「自由人の集い」講演
2023年1月13日、小高伝道書で催された「自由人の集い」で一時間半にわたり講演をしてきました。僕は小高教会幼稚園の卒園生です。講演の内容を、講演原稿を基に再録しました。
自由人の集い
ただいまご紹介をいただきました志賀泉と申します。
今日は暖かい夜でなによりでした。お集まりいただきありがとうございます。
よろしくお願いします。
僕は神奈川県の川崎市に住んでいますが、年に数回は小高(南相馬市小高区)に帰ってきます。帰るたび、いい町になったなあ、人は少ないけど、小高をいい町にしようという人の気持ち、元からの住民も、移住してきた人も、いっしょに町を盛り上げようとする気概が、歩いているだけで伝わってきます。僕は文章を書くことしか能がない人間ですので、頭が下がる思いがします。ありがとうございます。
2018年9月撮影。ボランティアで小高駅の飾り付けをする駅守さん。飾りは季節ごとに変わり、年々豪華になっている。小高駅は無人駅になったが、人の手の暖かさは失われていない。
1 一途で頑固な家に生まれて
僕の実家は、むかしの銀砂工場(いまは駐車場ですが)のとなりにあります。以前は、相馬屋という米屋を営んでいました。
明治元年頃に産まれた曾祖父が、浪江町の津島(山間の集落)で炭を買い、馬を借りて町まで運び、炭を売り、そのお金で米を買い、それを津島に運んで売るという商売を始めた。それが米屋の始まりだと聞いています。
米屋以外にもいろんなことをしていました。山を買って材木商をしていましたし、炭屋もしていた。使用済みロウソクの滓を集めて、いまでいうリサイクルですね、再生したロウソクを売ったり、商人宿もしていたそうです。裸一貫から、がむしゃらにのしあがろうとした、典型的な明治の庶民でした。
僕が生まれたのは1960年です。当時は豚小屋があり、養鶏場もあり、卵を店で売っていました。毎日の卵取りは子どもの仕事でした。畑もあります。震災のとき津波の泥を被りましたが、兄が土を入れ替えて再生しました。
商店街のどこを探したってこんな家はありません。しかも駅前で、表では商売をしながら、裏では農家と同じことをしていたんですから。一途で頑固な家風だったんです。
米屋ですから、米の配達を手伝わされました。米農家と契約して精米も請け負っていましたから、小高町の海から山まで走り回っていました。中でも、浦尻がなぜか、僕は好きだったんです。日曜日には自転車で走って、海を眺めたり、貝塚で土器を拾ったりしていました。一人でいるのが好きだったんです。
1960年代の祖馬屋の店先。たぶん野馬追見物で親戚が集まったときの写真。
2 小説家になりたい
小説家になりたいと思ったのは小学五年生からです。
小説を書き始めたのは高校生からです。高三のとき、学研の雑誌のコンクールに応募しました。佳作ですけど入選しました。賞品はジーパンでした。
美術部員が放課後、部室に置いてあったウイスキーを飲んで酔っ払い、寝込んで目覚めてみたら夜だった、というそれだけの話です。不良っぽい話を書きたかったんですね。実際、その頃にはお酒を飲んでましたし。まあ、佳作だけど入選したのが、俺には才能あるんじゃねえかと勘違いした始まりです。
家族には反対されましたけど、東京の大学の文学部に進学して小説を書き続けました。
卒業しても、就職はしないでアルバイトをしながら小説を書いてました。けれど、ろくなものが書けなくて、親は帰って来い帰って来いとうるさいし、僕はまったく先が見えないのに意地ばかり張って、あの頃は本当に辛かったです。
当時はバブルの入り口で、小説も垢抜けた都会的な小説が流行りだしました。音楽はテクノ、美術はポップアート。時代の変わり目でした。変化に追いつこうと必死でした。故郷みたいな泥臭いものを引きずってたら変われないから、一生懸命、自分の根っ子を断ち切ろう、断ち切ろうとして、何年も実家に帰らなかったんです。
でも現実には、四畳半のアパートにせんべい布団の生活ですから、都会的になろうったってたかが知れてます。吹雪の夜は、窓の隙間から雪が吹き込んで、翌朝、畳の上にほっそーく雪の筋が積もってるんです。それが朝日を受けて輝いていたのを覚えてます。
まあ、バブル時代の光と陰の、ホントの日陰でした。
精神的にはどん底まで落ちて、生きるか死ぬかまで自分を追い込んで、ある日とうとう「もうダメだ、限界だ」って、何の予告もなしに小高に帰ったんです。
夜中にいきなりですよ。実家の玄関に立って、でも「ただいま」とは言えませんでした。「すいません、帰ってきました」と、驚いて出てきた両親に頭を下げました。
そのときの親父の言葉が、「自分の家に帰るのに謝るやつがいるか」でした。それ以上のことは何も言いませんでしたし、尋ねなかった。叱られると覚悟してたんですが。
僕は晩飯の残りをもそもそと食べていました。それで救われたんですね。
親も帰って来いとは言わなくなって、迷いが吹っ切れたんです。
それからは、出版社の新人賞に応募すると、二次予選くらいまでは必ず残るようにはなって、少しは明るい光がさしてきた。
でも、デビューまでにはまだまだ、十年以上もかかりました。
3 埴谷雄高「ソーマリウム」
小高にゆかりのある作家で、埴谷雄高という人がいます。
その人が、相馬地方には大昔、「ソーマリウム」という隕石が落ちたんだと言ってるんです。落ちた隕石の断片が散らばって放射線を発散している。その影響を受けて、相馬地方には独創的な文学者(埴谷雄高や島尾敏雄、荒正人)が生まれたんだという、妄想ですけど。ソーマリウムの影響を受けた人間を、埴谷雄高は「極端粘り族宇宙人の、つむじ曲がり子孫」と呼びました。「極端に粘り強くて、ひねくれ者」という意味です。
この言葉に励まされてました。僕も粘り強さでは人に負けませんから、ソーマリウムの放射線を浴びた一人に違いないと信じてました。
でも、なぜ頑張れたのかというと、やっぱり書くのが楽しいからです。
いくら辛くても、他人に強いられた辛さじゃありませんから。自分で選んだ辛さですから。だから不幸じゃないんです。生活は苦しくても、書いているときは自由なんですよ。自由だし、安心していられるんです。毎日書いてました。一日休んだら、一日デビューが遅れると思ってましたから。
4 東京の病院で故郷と出会う
転機が訪れたのは、1995年です。僕は35歳でした。日本にとってもターニングポイントの年です。阪神淡路大震災があり、神戸でサカキバラ事件があり、オウム真理教事件があった年です。マスコミは日本の安全神話が崩れた、と言ってましたが、僕は自分の安全神話が崩れました。胃癌になったんです。入院したのは東京の武蔵野赤十字病院です。自分の死にリアルに向き合った、初めての経験でした。
手術の日の朝、ストレッチャーに乗せられて手術室に運ばれていきます。
手術の付添人として、親父と伯母さんが両脇にいました。歩きながら、世間話をしていたんですが、ストレッチャーを押していた看護師さんが、
「もしかして福島県の方ですか?」と話しかけたんです。「はい、そうです」
「浜通りですか?」「そうです」
「南相馬市ですか?」「そうです」
実は、その看護師さんは原町(南相馬市原町区)の生まれだったんです。
「いやあ、わたしらは小高なんですよ」「どうしてわかったんですか?」
お二人の「訛り」でわかったと言うんです。
看護師さんの実家は昔、釣具屋をやっていたそうで、親父は知っていると言います。僕の家は米屋で、看護師さんは知っていると言いました。
この偶然は凄くないですか? 東京の病院でのことですよ。僕は、何かに守られてるんじゃないかと思いましたよ。手術は成功する。俺は生き延るって確信しました。
非常にリラックスして、手術室に入るまで、田舎話に花が咲いて手術を受けることができたんです。
(ついでに言いますと、手術の日は地下鉄サリン事件の日でした。僕は朝イチの手術だから影響なかったんですが、その後の手術はぜんぶ延期になりました。サリンの被害者を乗せた救急車が次々に運ばれてきたからです)
5 20年前の自分に励まされた
胃癌に関連して、もうひとつ、話したいことがあります。
東京の病院を退院してから、しばらく自宅療養で小高に帰っていましたが 抗がん剤の副作用がきつくて、死にそうなくらい辛くなって、原町の私立病院に再入院したことがあるんです。
ある夜、お腹が痛くてどうしようもなくて、看護師さんを呼んで、鎮痛剤の座薬を入れてもらいました。いつもは自分で入れるんですが、このときはその気力もなかったんです。
その翌朝のことです。昨夜の看護師さんがやってきました。そして、
「志賀君、わたしのこと覚えてる?」って、マスクを外したんです。
なんと、小中学校の同級生でした。
「うわっ、こいつに尻の穴見られた」って、ショックでしたね。
まあ、田舎の病院ですから、そういうこともあり得るんですけど。
ただ、他にも偶然がありました。
僕らが小学校を卒業するとき、絵や作文をタイムカプセルに入れて、20年後に開けるという企画があったんですが、僕はその、タイムカプセルを開けるイベントに参加しませんでした。
なぜかというと、僕は作文に、「20年後は絶対小説家になってる」と書いちゃったからなんです。20年前の自分を裏切るようで、申し訳なくて参加できなかったんです。
それで、僕の絵や作文を一時的に預かっていたのが、実は、座薬を入れてくれた看護師さんだったんです。その絵や作文は僕の手元に届いていましたが、さっき話した事情で、やっぱり読む気になれなかった。けれど、そういう経緯があったものだから、東京に帰って、読んでみる気になったんです。
驚きました。作文の題名は、「僕の20年後の予定」。「夢」じゃなくて「予定」です。小説家になるのは夢じゃなくて、予定だったんです。
作文の内容はというと、僕は小説家になってる、と書いたつもりだったんですが、記憶が違ってました。途中まではそうなんですが、締めくくりが、
「なーに人生は長いんだ。20年後を目標にやってみてだめだったら30年後を目標にすればいい。長い人生、なんとかなるさ」です。
泣きましたね。まさか、20年前の自分に励まされるとは思ってもみなかったので。そして、作文通りに、20年後はダメだったけど、30年後(正確には32年後)に文学賞を受賞するんです。
「エート」で始まるところが画期的。「斎藤道三」の名が出てくるのは、この年のNHK大河ドラマ「国盗り物語」の主人公が斎藤道三だったから。相馬地区がロケ地だったこともあり、夢中で見ていた。
こんなふうに、僕は自分の故郷と、縁を切ろう切ろうとしていたんですが、トカゲの尻尾と同じなんです。切っても切っても、切ったそばからまた生えてくるんです。生えてくるのは、必要だからですよ。
特に震災後は、故郷抜きじゃ小説を書けません。と言うより、僕は震災後の福島を書くために、小説家になった、というか、小説家になるよう仕向けられた、というか導かれたような気がしてるんです。なぜかっていうと、偶然にすごく助けられたからです。実力3割で運が7割ですね。
6 貧乏旅を始めた
僕は41歳までずっと本屋で働いていたんですが、出版不況で本が売れなくなって、リストラされました。
それまでずっと、本屋で働きながら新人賞に応募していました。だからわかるんです。40歳過ぎたら純文学で受賞するのはほぼ無理なんです。でも時代小説だったら、50代60代で受賞する例がありますから、ここは一旦仕切り直しで、しばらく小説を書くのは止めて、人生経験を積んでから、時代小説にチャレンジしてみようと、計画を変更しました。
それで、これが最後と決めて、前に応募して落選した原稿のタイトルだけ変えて、別の文学賞に応募しようとしました。
文学賞には応募規定というものがあって、枚数が決まってます。僕は300枚の原稿を送ろうとしましたが、長編を受けつける新人賞ってなかなかありません。ネットで調べて、ひとつだけ見つけたのが、太宰治賞でした。それまでは太宰治賞って知らなかった。
よく、太宰治が好きで太宰治賞を狙ったんでしょうと訊かれて、「はいそうです」と答えていましたが、あれは嘘です。たまたまだったんです。
だから、あのタイミングでリストラされなかったら、いまの自分はなかったはずです。
それで、出版社に原稿を送ってから、いまのうちにやりたいことをやっておこうと決めて、旅を始めました。旅をしながら、ルポタージュを書いて、それをフリーペーパーにして全国の書店に勝手に配っておいてもらったんです。寝袋を持って、基本、野宿の貧乏旅です。
ルポタージュを書くためには自分からアクションを起こして、面白いエピソードを作らなきゃいけない。そのためには、行く先々で出会いがないとダメなんです。これはもの凄いプレッシャーなんです。出たとこ勝負ですから。
でも、人間って必死になると何とかなるものなんです。いろんな出会いがありました。
コツがあるんです。観光客のあまり行かない辺鄙な土地に行って、「この土地を調べに来ました。いやあ、いい所ですねえ」と言うと、大体みんなよくしてくれます。
「お前気に入った。俺の家に泊まれ」というのは、しょっちゅうありました。
7 水俣との出会い
その中で、いまの仕事に繋がっている出会いをひとつだけ上げます。熊本県の水俣市の体験は大きかった。
緒方正人さんという人に会いに行きました。漁師で、水俣病の患者でもあります。水俣病闘争の武闘派、過激派と呼ばれたくらいの人でした。
その人の著書を読んで、興味を持って、住所がわからなかったんですが、なんとか家を探し出して、アポなしで会いに行ったんです。ところが留守だったんですね。でも、庭に離れがあったんで、覗いてみたら、いたんですよ、緒方さんが。
いろいろ話をしてくれました。大事なところだけを話します。
緒方さんは、長年、水俣チッソ工場を敵に戦ってきたわけですが、ある夏の日に、不意に気がつくんです。チッソ工場と戦ってきた俺だけど、自分の生活は工場の製品に囲まれてる。チッソ工場は肥料を作るだけじゃないんです。主に作っているのはプラスチックの原料です。プラスチック製品は、チッソ工場で作られた原料から出来ている。
プラスチックを使ってない家電品なんてないじゃないですか。テレビも洗濯機も冷蔵庫も、どこかにプラスチックは使われている。漁船も本体はプラスチックなんです。
つまりチッソ工場を敵と見て戦ってる俺が、実は、チッソ工場なしでは生きられない人間だったと気づいて、本人が話すには、気が狂いました。家の中にあるプラスチック製品をみんな家の外にぶん投げて、何日もさまよい歩いて、その果てに辿り着いた境地が、「わたしもチッソであった」です。
「わたしもチッソである」という横断幕を工場の前に掲げて、座り込みを始めた。
でも、一体何を言いたいのか、何をしたいのか、誰も理解してくれないんですよ。
緒方さんが言いたかったのは、チッソ工場を悪と決めつけて、戦ったって世の中は変わらない。チッソ工場なしに生きられないのが現実なんですから。問題は社会システムであり、文明というネットワークなんです。誰もそこから逃れられない。けれど、まずそこを自覚しなくちゃいけない。世の中をかえようとするなら、自分を変えるべきなんだ。
では、どう自分を変えればいいのか。
システムの外側に軸足を置くんです。システムの外側というのは、自然風土です。
風土とは、遠い祖先から、代々、少しでも暮らしをよくしようと、重ねてきた工夫が、自然と溶け合って作られたものです。街道の松並木だって、ミカン畑だって、共同の井戸や道ばたのお地蔵さんだってそうですよね。
そういう風景って、やさしいし、美しい。
そういう風土に軸足を置いて、その世界を尊重することが、システムの外側に出ることじゃないか。
それは、僕が旅をしながら実感したことでもあったんです。人間っていうのは、風土に生かされてるんだなあって。
そして、その旅の途中で僕は太宰治賞を受賞することになります。
8 「反原発」に傷つく子どももいる
時間の関係で、話はいきなり原発事故に飛びます。2011年の秋に、こういうことが起きました。
僕は双葉高校の卒業生です。震災の年に、双葉高校野球部を取材していました。双葉高校の生徒はサテライト校に分散して、野球部員もバラバラになったんですが、いろんな苦難を乗り越えて、公式戦(夏の県大会)に出場しました。その道のりを記事にして、週刊朝日で紹介するためです。
2011年7月、開成山球場で行われた夏の福島県大会。震災によりサテライト校に分かれた生徒達がこの日、応援席で初めて集まった。
ある日、部員達を乗せた車に僕も同乗していました。車が福島駅に差し掛かったときです。右翼の街宣車が「原発反対」や「東電は謝罪しろ」とアジりながらやって来ました。そのすれ違いざま、部員達が一斉に「うるせえ馬鹿野郎」と右翼に怒鳴ったんです。
びっくりしました。みんな原発事故の被害者ですからね。なのに、「原発反対」に反射的な怒りを示した。これはどういうことだろうと、あとで部員の一人に聞きました。
すると、「原発反対と聞くと俺たちまで批判されてるようで頭にくる」と言ったんです。
彼は大熊町の人です。原発の恩恵を受けてきた町です。部員の中には、お父さんが東電の社員という人もいます。原発のおかげで育ってきた子。だから、その意味ではすごく純粋な反応だったんですね。
僕が、原発被災地出身作家として、僕にしか伝えられないものがあるとしたら、こういう声じゃないかと思いました。「原発反対」という声がある一方で、その声に傷つく人もいるわけです。それは、外側からはなかなか見えてこないんじゃないか。
原発を悪として、「反原発」を正義とする、二項対立的な関係を超えていかないと、人間そのものは描けないと思ったんです。
その下地には、僕の水俣体験があったわけです。
2012年秋の双葉高校。校庭に草が生い茂っている。
実を言えば、どの地域が何マイクロシーベルトで、住めるとか住めないとか、住んでいる人がいるけど実は危険だとか、子どもが可哀想だとか、そういう話は別に、書きたいとは思わないんです。僕が書かなくても、誰か他の人がもっと上手に書くから。
僕が書きたいのは、どういう立場かは関係なく、ぎりぎりの状況で生きている人の美しさなんです。
9 救いがないことが唯一の救い
坂口は、「赤ずきんちゃん」の童話を例にあげて、可憐な少女がお婆さんに食べられておしまい、というお話に、救いのなさ、モラルのなさ、突き放された感じを受けながら、そこに、「氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ」を感じ、それが「文学のふるさと、人間のふるさと」なんだと書いています。そして、「宝石の冷たさのようなものは、絶対の孤独、生存それ自体がはらんでいる絶対の孤独」で、「この孤独には救いがない、でも、救いがないということが唯一の救いである。モラルがないことが唯一のモラルである」「文学はここから始まる」「このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思えない」
僕もこの意見に共感するんです。赤ずきんちゃんの、別に何も悪いことはしていないのに、あるとき不意に日常が断たれる、理由もなく悲劇が襲いかかるというのは、震災や原発事故も同じだと思います。
坂口安吾が書いた、「救いがないことが救い、モラルがないことがモラル」だという言葉はどういう意味だと思いますか。「救いがないのが現実です。モラルがないのが現実です。でも、その現実を引き受けて生きていくこと。それが救いであり、モラルなんだ」僕はそう解釈しています。ここにお集まりの皆さんもきっと、震災後の体験を通して実感されたことと思います。
2012年4月の小高駅前。津波が運んできた土砂が道ばたに残っていた。
2015年8月。我が家の二階から撮影。我が家は建て替えて平屋になった。この風景も、ほとんどの家が取り壊されて残っていない。
10 小高教会幼稚園を小説の舞台に
こでようやく、小高教会幼稚園の話になります。
幼稚園時代のいちばんの思い出は、キリスト降誕劇で羊の役をさせられたことです。
何がなんだか、白い服を着せられて、白いほっかむりをかぶせられて、四つん這いになって舞台に出ていったんですから、子供心にこれは哀しかったんです。
その心境は『いかりのにがさ』で、主人公に言わせてます。
「せめて立って歩きたかった」って。
劇のあとで、ジャングルジムで撮った集合写真があります。
みんな、堂々とジャングルジムに上っているんです。なのに、羊役の子の三人は、その下で、そろってうつむいているんです。僕の肩に杖が当たっているんですけど、それを払い除けることもできなかったんです。
『いかりのにがさ』を書こうとした時、そのエピソードが念頭にありました。
教会幼稚園を舞台にした小説を書こうと決めた。教会には牧師さんの家族がいる。当然クリスチャンです。でも全員クリスチャンじゃ波風が立てません。波風が立たないと物語になりませんので、牧師の娘さんを、家を出て、無神論になった人と設定します。
それで話の流れは大体出来上がるんです。
牧師さんは、「怒りの感情は諸刃の剣だ。相手を傷つけると同時に自分を傷つけてしまう。だから、原発と和解しなくちゃいけない。そのために、原発を許そう、祈りを捧げよう」と説いて回っている。一方、娘さんの方は、「たとえ傷ついても、一生、怒り続けるんだ」と覚悟を決めている。
どっちが正しくて、どっちが間違いだという問題じゃないんです。それぞれの立場があり、それぞれの考え方があるだけです。けれど、対立構造を超えていくものがなければ、小説を書いた意味がないんですよ。
それが何かは、書いている段階では作者にもわかりません。書きながら悩んで、探していくしかない。苦しい作業ですけど、小説を書く醍醐味はそこにあります。
答えが先にあるわけじゃないんですよ。まず「問い」を見つけるんです。
主人公が悩んだり藻掻いたりするように、作者も書きながら、答えを探して悩んだり藻掻いたりするものなんです。
しかも、これが答えだ、というものは出さない。暗示するだけです。希望の光が遠くから指している。その道筋を示せれば、終わりです。
ネタバレになるんで、あんまり話したくないんですが、『いかりのにがさ』のラストシーンは、ここなんです。この教会。
主人公は三十代のシングルマザーで、女子中学生の子どもがいます。主人公は自分の子に、降誕劇で羊の役をやらされて、すごいイヤだった思い出を話す。
「お母さん、せめて立って歩きたかったよ」と。僕そのものです。
ところが子どもの方はピュアですから、
「いいじゃん、羊。かわいいじゃん。お母さんの羊、見たかったな」と、さらっと受け入れる。お母さんのイヤな思い出を、肯定的なものに変えてしまう。
そこに希望があるんです。
過去のわだかまりと、いかに和解するかという。象徴的ですけど、主人公の怒りを中和するきっかけが、そこに生まれるんです。
最前列右から二番目が僕です。歌をうたっているらしいが何を歌ったかは記憶にない。左は園庭。
こういう話が書けるのは、僕だけだと思う。自分にしか書けないものが書けたのなら、その小説には存在理由があります。売れる売れないはあとから付いてくるものなので、あまり考えません。売りたいとは思いますけど、売れるための小説を書きたいとは思いません。
結果として、僕がこの教会幼稚園を舞台に書いた小説が、少しでも、幼稚園の保存に繋がってくれたら、力になれればと願っています。
浪江町に昔、アスナロ幼稚園という大きな私立幼稚園があったのはご存じですか?
そこの園長先生は郡山市に避難してましたが、幼稚園を再開しようとして、片道二時間かけて、郡山市と浪江町を往復していました。
町立の幼稚園はあるんです。その上で、なぜわざわざ私立の幼稚園を再開する必要があるのか。ただでさえ子どもの数は少ないし、放射能の心配もあるのに。いろんな人に聞かれたそうです。
園長先生はこうおっしゃってました。
こちらから園児を集めることはしません。入りたいという子がいれば受け入れます。
ただ、ここを通りかかった卒園生が、卒園生でなくても町の人が、「ああ、やってるんだ」と思ってくれれば、それが心の支えになる、励みになるんじゃないかと、だから幼稚園を再開したいんだと、そうおっしゃったんです。
結局は、その夢を果たせないまま、亡くなってしまいましたが。
脚に血栓ができていたのが死因だって聞きました。きっと、毎日、往復四時間、車を運転していたので、エコノミー症候群だったのだと思います。
いま、アスナロ幼稚園は更地になって跡形もありません。その場に立ってみると、ここに幼稚園があったなんて想像もつかない。むなしさだけです。夢の跡ですらないんです。
こういう話もね、誰かが語り継いでいかないと、園長先生の死が報われません。
「幼稚園を、町の人の励みにしよう、心の支えにしよう」という園長先生の夢は、果たせなかったからといって、忘れていいものじゃありません。
12 倉庫になるはずだった伊豆の廃校が
静岡県の伊豆の国市、伊豆半島の付け根の山の中に、高原分校という廃校になった小学校があります。震災前、2007年のことです。そこで、僕の好きなアーティストが個展を開いてると知って、見に行きました。
雑木林の中に、開墾した小さな畑と家がぽつんぽつんとある、あまり豊かとは言えない里山の中にその小学校はありました。
校舎に入ってびっくりしたのは、教室も体育館も、いまも子どもが通っているんじゃないかと錯覚するくらい、昔のままなんです。保健室には、ベッドにきれいな布団が敷いてあって、枕カバーも布団カバーも清潔なんです。ためしに引き出しを開けてみたら、ちゃんと薬が入っている。そういう空間にアート作品が展示されていました。
これはどういうことなのか、土地の人に話を聞きました。
その集落は満州からの引き揚げ者の開拓村だったんです。
引き揚げ船にたまたま乗っていた人たちが、連れてこられて、今日からここがあなたたいの村です、土地を上げるから開拓してくださいと言われて、啞然としたそうです。山の上の、雑木林しかない土地ですから。
その人達が、開拓の手始めに何をしたかというと、子どもたちのために学校を作ることでした。大工さんは大工さん、左官屋さんは左官屋さん、先生は先生で、それぞれの職業を活かして仕事を分担してね、そうやって手作りした小学校なんだそうです。
そんな学校も、過疎化によって廃校が決まった。校舎も町の倉庫として使われる予定だったんですが、最後の卒業式で、卒業生が作文を読みました。
「僕たちの学校を、どうかこのまま残してください」と、泣きながら訴えたんです。
それを聞いて、来賓の市長やら議員やら父兄やら、みんな涙を流してね。倉庫にするのを止めて、学校をこのままの形で残そうと決めた。
そしてその分校は、生物学者が集まってシンポジウムを開いたり、環境問題の学びの場にしたり、ぼくが見たような美術展であるとか、文化的なイベントに使われるようになったんです。
倉庫にするより、ずっと生産性の高い、有効活用ですよね。
僕がどこに感動したかというと、子どもの作文ひとつで市の決定が覆ったことですよ。
なぜそれが可能だったかというと、みんな、話の流れで決定に従っていただけで、心の底では、校舎の保存を望んでいたからだと思います。そのはずです。
残さないと決めたら、知恵は生まれないんです。残すんだと決めて、初めて、残すための知恵が生まれてくる。そういうものだと思います。
小高教会幼稚園の園舎を残したい、そのために有効活用したいという話を聞いたとき、僕が思い出したのは伊豆の、高原分校だったんです。
幼稚園の役割も、心のよりどころという意味では、学校と同じです。
学校って、幼稚園もそうですが、その土地の歴史や、人の思いが詰まった、心のよりどころじゃないですか。町の歴史と個人の歴史が重なり合う場所、それが学校であり、幼稚園です。だから残す価値があるんです。住民のモチベーションを上げていくために必要なんです。ただのノスタルジーじゃない。感傷じゃない。だからこれも未来志向なんです。
それを、不要になったからと壊していくのは一種の暴力です。
古い物を壊して、見栄えのするものに作り替えて、さあこれが新しい町ですよ、これから豊かにしてあげますよというのは、言葉は悪いですが、植民地の発想です。 たとえ豊かになろうが、植民地的豊かさなんです。
12 チェルノブイリの村で
原発事故が起きて、小高町が警戒区域になったとき、まず思い出したのは、チェルノブイリ原発事故で管理区域に入った村で、本来は居住禁止区域なんですが、それにも関わらず住民が残って、あるいは都会での避難生活がイヤで戻ってきた人たちが、自給自足の暮らしを営んでいる村があります。その村のことが頭に浮かんだんです。
ここに『アレクセイと泉』(本橋成一著 小学館)という写真集があります。
ベラルーシの汚染地帯の村に五十五人の老人と一人の青年が住んでいます。村の中心に泉があります。その泉を「百年の泉」と村人は呼んでいます。百年前の水が湧き出ているので、汚染されていない。実際、放射能は検出されていないそうです。先祖代々、何百年も受け継いできた泉が、村人の暮らしを守っているんです。
だから「聖なる泉」として、十字架を立てて祈りを捧げている。
フクシマの原発事故が起きた直後は、正直、小高の避難指示が解除されるのは何十年も先だろうと考えていましたから、それでも、この村のように、細々とですが、自給自足で暮らす人がいれば、小高は残るかもしれないと考えていました。
写真集にある言葉を朗読します。
泉の話をしよう
泉の、古い木枠を壊して、切り倒したばかりの新しい樹で、
ぼくらは新しい木枠を作った。
これは、村の復活なんだ。
誰もここから出て行かなくてもいいように。
やって来た者は、誰でもここに根がはることができるように。
泉は、人々に新しい命を与える。
未来がなくては、現在もない。
この、最後のフレーズは、
「過去がなければ現在もない。未来がなければ現在もない」
と言い換えられるはずです。何百年も受け継がれてきた泉を守ることによって、現在の暮らしがあって、未来もあるわけですから。
故郷を守るためには、必ず心のよりどころが必要なんです。それは学校でもいいし、幼稚園でもいいんです。廃校になったから、廃園になったからといって、そこで歴史が終わるわけじゃありません。そこから先へ続く未来があるはずなんです。それが未来を作る原動力になるはずです。
最後になりましたが、飯島牧師様、この会を運営してくださっている皆さん、
また、小高町を盛り上げようとしてくださっている皆さん、
小高町に住んだり、通ったりしているすべての皆さんに、お礼を申し上げます。
ありがとうございました。