を変えるべきなんだ。 

 では、どう自分を変えればいいのか。

 システムの外側に軸足を置くんです。システムの外側というのは、自然風土です。

 風土とは、遠い祖先から、代々、少しでも暮らしをよくしようと、重ねてきた工夫が、自然と溶け合って作られたものです。街道の松並木だって、ミカン畑だって、共同の井戸や道ばたのお地蔵さんだってそうですよね。

 そういう風景って、やさしいし、美しい。

 そういう風土に軸足を置いて、その世界を尊重することが、システムの外側に出ることじゃないか

 それは、僕が旅をしながら実感したことでもあったんです。人間っていうのは、風土に生かされてるんだなあって。

 そして、その旅の途中で僕は太宰治賞を受賞することになります。

 

 8 「反原発」に傷つく子どももいる

 時間の関係で、話はいきなり原発事故に飛びます。2011年の秋に、こういうことが起きました。

 僕は双葉高校の卒業生です。震災の年に、双葉高校野球部を取材していました。双葉高校の生徒はサテライト校に分散して、野球部員もバラバラになったんですが、いろんな苦難を乗り越えて、公式戦(夏の県大会)に出場しました。その道のりを記事にして、週刊朝日で紹介するためです。

 2011年7月、開成山球場で行われた夏の福島県大会。震災によりサテライト校に分かれた生徒達がこの日、応援席で初めて集まった。

 ある日、部員達を乗せた車に僕も同乗していました。車が福島駅に差し掛かったときです。右翼の街宣車が「原発反対」や「東電は謝罪しろ」とアジりながらやって来ました。そのすれ違いざま、部員達が一斉に「うるせえ馬鹿野郎」と右翼に怒鳴ったんです。

 びっくりしました。みんな原発事故の被害者ですからね。なのに、「原発反対」に反射的な怒りを示した。これはどういうことだろうと、あとで部員の一人に聞きました。

 すると、原発反対と聞くと俺たちまで批判されてるようで頭にくる」と言ったんです。

 彼は大熊町の人です。原発の恩恵を受けてきた町です。部員の中には、お父さんが東電の社員という人もいます。原発のおかげで育ってきた子。だから、その意味ではすごく純粋な反応だったんですね。

 僕が、原発被災地出身作家として、僕にしか伝えられないものがあるとしたら、こういう声じゃないかと思いました。「原発反対」という声がある一方で、その声に傷つく人もいるわけです。それは、外側からはなかなか見えてこないんじゃないか。

 原発を悪として、「反原発」を正義とする、二項対立的な関係を超えていかないと、人間そのものは描けないと思ったんです。

 その下地には、僕の水俣体験があったわけです。

 2012年秋の双葉高校。校庭に草が生い茂っている。

 実を言えば、どの地域が何マイクロシーベルトで、住めるとか住めないとか、住んでいる人がいるけど実は危険だとか、子どもが可哀想だとか、そういう話は別に、書きたいとは思わないんです。僕が書かなくても、誰か他の人がもっと上手に書くから。

 僕が書きたいのは、どういう立場かは関係なく、ぎりぎりの状況で生きている人の美しさなんです。

 

 9 救いがないことが唯一の救い

 坂口安吾に「文学のふるさと」というエッセイがあります。

 坂口は、「赤ずきんちゃん」の童話を例にあげて、可憐な少女がお婆さんに食べられておしまい、というお話に、救いのなさ、モラルのなさ、突き放された感じを受けながら、そこに、「氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ」を感じ、それが「文学のふるさと、人間のふるさと」なんだと書いています。そして、「宝石の冷たさのようなものは、絶対の孤独、生存それ自体がはらんでいる絶対の孤独」で、「この孤独には救いがない、でも、救いがないということが唯一の救いである。モラルがないことが唯一のモラルである」「文学はここから始まる」「このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思えない」

 僕もこの意見に共感するんです。赤ずきんちゃんの、別に何も悪いことはしていないのに、あるとき不意に日常が断たれる、理由もなく悲劇が襲いかかるというのは、震災や原発事故も同じだと思います。

 だから僕は原発被災地に「文学のふるさと」を見ます。

 坂口安吾が書いた、「救いがないことが救い、モラルがないことがモラル」だという言葉はどういう意味だと思いますか。「救いがないのが現実です。モラルがないのが現実です。でも、その現実を引き受けて生きていくこと。それが救いであり、モラルなんだ」僕はそう解釈しています。ここにお集まりの皆さんもきっと、震災後の体験を通して実感されたことと思います。

2012年4月の小高駅前。津波が運んできた土砂が道ばたに残っていた。

 2015年8月。我が家の二階から撮影。我が家は建て替えて平屋になった。この風景も、ほとんどの家が取り壊されて残っていない。

 10 小高教会幼稚園を小説の舞台に

 こでようやく、小高教会幼稚園の話になります。

 幼稚園時代のいちばんの思い出は、キリスト降誕劇で羊の役をさせられたことです。

 何がなんだか、白い服を着せられて、白いほっかむりをかぶせられて、四つん這いになって舞台に出ていったんですから、子供心にこれは哀しかったんです。

 その心境は『いかりのにがさ』で、主人公に言わせてます。

 「せめて立って歩きたかった」って。

 劇のあとで、ジャングルジムで撮った集合写真があります。

 みんな、堂々とジャングルジムに上っているんです。なのに、羊役の子の三人は、その下で、そろってうつむいているんです。僕の肩に杖が当たっているんですけど、それを払い除けることもできなかったんです。

『いかりのにがさ』を書こうとした時、そのエピソードが念頭にありました。

 教会幼稚園を舞台にした小説を書こうと決めた。教会には牧師さんの家族がいる。当然クリスチャンです。でも全員クリスチャンじゃ波風が立てません。波風が立たないと物語になりませんので、牧師の娘さんを、家を出て、無神論になった人と設定します。

 それで話の流れは大体出来上がるんです。

 牧師さんは、「怒りの感情は諸刃の剣だ。相手を傷つけると同時に自分を傷つけてしまう。だから、原発と和解しなくちゃいけない。そのために、原発を許そう、祈りを捧げよう」と説いて回っている。一方、娘さんの方は、「たとえ傷ついても、一生、怒り続けるんだ」と覚悟を決めている。

 

 どっちが正しくて、どっちが間違いだという問題じゃないんです。それぞれの立場があり、それぞれの考え方があるだけです。けれど、対立構造を超えていくものがなければ、小説を書いた意味がないんですよ。

 それが何かは、書いている段階では作者にもわかりません。書きながら悩んで、探していくしかない。苦しい作業ですけど、小説を書く醍醐味はそこにあります。 

 答えが先にあるわけじゃないんですよ。まず「問い」を見つけるんです。

 主人公が悩んだり藻掻いたりするように、作者も書きながら、答えを探して悩んだり藻掻いたりするものなんです。

 しかも、これが答えだ、というものは出さない。暗示するだけです。希望の光が遠くから指している。その道筋を示せれば、終わりです。

 

 ネタバレになるんで、あんまり話したくないんですが、『いかりのにがさ』のラストシーンは、ここなんです。この教会。

 主人公は三十代のシングルマザーで、女子中学生の子どもがいます。主人公は自分の子に、降誕劇で羊の役をやらされて、すごいイヤだった思い出を話す。

「お母さん、せめて立って歩きたかったよ」と。僕そのものです。

 ところが子どもの方はピュアですから、

「いいじゃん、羊。かわいいじゃん。お母さんの羊、見たかったな」と、さらっと受け入れる。お母さんのイヤな思い出を、肯定的なものに変えてしまう。

 そこに希望があるんです。

 過去のわだかまりと、いかに和解するかという。象徴的ですけど、主人公の怒りを中和するきっかけが、そこに生まれるんです。

 最前列右から二番目が僕です。歌をうたっているらしいが何を歌ったかは記憶にない。左は園庭。

 こういう話が書けるのは、僕だけだと思う。自分にしか書けないものが書けたのなら、その小説には存在理由があります。売れる売れないはあとから付いてくるものなので、あまり考えません。売りたいとは思いますけど、売れるための小説を書きたいとは思いません。

 結果として、僕がこの教会幼稚園を舞台に書いた小説が、少しでも、幼稚園の保存に繋がってくれたら、力になれればと願っています。

 

 11 浪江町 アスナロ幼稚園の園長先生が

 浪江町に昔、アスナロ幼稚園という大きな私立幼稚園があったのはご存じですか?

 そこの園長先生は郡山市に避難してましたが、幼稚園を再開しようとして、片道二時間かけて、郡山市浪江町を往復していました。

 町立の幼稚園はあるんです。その上で、なぜわざわざ私立の幼稚園を再開する必要があるのか。ただでさえ子どもの数は少ないし、放射能の心配もあるのに。いろんな人に聞かれたそうです。

 園長先生はこうおっしゃってました。

 こちらから園児を集めることはしません。入りたいという子がいれば受け入れます。

 ただ、ここを通りかかった卒園生が、卒園生でなくても町の人が、「ああ、やってるんだ」と思ってくれれば、それが心の支えになる、励みになるんじゃないかと、だから幼稚園を再開したいんだと、そうおっしゃったんです。

 結局は、その夢を果たせないまま、亡くなってしまいましたが。

 脚に血栓ができていたのが死因だって聞きました。きっと、毎日、往復四時間、車を運転していたので、エコノミー症候群だったのだと思います。

 

 いま、アスナロ幼稚園は更地になって跡形もありません。その場に立ってみると、ここに幼稚園があったなんて想像もつかない。むなしさだけです。夢の跡ですらないんです。

 こういう話もね、誰かが語り継いでいかないと、園長先生の死が報われません。

「幼稚園を、町の人の励みにしよう、心の支えにしよう」という園長先生の夢は、果たせなかったからといって、忘れていいものじゃありません。

 

 12 倉庫になるはずだった伊豆の廃校が

 静岡県伊豆の国市伊豆半島の付け根の山の中に、高原分校という廃校になった小学校があります。震災前、2007年のことです。そこで、僕の好きなアーティストが個展を開いてると知って、見に行きました。

 雑木林の中に、開墾した小さな畑と家がぽつんぽつんとある、あまり豊かとは言えない里山の中にその小学校はありました。

 校舎に入ってびっくりしたのは、教室も体育館も、いまも子どもが通っているんじゃないかと錯覚するくらい、昔のままなんです。保健室には、ベッドにきれいな布団が敷いてあって、枕カバーも布団カバーも清潔なんです。ためしに引き出しを開けてみたら、ちゃんと薬が入っている。そういう空間にアート作品が展示されていました。

 これはどういうことなのか、土地の人に話を聞きました。 

 その集落は満州からの引き揚げ者の開拓村だったんです。

 引き揚げ船にたまたま乗っていた人たちが、連れてこられて、今日からここがあなたたいの村です、土地を上げるから開拓してくださいと言われて、啞然としたそうです。山の上の、雑木林しかない土地ですから。

 その人達が、開拓の手始めに何をしたかというと、子どもたちのために学校を作ることでした。大工さんは大工さん、左官屋さんは左官屋さん、先生は先生で、それぞれの職業を活かして仕事を分担してね、そうやって手作りした小学校なんだそうです。

 そんな学校も、過疎化によって廃校が決まった。校舎も町の倉庫として使われる予定だったんですが、最後の卒業式で、卒業生が作文を読みました。

「僕たちの学校を、どうかこのまま残してください」と、泣きながら訴えたんです。

 それを聞いて、来賓の市長やら議員やら父兄やら、みんな涙を流してね。倉庫にするのを止めて、学校をこのままの形で残そうと決めた。

 そしてその分校は、生物学者が集まってシンポジウムを開いたり、環境問題の学びの場にしたり、ぼくが見たような美術展であるとか、文化的なイベントに使われるようになったんです。

 

 倉庫にするより、ずっと生産性の高い、有効活用ですよね。

 僕がどこに感動したかというと、子どもの作文ひとつで市の決定が覆ったことですよ。

 なぜそれが可能だったかというと、みんな、話の流れで決定に従っていただけで、心の底では、校舎の保存を望んでいたからだと思います。そのはずです。

 残さないと決めたら、知恵は生まれないんです。残すんだと決めて、初めて、残すための知恵が生まれてくる。そういうものだと思います。

 

 小高教会幼稚園の園舎を残したい、そのために有効活用したいという話を聞いたとき、僕が思い出したのは伊豆の、高原分校だったんです。

 幼稚園の役割も、心のよりどころという意味では、学校と同じです。

 学校って、幼稚園もそうですが、その土地の歴史や、人の思いが詰まった、心のよりどころじゃないですか。町の歴史と個人の歴史が重なり合う場所、それが学校であり、幼稚園です。だから残す価値があるんです。住民のモチベーションを上げていくために必要なんです。ただのノスタルジーじゃない。感傷じゃない。だからこれも未来志向なんです。

 それを、不要になったからと壊していくのは一種の暴力です。

 古い物を壊して、見栄えのするものに作り替えて、さあこれが新しい町ですよ、これから豊かにしてあげますよというのは、言葉は悪いですが、植民地の発想です。 たとえ豊かになろうが、植民地的豊かさなんです。

 

 12 チェルノブイリの村で

  原発事故が起きて、小高町警戒区域になったとき、まず思い出したのは、チェルノブイリ原発事故で管理区域に入った村で、本来は居住禁止区域なんですが、それにも関わらず住民が残って、あるいは都会での避難生活がイヤで戻ってきた人たちが、自給自足の暮らしを営んでいる村があります。その村のことが頭に浮かんだんです。

 ここに『アレクセイと泉』(本橋成一著 小学館という写真集があります。

 

 ベラルーシの汚染地帯の村に五十五人の老人と一人の青年が住んでいます。村の中心に泉があります。その泉を「百年の泉」と村人は呼んでいます。百年前の水が湧き出ているので、汚染されていない。実際、放射能は検出されていないそうです。先祖代々、何百年も受け継いできた泉が、村人の暮らしを守っているんです。

 だから「聖なる泉」として、十字架を立てて祈りを捧げている。

 

 フクシマの原発事故が起きた直後は、正直、小高の避難指示が解除されるのは何十年も先だろうと考えていましたから、それでも、この村のように、細々とですが、自給自足で暮らす人がいれば、小高は残るかもしれないと考えていました。

 写真集にある言葉を朗読します。 

 泉の話をしよう 

 泉の、古い木枠を壊して、切り倒したばかりの新しい樹で、

 ぼくらは新しい木枠を作った。

 これは、村の復活なんだ。

 誰もここから出て行かなくてもいいように。

 やって来た者は、誰でもここに根がはることができるように。

 

 泉は、人々に新しい命を与える。

 未来がなくては、現在もない。 

 この、最後のフレーズは、

 「過去がなければ現在もない。未来がなければ現在もない」

 と言い換えられるはずです。何百年も受け継がれてきた泉を守ることによって、現在の暮らしがあって、未来もあるわけですから。

 

 故郷を守るためには、必ず心のよりどころが必要なんです。それは学校でもいいし、幼稚園でもいいんです。廃校になったから、廃園になったからといって、そこで歴史が終わるわけじゃありません。そこから先へ続く未来があるはずなんです。それが未来を作る原動力になるはずです。

 

  最後になりましたが、飯島牧師様、この会を運営してくださっている皆さん、

 また、小高町を盛り上げようとしてくださっている皆さん、

 小高町に住んだり、通ったりしているすべての皆さんに、お礼を申し上げます。

 ありがとうございました。

小高教会幼稚園のこと

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 年代順に写真を整理していくと、意図せずに繰り返し撮影している場所があり、自分が何にこだわっていたかがわかる。そのひとつが小高教会幼稚園。実家の近所ということもあるだろうが、震災前(上写真)から園庭を撮影していた。物心ついた頃の記憶はほとんど幼稚園にくっついているから無理もない。入園の手続きだと思うが、母親に連れられ初めてこの建物に入ったことをなぜか覚えている。壁に大昔の人の生活を描いたポスターが貼ってあった。毛皮を着た女の人が木の実を摘んでいた絵が強く印象に残っている。それだけ不安だったのだろう。

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 入園式のことはまるで覚えていない。最前列の右から数えても左から数えても8番目がぼくだ。かなり緊張している。なぜ自分がここにいるのかよく理解していない顔。建物の造りは変わっているが基本的な構造はあまり違わない。園庭の遊具もジャングルジムなどは昔と同じだ。半世紀も過ぎたことを思うと、震災の有無に関わらず、それ自体がキセキかもしれない。

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 卒園式の写真。バプテスト派プロテスタント)の教会なので講堂は簡素。ここで普段はお遊戯をし、日曜日には牧師先生の話を聞き、聖書の言葉を書いた絵カードをもらって帰った。「いかりのにがさ」の最後の場面がここになる。

 断っておくとぼくはクリスチャンではない。他の園児のほとんどがそうであるように。それでも卒園式でいただいた「新約聖書」はいまも大切に持っている。「今は難しくて読めないでしょうが大人になったら読んでください」と牧師先生が話したのをなぜか覚えている。開いてみると傍線を引きながら読んだ形跡がある。

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 大学時代に近代文学を専攻していたので、レポートか論文を書くために必要があって読んだのだろう。明治以降の文学者にキリスト教がどんな影響を残したのかは、近代文学を研究する上で避けて通れない。ぼく自身に関しては、信者でもない自分に教会幼稚園の「神様」が何を残していったのかに実は興味がある。ぼくが教会幼稚園にこだわる理由もそこだ。自意識過剰と言われそうだが、案外無視できないほどに濃い影を残しているような気もする。チェルノブイリ・ツアーでウクライナベラルーシを旅行したときも、ぼくが感銘を受けたのは旧共産国にもかかわらず、至る所に濃く漂う宗教的(土着信仰的キリスト教)な気配だった。

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 1966年、園庭で開催された運動会。このせまい庭でこれだけの園児がどんなふうに走り回っていたのか、いま考えると不思議だ。ベビーブーマーの世代ではないが、まだまだ日本に子どもは多かった。運動会の記憶はないがお遊戯の練習は覚えている。人生で初めて、お箸を持つ手が右、茶碗を持つ手が左だと教わったのだった。 

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 上の写真は2012年8月撮影。2016年7月(下)にはなぜか庭が畑になっていた。黄色い花はカボチャだと思う。小高町の避難指示が解除されたころだったので、ここを訪れた人への何らかのメッセージだったのかもしれない。

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 下は、教会を表側から見た写真。左が2013年5月。右は2021年4月撮影。両側の建物が消えて、教会の存在が浮き上がった。

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 下は2015年1月撮影。クリスマスの飾り付けがまだ残っていた。看板の「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という聖書の言葉が、いまでは象徴的だ。

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 2021年4月。向こう三軒が更地になった。以前からあった看板の上の十字架が存在感を強めている。

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 同じ日の幼稚園側。整地をしてこざっぱりとした庭に桜(?)が植えてあった。周縁の民家が解体され視界が開けた。以前は不可能だった角度から庭を見ることができるのが、なんだか不思議。

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 下左は、前にも紹介した卒園式のキリスト降誕劇。中央の羊がぼく。右は遠足で行った夜の森公園。みんな楽しそうだ。「いかりのにがさ」に込めたぼくの原体験については前に書いたのでここでは触れない。

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 急がなくていいから、いつかこの教会と教会幼稚園を再開してほしいと切に願う。仮に再開は無理だとしても、このまま保存して町のために役立ててほしいと願う。感傷ではなく、町の未来のために。そう思うのは理由がある。

高原分校のこと

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 震災前、2005年のこと。伊豆半島の付け根に位置する山里に、高原分校を訪ねたことがある。高原分校は数年前に廃校になったが、ぼくの好きなアーティストが校舎を利用して個展を開いていたからだ。

 右写真の山中に高原分校はある。なぜここに分校があるかというと、戦後、満州からの引き揚げ者に開拓地として与えられた土地がこの山だったからだ。当時は手つかずの雑木林で耕作には向いていない。引き揚げ者というのも同じ引き揚げ船に偶然乗り合わせた人たちで、それまではほとんど見知らぬ同士だったという。

 とにかく、生きるために開拓しなければならない。彼らがまず最初に手がけたのは学校を作ることだった。山の木を伐り、大工の経験がある人が校舎を建て、教員の経験がある人が先生になった。新しい村を自前で作ろうというとき、子どもの教育を最優先したことに、当時の日本人の精神性の高さを感じる。子どもの教育にこそ開拓地の未来があるという認識を開拓民が共有していたのだ。

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 その学校では周囲の自然環境を利用した自然研究に力を入れ、レベルの高さは全国的に知られるほどになった。指導した先生の話では、「山の中の小さな分校の出身が、将来子ども達が進学したときにコンプレックスにならないよう、誰にも負けないものをひとつでも身につけさせてあげたかった」からだという。

 その学校の廃校が決定し、校舎は市の物置として利用されることになったのだが、最後の卒業式で、卒業生代表の生徒が「ぼくたちの学校をどうかこのまま残してほしい」と泣きながら訴えた。市長や市の職員をはじめ、来賓たちはその訴えに涙し、計画は急遽「保存」の方向で変更され、校舎はシンポジウムの会場やアーティストの発表の場として利用されることになった。美しいエピソードだと思う。

 実際、ぼくが訪ねて驚いたのは、教室はもちろんだが、保健室の引き出しを試しに開けてみたら、なんと薬までしっかりそのままという徹底ぶりだったのだ。

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 ぼくがここで体験したのは、アーティストが手編みしたニット帽をみんなでかぶり、薪ストーブを囲んで語り合おうという参加型のアートだった。(数ヶ月前に銀座の画廊でも催され、ぼくは大いに感激したのだ)。この日は開拓時代を知る世代が集まり、思い出話に花を咲かせた。ぼくは飛び入り参加みたいなものだが、アートには人が集う場を提供するという意味もある。ストーブの火を見つめること、ニット帽をかぶりお喋りすることもアートの形だ。参加者がひとつの場を共有することで何かが生まれる。形にならないもの。お金には換えられないもの。けれど人の心に感動を残すもの。

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 物置にするはずだった廃校を、子どもの涙によって保存に切り替えたのはセンチメンタルだろうか。ノスタルジーだろうか。もちろん、有効利用に成功しなければ保存の意味がない。しかし高原分校は保存することで地域の文化向上に貢献する施設になった。この意味は大きい。たとえ限界集落として消えていく運命にあるとしても、開拓の歴史をその地に刻むことは決して無意味なことじゃない。

 高原分校の例は、被災地の復興を考える上でも参考になると思い紹介した。産業を興し人口と税収を確保することにいまは必死だとしても、そろそろお役所的な発想から脱却して、もっとアーティスティックな発想を取り入れて復興の柱に据える時期がきているんじゃないか。

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『百年の孤舟』その後 Ⅲ 小高町の転変

震災前の小高

震災前の小高駅前の様子がわかる写真を探した。比較することで、原発被災地では震災による直接の被害のみならず、やむを得ず帰還を断念して自宅を解体し、更地にした家が多く、町の様子が年を追うごとに変化していった様子がわかると思う。それも原発事故による被害だと思う。

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 1995年か6年の写真ではないかと思う。相馬野馬追の武者行列の風景。我が家の前で。腕を組んでいるのは30代のわたし。若い!理由もなくドヤ顔。はす向かいにある掃部関ポンプ店は現在、柳美里さんのフルハウスになっている。電柱にはプロレス興行のポスターが。

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 写真左、武者の背後にある赤い看板の自転車屋はなくなった。店先でよくパンクの修理とかしていたのを覚えている。わたしの曾祖父の時代、ここはうどん屋で、二階は芸者の置き屋だった。曾祖父はここに入り浸って酒を飲んでいた。そのとなりはシャッターが閉まりっぱなしで何屋だったか覚えていない。ギフトショップだったかな? そのとなりの「甲子大國」の看板がある店は、いまは洋風になった「菓子工房わたなべ」。右写真の町並みも、いまはほとんど残っていない。下写真、「管」の字の見える家は「管野米屋」。ちなみにわたしの家も米屋。商売がたきがはす向かいにあったのだ。この家並みもいまでは、むかしの面影はない。

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 雪が降った翌朝、自宅前から西側を撮る。隣近所までせっせと雪かきをした記憶がある。1993年か4年

 震災後の小高(2012年)

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 2012年4月、小高町への立ち入りが日中のみ自由になる。線路や駅を超えて押し寄せた津波の泥が道ばたに残り、一年たったというのにまだ悪臭を放っていた。堆肥のような臭いだった。駅前にある双葉旅館のご主人の話では、玄関の上がり框すれすれまで津波の水位が上がった(約30センチ)という。ちなみにご主人は、3月14日まで避難せず旅館にねばっていたという。

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 同じ日に自宅前から西側を撮影。店舗(鈴木ミート)の外壁が路上に落下しているのがわかる。この店は現在、食堂として再生し繁盛している。わたしも利用した。うまい、はやい、やすい、盛りがいい。そのうえコロナ対策もしっかりとして安心。土木作業員や高校生たちで繁盛していた。

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 道ばたの乾いた泥をすくうスコップの音が、いまも耳から離れない。富士タクシーには眉毛のある名物わんこがいたが、震災後どうしただろう。写真を撮ったはずだが紛失してしまった。

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同じ年、2012年8月に盆帰りの帰省。上写真、突き当たりにあるのが小高駅。この短い距離で、道に面している家だけで5人の同級生がいた。自分もふくめれば6人。うち4人が被災し避難していった。

下写真、蔵造りの建物は「そうべい書店」。学校帰りによく立ち読みした。なのに漢字が思い出せない。

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 霊柩車に蜘蛛が巣を張っていたのを記憶している。右は通学路にもしていた路地。暑い日だったので非現実感が増した。道をふつうに歩いているのに足下がおぼつかなかった。夢の中を歩いているみたいで。自転車に乗った大学生ボランティアの男女が「何か手伝うことはありませんか?」と泣きそうな顔で声をかけてきた。「特にない」と答えるとがっかりしながら去って行った。

2013年~

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 2013年5月。記録映画原発被災地になった故郷への旅』の撮影で小高に入る。町並みはまだ密の状態だが、日が暮れてくると窓明かりのないまま夜に沈んでいく。その寂しさはたとえようがなかった。無人の町とはすなわち体温のない町だと知った。

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2014年7月。小学生による手作りの休憩所。小学校は隣接する原町区の小学校を仮校舎にしていた。町を訪れる人が増えて、なんとなく明るさが見えてきた頃だ。

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2015年7月。民家の解体が始まり、街に更地が現れ始めた。下写真は2012年4月。ほぼ同じ地点から撮影。

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2015年7月。来年の帰還開始に向けて、申請すれば自宅での宿泊が許されることになった。私も4年半ぶりで我が家に泊まった。この日は姪が婚約者を家族に紹介するという特別な日でもあった。家族全員が顔を合わせるのも震災以来。電気や水道も使える。テレビを観ながら食卓を囲んでいると、震災前に返ったように錯覚してしまうが、一歩外に出ると、街灯以外は闇に包まれた街の風景があった。

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 翌朝、夜明け前に起き出し散歩する。写真は小高川に架かる橋の上から小高神社方向を見る。この時の経験が「百年の孤舟」の夜の描写に活かされることになる。

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 2016年7月、小高町の帰還開始

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 浦尻から村上地区へと走る。廃棄物置き場の白いフェンスに沿って「おかえりなさい」の旗が無数に迎えていた。

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 陸橋を渡り最初の交差点にある、安売りで有名だった雑貨店。ここを左に折れる。山川食堂もっきりやもある。駅前の交流広場を飾っていた幸福の黄色いハンカチ。新しく仮店舗もできた。「エンガワ商店」とは、縁側のように人の集う店にしたいという思いから。実際、この店があるおかげでわたしもずいぶん助かった。1970年代まではここに路線バスの車庫があり、バスの利用客のために菓子などを売る店もあったのだ。むかしから人の集まる磁場があったのかもしれない。

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 小高駅の待合室には地元ボランティアによる飾りつけ。この飾りつけは季節ごとに変わる。手作り感あふれる温かい飾りがうれしい。線量計は0.15マイクロシーベルト毎時を示す。

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 翌日(相馬野馬追の祭日)は朝から雨が降っていた。雨の中、街を散歩しながら、解体されていく家々を目の当たりにした。帰還開始とは、同時に帰還断念の開始でもあったのだ。このときのやりきれない思いが、「花火なんか見もしなかった」の背景となった。

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 しかしふつうの意味の喪失感とは違っていた。心のどこかでは、これも「復興の過程」なんだと受け入れていた。いや、受け入れるべきなんだと念じていた。帰還者は少ないが、開店した店や食堂はあったのだ。

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 下写真は実家の裏側。となりは銀砂工場のあった家。立派な家だったがいまは更地だ。

f:id:futakokun:20210416213936j:plain原町区にて。雨の中、野馬追祭の武者行列。武者姿の桜井勝延南相馬市長(当時)が観客に馬上から挨拶。復興への協力を呼びかけた。

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 翌日は快晴。消えていく家があれば、もちろん新築の家もある。農協の跡地に生まれた復興住宅

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今野外科医院。この建物も解体された。路地を抜けて駅前通りに出る。わたしの家はいったん消滅し、セキスイハウスの小さな家に生まれ変わった。

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2021年の小高

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 3月25日、双葉町聖火リレーを見るために帰省。実家に立ち寄る。双子を産んだばかりの姪も実家で子育てをしていた。コロナ禍のため、赤ちゃんや老いた両親とは距離を置いて面会する。左写真手前の家がフルハウス(以前の掃部関ポンプ店。ポンプ店の看板を目印に見比べると街並みの変化がわかる)右写真の洋風3階建ての家は菓子工房わたなべ。

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半月後の4月、再び小高へ。このときは誰とも会わずに帰った。

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 右側、太い煙突のある建物が小川医院。むかし、この医院では庭に孔雀を飼っていた。その記憶をもとに「無情の神が舞い降りる」を書いた。小川医院のとなりが更地に。この風景の抜けように唖然とした。

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 あぶくま信用金庫の緑の看板を目印に上下写真を見比べてほしい。下は2016年7月の同地区。

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 上の写真は2016年7月。蔵造りの店、そうべい書店は下写真の白い家になった。(消火栓の標識が目印)。新築しても蔵造りを意識しているのがわかる。家の記憶を子孫に伝えたいのだろう。

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 下の連続写真は、2012年秋に車を流しながらビデオ撮影した動画から。暗いしブレているし、見づらいけど、かつての街並みがよくわかるので紹介する。いまの小高の街並みは「櫛の歯が抜けたよう」という表現がぴったりだが、それでも明るさを取り戻しているのを実感している。無人地帯だったときは「体温のない冷たさ」を皮膚感覚で感じたが、いまは体温のある街になった。人の息づかいのする街だ。いろいろ問題はかかえているにせよ、明るい方向に進んでいる。それだけは間違いない。

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『百年の孤舟』のその後Ⅱ

浪江・小高原発建設予定地のいま

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 「百年の孤舟」で、主人公の弟は海で拾ってきたコレクションを土間に並べて、納屋の中で何を考えていたのか。裏設定を暴露してしまうと、彼は「どうすれば浪江・小高原発計画を撤廃できるか」を考えていた。その結果、「福島第一原発に重大事故が起きれば可能だ」という、妄想的な結論を導き出したのだが、密かな願望が水素爆発という形で現実化してしまうと、自分の妄想が「呪い」として機能してしまったかのような罪悪感にさいなまれ、最終的に自殺してしまったわけだ。もちろん、画家としての才能に限界を感じたうえ、東京での生活が破綻してしまったことが直接の原因ではあるけれど。こんなことは小説には書けない。弟はわたしの分身でもあるから、どうしても書けなかった

 浪江・小高原発を象徴するアトムの看板は、現在は消えた。ベニヤ板にペンキの看板を十年以上も野ざらしにしていたのだから、ただでさえ傷んでいたのだ。。

 ご存じのとおり、浪江・小高原発建設計画は2013年3月28日に白紙撤回された。それにともない、予定地に建っていた高さ140mの気象観測塔は2014年11月に撤去された。実際問題、あれくらいの重大事故がなければ白紙撤回は不可能だったろう。

 観測塔の撤去を、朝日新聞はこう書いている。「午後3時半、3方向から鉄塔を支えていたワイヤのうち、北側が爆薬で爆破され、切断された。塔は10秒ほどかけて住宅の少ない南側に倒れた」その様子はユーチューブで見る事ができる。結果的には無用の長物になったわけだが、少年時代から目になじんでいた鉄塔だから、爆破され倒壊していく映像には、一抹の哀れさを感じてしまう。

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上写真は2012年4月。下写真左は2015年の鉄塔跡地。右写真は2021年。波消しブロックが置かれていた。

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2016年の棚塩集落。手つかずの風景画残されていた。

 作品中、雄高(小高)町側は予定地の面積が少なかったので抵抗は少なかった、と書いたが、実際は小高側の農家も浪江側に農地を持っている家が多く、地権者の数も浪江側とあまり変わらなかったと、小高町浦尻出身のフリージャーナリストNさんからご教示いただいた。

 また、予定地買収の裏工作について、棚塩原発反対同盟(複数あった団体のひとつ)の委員長だったM氏が、東北電力と直接売約せず、東北電力鹿島建設の意を受けた水谷建設などに通常の2倍以上の価格で買い取ってもらったという裏話も、Nさんからのメールで知った反対同盟の先頭にいた人が、裏で買収されていたわけだ。原発の怖さは放射能だけではない。建設予定地の住民を分断する。場合によっては家族や親族を分断し、信頼関係を失わせ、人の心を金でむしばんでいく。浪江側の120平方メートルの原発予定地は、浪江町に無償譲渡された

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上写真、道路の左側にある林が、原発に代わる開発のために、ごっそりと失った。

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 棚塩は、原発予定地があった浪江側の地区。そこがいま、水素工場を中心とした産業団地になっている。下の写真は浪江町のHPから。青色に見える部分はソーラーパネル。水素エネルギーは究極のクリーンエネルギーらしいが、わたしはあまり信用しない。エネルギーをどんどん使って、しかも地球にやさしいなんて、そんな都合のいい話には乗れない。メリットにはデメリットがつきもので、問題はデメリットのしわ寄せが誰に向くかだ。

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 とにかく、原子力の代わりが水素エネルギーかよ、とだけは言いたい。福島県浜通りは結局のところ首都圏のためのエネルギー基地という位置づけから離れられないらしい。まるで呪縛のように。「明るい未来のエネルギー」が手を変え品を変え、水素になったのだ。

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 産業団地の展望台からの光景。道路をはさんだ向こう側には昔と変わらない農村風景だ。

 一方、工業団地側を向くと、ほとんどがソーラーパネルで埋め尽くされている。地球にやさしい風景にはあまり見えない。どちらかといえば殺伐としているエコという名の自然破壊に見える。どっちみち人類の活動が活発になれば地球に負荷がかかるのだ。それは間違いない。自然エネルギーだからいいとは思えない。

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  「太陽光発電の寿命は30年だと言われてる。いま、ソーラーパネルが大量に作られているけど、処分方法は決まっていない。30年後にはきっと廃棄の問が出てくる」聖火リレーの日、南相馬の市会議員はここにぼくを案内しながら言った。

 なんだろう、このデジャブ感は。最初はイケイケどんどん。その後のことは成り行き次第、面倒なことは困ってから考える。この国はいつだってそうだ。太平洋戦争開戦も、原発も、オリンピックも、なるようになるで始めて諸問題は後回しにする。その繰り返しだ。

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 この辺りの道は鬱蒼としていたはずだ。いや、間違いかもしれない。記憶が混乱している。自分がどこにいるのか、ここがどこなのかわからない。原発よりはマシ、でいいのだろうか。

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 選択した覚えはないのに、いつの間にか選択させられている。招致前、国民の過半数が望んでいなかったオリンピックのためのエネルギーが、ここで作られるらしい。

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