2023年 専修大学「地域とメディア」特別講義

 「身の回りの古い物について調べる」とは? 

 ― 浦尻貝塚の石器を例に ―

 こんにちは。志賀泉と申します。

 僕が出演している記録映画原発被災地になった故郷への旅」(2013年 監督杉田このみ)視聴していただきありがとうございました。もう10年前になるのですね。このとおり僕も10年ぶん老けてしまいました。

 縁あって、毎年、杉田さんの授業「地域とメディア」に招かれて、その後の福島について語らせてもらっています。よろしくお願いします。

 杉田さんが毎年出している課題に、「身の回りにある古い物についてレポートを書け」 というのがあります。面白い課題なので、僕も毎年、学生になったつもりで、いろんな物を選んでここで発表しています。

 毎回悩むんです。古けりゃいいってもんじゃない。大切なのは、古い物と自分との関係性ですよね。

 関係性によって、その「古い物」の意味が変わってきます。言い換えると、意味を与えることによって、 「古い物」が存在の仕方を変える。そこからフィードバッグして、今度は自分自身の存在が変わる。

 存在が変わるというと大袈裟ですけど、要するに気づきです。 自分がどうし て、ここに、このように存在しているのか、気づきがあるんです。 杉田さんの「身の回りの古い物を調べろ」というお題は、根本的にはそういうことじゃ ないかと思います。 だから、やってみると面白いんです。

 そこで、今回持ってきたのはこれです。縄文時代の石器です。

 拾ったのは浦尻貝塚す。 浦尻とは、「原発被災地になった故郷への旅」で、僕が小高でいちばん好きだと言った 干拓地の地名です。 小学 5,6 年生の頃は畑でした。人の畑の中をうろつき回って、土器や石器を拾い集め て、きれいに縄目模様が残っている土器を見つけると友だちに自慢したものです。

 そこは福島第一原発からほぼ 10 キロの距離です。当然、避難指示が出ました。 ブルーシートを敷いているのは、遺跡を放射性物質から守るためです。事故から 5 年後の 2016 年に避難指示が解除されたのですが、僕は実家に帰るより先 に浦尻へと向かいました。

 津波跡に瓦礫の処理場ができていました。放射性廃棄物です。高い塀で囲われて内部が見えなかっ たのですが、ここからなら見えるだろうと上ったのが浦尻貝塚なんです。案の定、丸見えでした。低線量廃棄物をフレコンバックから取り出し、仕分けしているのがわかります。

 それにしても きれいな海でしょう。震災以前は海沿いにちょっとした集落がありました。それがみんな流さ れてしまった。手前は以前は田んぼでした。もっと昔は浦でした。 淡水と海水が混じっているので、魚介類が豊富です。縄文人はここに集落を作って、2700 年間住み続けました縄文時代の前期・中期・後期を通して、2700年間、移動する必要がなかった。さらに古墳時代の遺跡もあります。つまり、それだけ豊かで、住みやすい場所だったんです。

 現代でも海が見える貝塚っ て、実は珍しいんです。たいていは開発が進んだり、地形が変化してるから。つまり、いまでも縄文人の目になって海を望むことができます。それは素晴らしい体験なんです。

 震災後初めてここに入った時は草ぼうぼうで、雑草と言っても背丈より高いんですから、 そこに飛び込むと目の前に草しか見えないんです。かき分けてもかき分けても草、ですよ。 草の海に溺れる感じです。

 この写真、カメラが目の高さです。草ぼうぼうにもほどがある。方向がわかんなくなって、迷いに迷った末に、いきなり視 界が開けて水平線が見えた時の開放感。 それが縄文人の感覚と重なるかどうかはわかりませんけど。でも草の海に溺れて抜け出 せないと、死ぬんじゃないかとも考えるんですよ。 たとえばマムシに足を噛まれて、身体に毒が回って動けなくなっちゃうとか。そういう 不安は、縄文人と繋がると思うんです。

 だからまあ、馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しいけど、いま思えば貴重な体験だったんじゃないかと。

 いまはもう廃棄物処理場は役目を終えて撤去されています。

 いま、小高の人たちの間で、地元の歴史を見直そうという活動が盛んです。道端の 文化財、石碑やお地蔵さんをすべて調査している人たちもいます。 この浦尻貝塚(2006 年に国指定史跡)も史跡公園として整備中で、貝塚の断面を見る 施設も作っています。(現在は公開中)

 縄文時代の前期から後期までの時間の流れをこの一か所で体験できる。

 そういう意味で は、時間は流れません。過去の時間が地層のように積み重なって現在があるんです。 だから、現在を知ろうとしたら過去を知らなければならない。それがアイデンティティー (自己同一性)の確認になり、復興のモチベーションに繋がっていくんです。

 過去を知るとはそういうことです。過去を知ることで未来へのビジョンが描ける。また、そういうものでなくちゃならないんです。

 話は少し脱線しますが、万葉集の時代には、国褒めというジャンルの和歌がありました。 天皇が山に上って国見をする。大和の国を見下ろして、なんて美しい国なんだ、豊かな 国なんだ、お米がたくさんとれるぞ、家のかまどから煙が立ってるぞ。 というふうに、その土地に宿る神様を一生懸命ほめる、おだてるわけです。神様を気持 ちよくさせて、活性化させるんですね。そうすることで国は豊かになると信じていた。言霊です。

 僕の場合で言うと、原発被災地になった故郷への旅」も一種の国褒めなんです。 だから、放射能汚染された故郷でも、美しいと讃える。 間違いかも知れないけど、讃える。 そんなことをしたって現実は変わらないじゃないか。という批判はもちろんあります。 放射能に汚染された土地は危険だって言い続けた方が社会のためだ。 その考え方は正しい。だから反論しない。それくらい、僕も承知している。 むしろ危険な土地だからこそ、美しさを褒め称える必要があるんじゃないか。 それは、その土地を殺さないためなんです。 たとえ住めない土地になったとしても、その土地が本来持っている価値は否 定しない

 地霊や神様を信じているわけじゃありませんよ。その土地の歴史、風土、そこで生きてきた人たちの思いを尊重するということです。 それが礼節というものです。少なくとも、この視点を欠いた復興を僕は復興と呼ばない。破壊と同じです。

 だから「福島に住めない」とは言わない。 放射線量って数字ですから。情報ですから。

 現場に立たなくても、情報を集めれば判断を下せる。それが正しいと信じて疑わない。なるほど正しいのかもしれない。でも現場に立つと、情報以外の、感覚に訴えてくるものが自分の中に入ってくる五感で受け取ったものと、情報とが矛盾する時、どう折り合いをどうつけるか、それは 難しいし、面倒なんです。

 その面倒臭いものを、課題として引き受ける。すると、オリジナルな視点、発想を持て る可能性が生まれる。 現場で考えるとはそういうことです。だから自分の身体で動かなくてはならないんです

 水素工場(浪江町)と未売却の土地

 ここから少し南に下ると、浪江小高原発の建設予定地がありました。 その跡地がいまどうなっているか。 水素工場になってます。ここで水素を作っています。

 水素エネルギーで新しい町作りをしようという、世界に先駆けた構想を浪江町が立ち 上げています。

 この工場は電力をすべてソーラーパネル太陽光発電でまかなっています。 まさにソーラーパネルの海です。 ところがソーラーパネルの海に、島があったんです。 島っていうより穴です。草ぼうぼうの畑の跡です。わかりますか。写真の上の方、北側です。

  地権者が売るのを拒否したので、ここだけボコッと穴が開いたようになってる。 この土地の地権者は浦尻の人で、僕の友人です。彼に案内されて、実は初めて気づきました。ごめんなさい、僕の目も節穴でした。

 原発計画の時、実は一度売却を成立させているんです。でも、計画が原発から水素工場に変わった 時の手続きが納得できなくて、売るのを止めた、拒否したという経緯があったそうです。

 その場所に案内してもらいました。ここで畑の手伝いをしたんだよ、インゲン豆を取ってたん だよって懐かしそうにしみじみ語るんですね。 彼にとっては、この小さな土地が、自分がここで生きてきたという証でもあるんです。実家が津波で流され、そのうえ盛り土に覆い隠されて跡形もありません。 だからこそ、守りたいものがあったのかもしれません。

 ところで、水素工場にはもう一か所、手つかずの土地があります。そこは雑木林です。航空写真の南側にある、それこそ島みたいに見える所がそうです。

 原発計画の土地買収が進んでいた時期、一軒だけ、売却を拒否した農家がありました。原発反対同盟の人です。当時は、ひとつの土地を何人かで共同管理して、十人なら 十人、全員がハンコを押さないと、土地を売れないようにした。そうして裏切り者を出さ ないようにしてきたんです。

 ところが、土建会社が札束を切らして一人一人切り崩していった。そして最後に一人だ けが残った。

 最後の一人がハンコを押さないから土地が売れない。お金が入らない。 もの凄いイジメがあったそうです。とうとうその人は耐えられなくなって引っ越しまし た。いびり出されたようなものです。決して美談にはならない、泥沼の人間関係が、実はあったんです。

 これも彼に教わって初めて知ったことです。水素工場の近くに開拓碑があります。痩 せた土地だったのを、戦後、開拓民が、血が滲むような努力で農地に変えていった。 ところが東北電力の原発計画が持ち上がって、泣く泣く売り渡したということが書いて あります。 でも、この石碑を作ったのは平成六年です。つまり東北電力への売却は完了してい ない。にも関わらず、完了形で書いているその意味がわかりますか? 考えて下さい。 売却を拒否している人にプレッシャーをかけるためだと考えられませんか?

 もし予定通り原発が完成していたら、この開拓碑は自然に存在していたはずです。それが、はからずも不自然な存在になってしまった。ある意味、負の遺産です。 歴史の皮肉です。

 ちなみに彼は、例の、鉄腕アトムの看板を作った浦尻青年団の人たちと知り合いです。

 原発計画が消えてしまってから、みんな口々に「実は俺も原発に反対だったんだ」と 言い出したそうです。 いい悪いじゃなくて、人間ってそういうものです。 太平洋戦争の時も、日本が負けてから、「実はわたしも戦争に反対でした」って言い始 めたんですから。 歴史は繰り返すんです。

 震災遺構と原発事故

 はい。ここまでが、杉田さんの課題に対する僕のレポートです。

 ではここからが本題です。「地域とメディア」について話します。

 震災の被災地にはいわゆる震災遺構があります。津波にあった小学校の建物とか。 震災遺構も一種のメディアです。それは津波の恐ろしさを後世に伝えるため、同じよう な災害が起きたとき犠牲者を最小限にするため、という目的があります。

 では福島県の場合はどうか。東日本大震災と、原発事故の複合災害です。

 特に原発事故について、何を、誰の目線で、どう伝えるか? 難しいものがあります。

 原発で働いていた人は、いまも原発に愛着があります。これはやむを得ない。原発のお かげで家族を養ってきたのですから。日本の高度成長を支えてきた。地元を豊かにしてき た。その誇りはなくならない

 けれど一方で、大変な事故を起こしてしまった。故郷を汚してしまった。その罪悪感を 背負っている人もいるんです正直な人ほど気持ちの折り合いがつかない

 地元民の、原発に対する感情はさまざまで す。若い人もそうです。原発事故についてはあまり話したがらない。自分の経験を政治的 に利用されたくないっていう、アレルギー反応があるような気がします。

 その上で、地元に伝承館を作ろうとすると、デリケートな問題を抱え込むわけです。

 ここで紹介するのは、個人で作った伝言館、町が作ったアーカイブミュージアム、福 島県が作った伝承館の三つです。 それぞれに、何をどう伝えようとしているのか、特徴があります。

 それを比較する ことによって、「伝えるとはどういうことか」について考えてきたいと思います。

ヒロシマナガサキビキニフクシマ伝言館

 まず、個人が作った、楢葉町にある伝言館。

 楢葉町には、富岡町とまたがって福島第二原発があります。第二原発は、かろうじて、ぎりぎりで重大事故をまぬがれました。しかし第一原発から 20 キロ圏内に入るので、楢葉町民は全員避難しています。

 この楢葉町に伝言館を作ったのは、宝鏡寺というお寺の住職です。早川䔍雄(とくお)さんです。 早川さんは去年の暮れに 83 歳で亡くなられてます。

 室町時代から 600 年続く、浄土宗のお寺です。原発事故があって、早川さんも避難しましたし、このお寺も空き家になっていました。

 楢葉町福島第二原発の計画が持ち上がった1970 年代から、早川さんは原発に反対し ていました。50 年間ずっと、反対運動の先頭に立っていたんです。 それだけに、原発事故が起きて町民に避難指示が出たときは、「なぜ原発を止められな かったんだ」と無念の思いが込み上げたそうです。

 早川さんは震災前、精神障害者知的障害者のための施設を運営していたので、障害者 が避難先で弱っていく姿を間近で見ていました。障害者は一般に、環境の変化に敏感なん です。病気になったり、自殺したり、亡くなっていく人が少なくなかった。 僕も知的障害者の施設で働いてるから少しはわかります。

 世の中が不安定になる と、いわゆる社会的弱者が、まっ先に切り捨てられ ていきます。 その人たちへの申し訳なさが、早川さんにはあったんだと思います。 自分の責任じゃない。仕方がなかったでは割り切れない思いがあった。

 そこから、悔恨の場としての、「伝言館」設立に至ったんじゃないか。

 お寺の境内に入って、まず目につくのは「非核の火」です。 これはもともと、上野の東照宮にあったんですが、東照宮の修復で、撤去されました。 行き場のなくなった火を、2021 年 3 月 11 日、宝鏡寺で引き取ったそうです。

 ちなみにこの火は、ヒロシマの原爆投下でくすぶっていた火と、ナガサキの原爆瓦でと った火を合わせた火だそうです。 その火を、放射能の被害にあった楢葉町のお寺で灯し続けることに、意味を見いだした のでしょう。 ヒロシマナガサキの被害とフクシマの被害を結びつける。 さらに、第五福竜丸の事件も結びつけた。

 冷戦時代、アメリカがマーシャル諸島ビキ ニ岩礁で水爆実験を行った。いわゆるビキニ水爆実験。

 たまたま死の灰を浴びたマグロ漁 船が第五福竜丸です。乗組員だった久保山愛吉さんが被曝で亡くなりました。 その久保山さんにゆかりのあるバラが、境内の片隅にある。 「愛吉・すずのバラ」です。久保山さんの奥さん、すずさんが育てたバラです。 ヒロシマナガサキ・ビキニ・フクシマを結びつけて、

 原子力による犠牲者を鎮魂する。 早川さんはそこに、原発被災地のお寺としての使命を見いだしたのです。 私費を投じて、境内に伝言館を作りました。ヒロシマナガサキ・ビキニ・フクシマ伝 言館です。

  伝言館の壁です。日中戦争から真珠湾攻撃、原爆の写真が並んで飾られています。 なぜでしょう? ここが伝言館の独特なところです。

 まず日本が中国に戦争をしかけた。そして太平洋戦争に拡大した。戦争に決着をつける ためヒロシマナガサキに原爆が投下された。戦後になると、ソ連アメリカで核兵器の開発競争が始まった。一方で、原子力の平和活用として原子力発電所が作られていった。 その結果として、フクシマの原発事故が起きたのだという、早川さんの歴史認識があります。 早川さんは仏教徒ですから、根っ子には仏教の思想があります。 この世界は因果で成り立っている。ひとつの結果が生まれるには、さまざまな原因があ る。だから、悪い結果をなくすためには、因果関係をさかのぼって、原因を消していく必 要がある。

 原発問題と反戦・平和が因果で繋がるわけです。

 「縁起の法則」「縁滅の法則」と言います。 「これによりてこれが起こる、これなければこれなし」

 パンフレットにそう書いてあります。 この伝言館は、早川さんの歴史認識、思想の表明でもあります。 もちろん個人の施設だから出来るんです。

 館内に入ります。 早川さんが、原発反対運動をしている過程で集めた資料が展示してあります。 主に、ポスターや当時の新聞です。 たとえば、福島民報の記事。何が書いてあるかというと、

 原発ができれば巨額の交付金が支給さ れる。大熊町双葉町は豊かになる。福祉の町に生まれ変わるんだ、ということがあからさまに書 いてあります。全面肯定です。

 交付金目当てに、自治体が喜んで原発を受け入れていった歴史があった。要するにお金なんです。

 1975 年の大熊町の一般会計が約 20 億円でした。税収の 90 パーセントが原発関係でした。おと なりの双葉町が 9 億 3300 万円。そもうち約 4 億円が交付金原発を受け入れたことで国 から貰えるお金です。

 この写真はインパクトありますね。エネルギー・アレルギー。 エネルギーがむんむん匂ってきます。

 確かに危険な香りがしますね。 何を言いたいんでしょうか。僕ならこの手の女性には近づきません。怖いから。 電通あたりが作ったんじゃないでしょうか。

  地下もあります。地下の展示は、アインシュタインから始まる原子力の歴史。戦争の歴 史です。 

 手前に展示してあるのはお寺で使う法具です。ガラス製です。 金属製の法具は、供出といって、太平洋戦争中に軍が持ち去ってしまいました。代わりに置いていったのがガラスの法具でした。

 早川さんは四、五歳で、横でその様子を見ていたそうです。 お寺の道具が、戦争で人殺しの道具になる、それがお国のためだと聞かされて、子供心 におかしいと感じたそうです。

 その体験が、早川さんの原点なのかもしれません。

原爆瓦も展示してます。触れますので、ぜひ触ってみてください。不思議な感触 がしますから。ちなみに、この二人は友人の詩人夫婦です。

とみおかアーカイブミュージアム

 次に紹介するのは、富岡町にあるとみおかアーカイブミュージアムです。富岡町の運営 です。

 富岡町には福島第二原発があります。 津波の被害も相当なものでした。 駅前の街並みが津波で破壊されました。  第一原発から 20 キロ圏内に入っているので、警戒区域になり住民は全員避難しました。いまも一部は帰還困難区域のままです。 帰ってきているのは元の人口の一割程度です。(14000 人が 1300 人に)

 商店街も更地ばかりになりました。 それを踏まえて、ミュージアムに入っていきます。

半分は純粋な歴史資料館です。 動物の化石から始まって、縄文式土器弥生式土器平安時代の瓦、たたら製鉄 たたら製鉄はご存じですか? 「もののけ姫」に出てきましたね。古代から江戸時代に かけての製鉄方です。 

  富岡町は鉄の産地だったんです。鉄は貴重品でしたから、江戸時代は天領になりました。 天領とは幕府の直轄地です。江戸時代は税が優遇されました。 年貢も軽かったんです。そういう土地には商人が集まりますよね。 富岡町は栄えたんです。双葉地方でいちばん栄えた町になりました。 戦争の展示 、戦後の展示 と続いて、館内の半分を占めるのが東日本大震災の展示です。

 これが、とみおかアーカイブミュージアムの特徴です。 縄文時代から延々と栄えてきた富岡町の歴史が、原発事故によって切れるんです。 原発事故が奪い去っていったものの大きさがわかるんです。

 原発事故は、いまの時代の人間にだけ被害を与えたんじゃない。何千年と培ってきた 歴史・文化にも損害を与えてしまった。 でも、同時に逆のことも伝えています。

 富岡町はこれだけ栄えた町だったんだ。そのプライドを取り返そうという、復興のモチ ベーション作りにも役立ってるんです。

 そして、このミュージアムのもうひとつの特徴は、よけいな説明を入れない。物をして 語らしめるところに、コンセプトがあるように思います。 ひとつひとつは、ささやかな物なんです。でも、それの意味するもの感じ取れば、震災直後、原発事故直後の混乱、緊張感がリアルに伝わってきます。展示ケースに臨場感がみなぎっています。

  おそらく、これらの物を集めて保管した人は役場の職員だと思います。

 地元の人、現場にいた人でなければ、これらが近い将来に貴重な資料になるとは、思いつかない。 自分も大変な思いをしたからこそわかるものがある。 意思伝達としてはアナログなメモ用紙、手書きのポスター。これらは実用以外の何物でもない。だから、緊急の用が過ぎればそれこそ紙くずとして処分される運命にあった。しかし、これら殴り書きの筆跡から当時の切迫した心境が痛いほど伝わってきませんか これらに資料的価値を見つけて保管していた人の、先見の明に頭が下がります。

 また、来館者も感性のレベルを最大に高めておく必要があります。たとえば原爆資料館の展示物のような衝撃度はここにはないかもしれない。しかしだからこそ、沈黙している物たちのささやく声に耳を澄まさなければなりません。

東日本大震災原子力災害伝承館

  次に紹介するのが、双葉町にある東日本大震災原子力災害伝承館です。ここは福島県 の施設です。

 おさらいすると、楢葉町の伝言館には思想がありました。仏教に基づく独特な歴史観が示されていました。

 富岡町アーカイブ・ミュー ジアムには物、痕跡がありました。説明は最小限におさえ、物をして語らしめる展示です。

 この二つには欠けているものがあります。何でしょう?

 それはデータです。 何年何月に何が起きて何人が犠牲になり何人が避難したか、という客観的なデータがない。

 双葉町の伝承館はデータ中心の展示です。データで、情報で伝えようとし ている。そこに伝承館の特徴があります。

 入るとまず、大スクリーンで津波原発事故の映像を見ることになります。

 次に年表のあるスロープを上 って、展示室に入っていきます。 オープンした時は展示内容に批判が集まり、一部展示替えがありました。ひと言で言えば、。原発事故の失敗から何の教訓も導き出していない、という批判です。 東電や政府に対して遠慮、忖度があるんじゃないかと疑われました。

 その批判に対して、伝承館側は、地元の人の意見を集めて調整した結果、こうなったと答えていました。地元の新聞にはそう書いてありました。

 言い訳ではなく、それもあり得る話だと僕は思います。誰もが納得できるような展示にしようとすれば、中身 は薄まります。 政治的中立を意識すれば何も言えなくなる。放射能の影響を強調されると復興の足かせになるから、不安を煽るような展示はやめて ほしい、という意見もあるでしょう悲惨な過去は思い出したくないという人も。でも、それらをすべて取り入れたら、何のための伝承館かわからなくなってしま う

 だって、伝承館は未来の人類に伝えていくための施設でしょう。 最低でも百年の視野が必要です。

 百年後も伝承館を残していくつもりなら、百年後の人類に何を伝えるべきか、その視点が必要です。

 展示室の壁を埋めているのはデータです。数字は中立です。客観的な事実です。嘘はつかない。 でも、嘘をつかないからこそ、数字の裏に隠れているものが見えにくくなります。

 いまも何人の方が避難生活を送っています。これはデータです。データを見て理解する。

 けれど避難者の中には、路頭に迷いホームレス 化した人がいます。

 ホームレス化した避難者を救済するNPOの代表から話をきいたこと があります。子どもを連れて、自殺しようかどうか迷いながら、踏切の近くをうろついて いたお母さんがいました。最後の最後に、スマホNPOの存在を知って連絡してきた。 NPOの方が駆けつけて保護した時は、所持金は数十円だったそうです。 そういう事実がある。でも、その実態は把握しきれない。

 把握できない人は存在しないことにされてしまうそれがデータの怖さなんです。ホームレス化した避難者のことも展示に加えろと言ってるんじゃありません。ただ、データですべてをわかったような気になってしまうことの怖さを言ってるんです。

 ここで何人、津波の犠牲者になりましたと数字で示されたら、人間が見えなくなる。

 津波被災地にはそれぞて慰霊碑があります。 名前と共に年齢も刻んである慰霊碑があります。 苗字が同じで、90 歳の人と 60 歳の人が並んでいたら、ああ、この人は年老いた親を助 けようとして逃げ遅れたのかもしれないと想像できますよね。 0 歳の子どもと、30 代の女性が同じ苗字で並んでいたら、親子だったんだろうな。お母 さんはさぞかし無念だったろうなと、誰でも胸が痛みます。 自然と手を合わせてしまうでしょう。 それが鎮魂です。データを見て数字に手を合わせる人はいないでしょう。

 たとえば、津波の跡から見つかったランドセルと運動靴も、一個ずつでは、言葉は悪い ですが標本と変わりません。 浪江町にかつて「思い出館」という施設がありました。 津波跡で見つかったものを洗浄して、きれいにして、持ち主に返すのが目的の施設で、 いまはありません。展示が目的ではないのですが、誰でも入れるので僕は何度か見学させ てもらいました。

 そこにはおびただしい数の写真や日用品、美術品が置いてありました。 たとえばランドセルならランドセル、靴なら靴がたくさんあることで、ひとつひとつ の特徴が浮き上がってきます。そこで初めて、これを使っていた子どもの姿が、個性を持った人間として見えてくるんです。

 もうひとつ比較例をあげます。これはいわき市のショッピングモールのフロアに展示され ていたものです。 体育館の避難所を再現したものです。この展示から何がわかりますか? せまいですね。 男の人と女の人です。綿入れ半纏が小さいから女の子でしょう。男の人はたぶん父親 です。女の子は思春期かもしれません。着替えだって、お父さんには見られたくない。だ から、ただでさえせまいのに、さらに半分に仕切ったんですね、おそらく。 そんな避難生活がこの展示から見えてきます。この展示にお金がいくらかかりました? タダ同然でしょう。でも、これを製作した人が、何を伝えようとしたのか、どんな想いをこめたのか、その切実さが伝わってきます

 双葉町の伝承館にある福島第一原発の模型です。リアルに再現されています。このリアルさが何を訴えてくるでしょうか。人それぞれだとは思います。でも僕は、模型は模型であり、模型を超えてはいないように感じます。

 双葉町の伝承館の目的は、「復興の拠点づくり」「町おこしのための観光資源」ではないでしょうか。

 それが悪いとは言いません。 観光資源だから、重くて暗い、深刻な内容じゃ困るのでしょう。

 展示の最後を飾るのは、 明るい双葉町の未来です。再生エネルギーを用いた、自然豊かな町づくりを目指し ます、という構想をデザインして、明るい気持ちで帰ってもらう。そのことの意義は否定しません。

 けれど、災い転じて福となす、で完結してしまうと、結局のところ、原発事故は何を残し たのか、考えずに済んでしまうんです。だって、結論としては明るい未来 なんですから。

 でも、これはあくまで僕個人の感想です。 入館されていない人に先入観は植え付けたくありません。もしもあなた方の中で、夏休みに福島に足を運ぼうとする人がいたら、どうか僕の感想は気にせずに、 みなさんまっさらな気持ちで見てくださるようお願いします

 自分で足を運ぶことは大事です。その時、僕が話したことと異なる印象をあなたが抱いたのなら、そこにあなた自身のオリジナルな発想の芽があるはずです。どうかそれを大事にしてください。