原発事故と震災文学
今回紹介するのは、二〇一七年に僕が首都圏を中心に語ってきた講演録です。かなり切り詰めましたが、それでも長い文章なので、忙しい方は、太字の部分を拾い読みしてくださるだけでも結構です。学生時代に参考書に引いたアンダーラインのようなものです。それで講演の主旨はつかめるはずです。
原発事故と震災文学 志賀 泉
文学者の使命は歴史を生きること
こんにちは、志賀泉です。この会場でお話をさせていただくのは今回で二度目です。前回は『原発被災地になった故郷への旅』という、僕が出演している記録映画を上映し、映画に込めた思いを語りました。
「原発被災地になった故郷」とは、福島県南相馬市の小高区のことです。僕はそこで生まれました。福島第一原発から二十キロ圏内です。原発事故が起きてから約一年間、立入禁止区域に指定されていました。
映画を撮影したのは立入禁止が解除されてからですが、宿泊は禁じられていたので、小高区は基本的に無人地帯でした。人影のない故郷を僕がひたすら歩き、少年時代の思い出を延々と語り続ける映画です。
では、『原発被災地になった故郷への旅』で僕が伝えたかったことは何か。一番には、目に映る風景の美しさ、やさしさでした。
放射性物質に汚染されて田畑は荒れ放題だし、津波に襲われた海辺の集落には瓦礫が転がってるし、地震で壊れた家もあちこちに残っている。それでも、風景の美しさが心に染みました。どうして美しく見えるのか、それは「謎」として僕の心に残りました。その「謎」を多くの人と共有したい、そして考えてほしいと願いました。
もちろん、「謎なんてない」という言い方もできます。放射性物質は目に見えないからだよ、線量を測れば「美しい」なんて言っていられないよと、そう言ってしまえば話は簡単です。それが正しい答えですから。でも、正しい答えが唯一の答えとは限りません。
答えを出す、その一歩手前で踏み止まり、「謎」を「謎」のまま抱え込む。すると「謎」が深まっていき、簡単に答えの出せないものに変わる。そこでさらに考えを深めていく。文学者は大抵、そういう手続きを踏みます。論理的な正しさからこぼれ落ちるものを拾い上げる。評論家やジャーナリストと文学者の違いはそこだと思います。
カミュという作家はご存知ですか。『異邦人』や『ペスト』の作者です。彼の自伝的小説を映画化した作品に『最後の人間』があります。そこに出てくる印象的なセリフに、こういう言葉があります。
「作家の使命は歴史を作ることではない。歴史を生きることだ」
「歴史を作る」のは社会を動かす人、変革しようとする人たちです。彼らは他者を否定し、断罪し、その言動は時として暴力的になります。
では、「歴史を生きる」とはどういうことか。社会を高みから見下ろすのではなく、社会のただ中に自分を置き、他者と共感しながら、人間として生きることです。それが文学者の使命だとカミュは言います。
僕が故郷を舞台に小説を書く時、肝に銘じているのは「被災者が悩むように悩み、迷うように迷いながら書く」です。それが僕なりの「歴史を生きる」ことです。誰かを糾弾したり人を導いたりするために書くわけではありません。
「見落とされた歴史」を救う文学
小説ではなくジャンルは記録文学になりますが、背筋が寒くなるほど凄いと感じたのは、二〇一五年にノーベル文学賞を受賞した、スベトラーチ・アレクシェービッチの代表作『チェルノブイリの祈り』です。
彼女はジャーナリストです。この本も、チェルノブイリ原発事故を体験した人の証言集です。では、これはドキュメントなのかというと、普通のドキュメントとは違う。文章の肌触りが違うのです。
肌触りとは、取材対象との距離感のことです。この本はそれがゼロに近いのです。距離を置いて客観的な事実を書こうとはしていない。証言者の息の温もりや、口臭まで匂ってきそうな文章です。ひとつひとつの言葉が、ちゃんと命を宿しているのです。
それがとても不思議でした。僕も文章を書く人間ですから、誰にもできそうでいて、誰にも真似できないことはわかります。だから不思議としか言い様がありません。
ただ、僕とアレクシェービッチには共通点がふたつあります。ひとつは、僕もアレクシェービッチも原発被災地の出身だということです。アレクシェービッチはベラルーシの出身です。ベラルーシは原発事故の最大の被災国です。どういうことかというと、作者にとって、原発事故について考えることは自分自身について考えることと同じだということです。つまり、生身の人間を通して原発事故を考える。そういう視点を持つということです。それも僕との共通点です。
前書きにはこうあります。
「私の関心をひいたのは事故そのものじゃありません。あの夜、原発でなにが起き、だれが悪くて、どんな決定がくだされ、悪魔の穴の上に石棺を築くために何トンの砂とコンクリートが必要だったかということじゃない。この未知なるもの、謎に触れた人々がどんな気持ちでいたか、なにを感じていたかということです。チェルノブイリは私たちが解き明かさねばならない謎です」
チェルノブイリを、作者は「謎」と言っています。事故の真相がわからないという「謎」ではありません。チェルノブイリとは、人類の文明史に突然現れた得体の知れない何か、名づけようのない何かなんです。「解き明かさねばならない謎」とは、原発事故の真相を究明しようという意味ではありません。それがなぜ存在するのか、そして人間に何をもたらしたのか、そのこと自体が「謎」だと言っているのです。
他には、「私はほかのことにも聞きたかったのです。人間の命の意味、私たちが地上に存在することの意味についても」とあります。
ジャーナリストの問いかけではありません。哲学的な問いかけです。宗教的でさえあります。アレクシェービッチは原発事故という事実を書こうとしたのではなく、書きたかったのは人間という現象なのです。
事実は客観ですが、現象は主観で捉えるものです。歴史は客観的な事実ですが、では、主観は歴史になるのか。
多くの主観を束ねれば歴史になる、そうアレクシェービッチは言います。
「一人の人間によって語られるできごとはその人の運命ですが、大勢の人によって語られることはすでに歴史です。個人の真実と全体の真実を両立させることはもっともむずかしいことです」
個人の運命を束ねていくと、それも歴史になると書いています。たとえそれが全体の真実と矛盾するものであっても、個人にとって真実であるなら、歴史の証言として残すべきだとアレクシェービッチは考えます。
証言者の多くは、死者を背負って生きているように思えます。誰もが、死んでいった親しい人、愛する人の代弁者になっている。さらに、そう遠くない自分の死を予感している。自分自身も半分は死者になっている。この本が他のドキュメントと決定的に違う点はそこです。死者の声を聞き取ろうという、作者の無意識の意思が隠れているように読めるのです。
たとえば、このような言葉があります。
「ユーリャは泣いた。『私たち、死ぬのね』。いまでは、空はぼくにとって生きたものです。空を見あげると、そこにみんながいるから」
語り手は子どもです。身の回りで友だちがどんどん死んでいく。でも、彼にとって死んだ人は本当の意味で死んではいない。空の上で生きている。死者に見守られている。そして、いつか自分も彼らの仲間になる運命を予感している。状況は残酷ですが、不思議と明るく、透明感のある、生命の尊厳も感じさせてくれる言葉です。
アレクシェービッチは、どうしてこのような言葉を書き残すことができたのか。
一人の子どもの運命を、アレクシェービッチは聞くことによって、書くことによって、我が身に引き受けている。言い換えると、語り手の運命を作者が自分の運命であるかのように生きているのです。このような過程を経ることで、証言は血もあり肉もある言葉となり、さらに大勢の読者に共有されることで、人間的な歴史になるのです。
いかにして「震災文学」は成立するか
原発事故を十年もたたないうちに過去にしてしまえる国で、文学はこれからも生き続けられるのか、僕は危機感を覚えます。原発事故は、日本人とは何か、国家とは何か、家族とは何か、人間とは何かを考え直すまたとない経験だったはずです。
震災後、「震災文学」という言葉が生まれました。でも考えてください。「震災文学」とは何でしょう。関東大震災後に震災文学は存在したのか。阪神淡路大震災後に震災文学は存在したのか。では、なぜ東日本大震災後に震災文学が生まれたのか。
震災文学を戦後文学と比較するとわかりやすいと思います。なぜ太平洋戦争後に戦後文学が生まれたのか。敗戦を境に世の中が変わったからです。価値観がひっくり返った社会でどう生きるか、自分を問い直す必要があったのです。だからこそ新しい文学が求められたのだと思います。
東日本大震災と原発事故も、世の中を変えるだけのインパクトがありました。震災直後には多くの人が「生きる意味が変わった」と感じたはずです。そういう意識があって、初めて震災文学は成立するのです。
それともうひとつ、死生観の問題があります。戦後の日本人は多くの死者を背負っていました。新しい日本を建設しなければ戦争で死んだ仲間に申し訳ないという責任感がありました。同じように、震災直後は多くの日本人が震災の犠牲者を背負っていたはずです。
東北では、特に福島県では、震災関連死や自殺が今も後を絶ちません。原発事故との因果関係を認定されないまま、健康被害に苦しむ方、病死する方も増えていくでしょう。死者の問題は終わっていないのです。
確かに、死者を背負ったまま日常を生きるのは困難です。しかし、だからこそ、死者を忘れないための記憶の器という役割が、文学にはあるのです。
たかが文学と軽く見ないでください。石牟礼道子が『苦海浄土』を書かなかったら、水俣病が日本人の魂に記憶されたでしょうか。野坂昭如が『火垂るの墓』を書かなかったら、過酷な運命をたどり死んでいった多くの戦争孤児がいたことを、子どもたちに伝えられたでしょうか。
文学の果たす役割は決して小さくありません。公式的に残される歴史を、文学は裏側からひっくり返すことだってできるのです。記録すること、語り継ぐことは、僕たちにできるささやかな抵抗です。そして、どんなに悲惨な経験からも、文学は希望を見つけることができるのです。