2021-01-01から1年間の記事一覧

小高教会幼稚園のこと

年代順に写真を整理していくと、意図せずに繰り返し撮影している場所があり、自分が何にこだわっていたかがわかる。そのひとつが小高教会幼稚園。実家の近所ということもあるだろうが、震災前(上写真)から園庭を撮影していた。物心ついた頃の記憶はほとん…

『百年の孤舟』その後 Ⅲ 小高町の転変

震災前の小高 震災前の小高駅前の様子がわかる写真を探した。比較することで、原発被災地では震災による直接の被害のみならず、やむを得ず帰還を断念して自宅を解体し、更地にした家が多く、町の様子が年を追うごとに変化していった様子がわかると思う。それ…

『百年の孤舟』のその後Ⅱ

浪江・小高原発建設予定地のいま 「百年の孤舟」で、主人公の弟は海で拾ってきたコレクションを土間に並べて、納屋の中で何を考えていたのか。裏設定を暴露してしまうと、彼は「どうすれば浪江・小高原発計画を撤廃できるか」を考えていた。その結果、「福島…

『百年の孤舟』その後

2021年4月9日、特急ひたちに乗って南相馬市に向かった。県境を越えて福島に入ると、「こんなに美しい土地だっけ」とひそかに心打たれていた。もちろん仲春の季節だからという理由もある。鮮やかな新緑に草花が彩りを添え、桜の花も残っている。野山は俳句の…

「このからだ微塵に散らばれ」とチェルノブイリ

「このからだ微塵に散らばれ」を創作するにあたって、最初にふたつの決めごとを設けた。 ひとつは宮沢賢治の詩句をタイトルに据えて、「いかりのにがさ」「花火なんか見もしなかった」と併せて宮沢賢治三部作にすること。そこで、「春と修羅」の一行、(この…

「花火なんか見もしなかった」と火の祭

「花火なんか見もしなかった」に描いた雄高町の花火大会は、小高町の「火の祭」をモデルにしている。 火の祭は相馬野馬追祭の行事のひとつ。古くは、祭を終えて郷(相馬領内の行政区分)に帰った騎馬武者を、民衆が松明をかかげて出迎え、ねぎらったのが始ま…

「いかりのにがさ」はこうして生まれた

「いかりのにがさ」というタイトルは、宮沢賢治の詩「春と修羅」から取っている。 いかりのにがさまた青さ /四月の気層のひかりの底を/ 唾し はぎしりゆききする /おれはひとりの修羅なのだ キリスト教会と付属幼稚園 舞台は南相馬市雄高区(雄高町)にある…

「百年の孤舟」の舞台

「百年の孤舟」は、知る人ぞ知る大作家、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」のもじりであり、マルケス的なマジック・リアリズムを意識している。舞台は南相馬市雄高区。もちろん小高区がモデル。小高を父祖の地とする作家、埴谷雄高から取っている。埴谷雄…

『百年の孤舟』販売についての訂正とお詫び

すいません。先日お知らせした新刊『百年の孤舟』ですが、残念ながら現在、版元とアマゾンとの取引はないそうです。 ネット通販では、 「honto(ホント)」が可能です。18日から受け付けます。 https://honto.jp/netstore.html?cid=ip_hb_altab_ec または 荒…

10年目の双葉町を歩く

震災10年目の双葉町を訪ねた。コロナ禍で旅行を控えていたので、ほぼ1年ぶりの再訪。もちろん変化はあった。双葉町の「復興」がどこを目指しているのかも徐々に見えてきた。駅の西側には復興拠点の住宅用地を整備している。マンション型の復興住宅か、一軒…

記録映画「原発被災地になった故郷への旅」講演録

2013年、記録映画『原発被災地になった故郷への旅』(監督・杉田このみ)の制作に参加した。出演者は僕一人、制作スタッフは監督と撮影助手(監督の現在の夫)と僕の三人、一泊二日で小高町を撮影して回ったのだった。その後は各地で映画の上映とトークイベ…

「地域とメディア」(専修大学特別講義2020年版)

専修大学ネットワーク情報学部 科目名「地域とメディア」担当教員 杉田このみ(講師)コロナ禍により、リモートで講義を行いました。その講義録を一部抜粋で掲載します。 まずは自己紹介から 志賀泉と申します。よろしくお願いします。志賀泉というのは、ペ…

水俣を旅して(専修大学特別講義・2019年)

ここで紹介するのは、2019年に僕が専修大学で行った特別講義の講義録です。学部はネットワーク情報学部。科目名は「地域とメディア」です。担当教員の杉田このみ(講師)さんとは長い付き合いで、彼女が監督した記録映画『原発被災地になった故郷への旅』(2…

お蔵だし写真 いわき市久ノ浜編

久ノ浜はいわき市の北部に位置する、漁港のある地区。薄磯からは北へ約20キロのところにある。福島第一原発からは30キロ圏内に入る。僕の母校である双葉高校には久ノ浜から通っている生徒も少なくなかったので、小高からは遠いが馴染みの濃い街だった。 震災…

お蔵出し写真 いわき市薄磯編

薄磯にはなぜか引き寄せられる 薄磯はいわき市の沿岸部。津波により220人が犠牲になった。震災前の薄磯になじみはなかったけれど、なぜか引き寄せられるものがあり、何度か脚を運んだ。震災の年の五月、精神科医のチームと一緒にいわき市内の避難所を巡回し…

原発事故と震災文学

2013年の小高駅前商店街 今回紹介するのは、二〇一七年に僕が首都圏を中心に語ってきた講演録です。かなり切り詰めましたが、それでも長い文章なので、忙しい方は、太字の部分を拾い読みしてくださるだけでも結構です。学生時代に参考書に引いたアンダーライ…

オリンピックの影で

今回は昨年(2019)3月、共同通信の依頼で書いた、「東京五輪を考える」というシリーズのコラムをここに再録します。僕の他には江川紹子氏や有森裕子氏などビッグネームが名を連ね、それぞれ辛口のコメントを発表していました。新型コロナの感染が拡大し、オ…

お蔵だし写真(8)浪江編

浪江町には高校時代、よく遊びに行った。小高町に比べるとゲームで遊べる喫茶店や(その頃はゲーム機と一体化したテーブルがどの店にもあった)映画館もあって(『八つ墓村』を観た)便利な町だった。ちなみに僕は浪江の喫茶店で生まれて初めてピザトースト…

お蔵だし写真(7)双葉高後編・その後

震災後、僕が双葉高校に入ったのは双葉高内覧会に参加した2016年11月、双葉町に自宅のある高校の先輩に案内された2019年5月、双葉町の立ち入り制限が緩和された2020年の3月の三回。その間に、高校の姿はいい意味でも悪い意味でも変化していった。上の自動車…

双葉高校の3.11(証言)

教員による証言 3月11日、双葉高校では入試の判定会議があり、午前中は生徒を登校させ授業を行っていた。「なんで授業があるんだよ」生徒たちはぶつくさ言ったが、海岸近くに家のある者も学校に出ていたおかげで、津波の犠牲にならずにすんだともいえる。…

お蔵だし写真(6)双葉高編・震災前

引き続き2011年正月の写真。わが母校、双葉高後編。もう10年が経ったのだな。町が、学校が、活き活きとしていた時の写真を見るのはやっぱり楽しい。 上写真右が正面玄関の前庭。左が校舎。一階が一年生で二階が二年生の教室。一階手前のが美術室。一年生の時…

お蔵だし写真(5)双葉編

震災の年の2011年1月2日、僕は双葉町に入り街並みの写真を撮った。双葉高校の生徒だった僕にとって双葉町は青春そのものと呼んでもいいくらい思い出深い町だ。卒業年は1978年だから30年以上の歳月が流れていたのだが、街の景観はほとんど変わっていないこと…

お蔵だし写真(4)・小高福浦編(震災後)

小高町の立入禁止が解除されたのは意外に早く、震災の翌年の4月には日中の出入りが自由になった。小高の中心部の被害にも衝撃を受けたが、まだ予想の範囲内ではあった。けれど福浦の惨状を目の当たりにした時の衝撃はそれとまるで違った。世界が変わっていた…

お蔵だし写真(3)・小高福浦編(震災前)

「自転車が好きだった」で書いたとおり、ぼくは自転車で走り回るのが好きだった。なかでも好きだったのは、小高町でも海側の、浪江町に近い南側、福浦(旧福浦村)だ。戦前までここは浦だった。淡水と海水が混じり合う豊かな漁場だった。干拓が完了する昭和…

もし汚染水を海洋放出するなら

今朝のNHKニュース。今年中に汚染水の処理について指針を示さないといけないということ。 もちろん反対と賛成の両論併記で報じていた。反対するのは漁業関係者。賛成派の代表として双葉町長が「これ以上汚染水タンクを増やしては住民の帰還の妨げになる」と…

自転車が好きだった

子どもの頃、というのは小・中学校時代の頃になるけど、自転車で走るのが好きだった。 なぜかというと自転車に乗っている間は独りでいられるから。 むかし(2004年)、矢野絢子(じゅんこ)というシンガーソングライターに「てろてろ」という歌があった。そ…