小高教会幼稚園のこと

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 年代順に写真を整理していくと、意図せずに繰り返し撮影している場所があり、自分が何にこだわっていたかがわかる。そのひとつが小高教会幼稚園。実家の近所ということもあるだろうが、震災前(上写真)から園庭を撮影していた。物心ついた頃の記憶はほとんど幼稚園にくっついているから無理もない。入園の手続きだと思うが、母親に連れられ初めてこの建物に入ったことをなぜか覚えている。壁に大昔の人の生活を描いたポスターが貼ってあった。毛皮を着た女の人が木の実を摘んでいた絵が強く印象に残っている。それだけ不安だったのだろう。

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 入園式のことはまるで覚えていない。最前列の右から数えても左から数えても8番目がぼくだ。かなり緊張している。なぜ自分がここにいるのかよく理解していない顔。建物の造りは変わっているが基本的な構造はあまり違わない。園庭の遊具もジャングルジムなどは昔と同じだ。半世紀も過ぎたことを思うと、震災の有無に関わらず、それ自体がキセキかもしれない。

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 卒園式の写真。バプテスト派プロテスタント)の教会なので講堂は簡素。ここで普段はお遊戯をし、日曜日には牧師先生の話を聞き、聖書の言葉を書いた絵カードをもらって帰った。「いかりのにがさ」の最後の場面がここになる。

 断っておくとぼくはクリスチャンではない。他の園児のほとんどがそうであるように。それでも卒園式でいただいた「新約聖書」はいまも大切に持っている。「今は難しくて読めないでしょうが大人になったら読んでください」と牧師先生が話したのをなぜか覚えている。開いてみると傍線を引きながら読んだ形跡がある。

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 大学時代に近代文学を専攻していたので、レポートか論文を書くために必要があって読んだのだろう。明治以降の文学者にキリスト教がどんな影響を残したのかは、近代文学を研究する上で避けて通れない。ぼく自身に関しては、信者でもない自分に教会幼稚園の「神様」が何を残していったのかに実は興味がある。ぼくが教会幼稚園にこだわる理由もそこだ。自意識過剰と言われそうだが、案外無視できないほどに濃い影を残しているような気もする。チェルノブイリ・ツアーでウクライナベラルーシを旅行したときも、ぼくが感銘を受けたのは旧共産国にもかかわらず、至る所に濃く漂う宗教的(土着信仰的キリスト教)な気配だった。

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 1966年、園庭で開催された運動会。このせまい庭でこれだけの園児がどんなふうに走り回っていたのか、いま考えると不思議だ。ベビーブーマーの世代ではないが、まだまだ日本に子どもは多かった。運動会の記憶はないがお遊戯の練習は覚えている。人生で初めて、お箸を持つ手が右、茶碗を持つ手が左だと教わったのだった。 

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 上の写真は2012年8月撮影。2016年7月(下)にはなぜか庭が畑になっていた。黄色い花はカボチャだと思う。小高町の避難指示が解除されたころだったので、ここを訪れた人への何らかのメッセージだったのかもしれない。

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 下は、教会を表側から見た写真。左が2013年5月。右は2021年4月撮影。両側の建物が消えて、教会の存在が浮き上がった。

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 下は2015年1月撮影。クリスマスの飾り付けがまだ残っていた。看板の「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という聖書の言葉が、いまでは象徴的だ。

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 2021年4月。向こう三軒が更地になった。以前からあった看板の上の十字架が存在感を強めている。

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 同じ日の幼稚園側。整地をしてこざっぱりとした庭に桜(?)が植えてあった。周縁の民家が解体され視界が開けた。以前は不可能だった角度から庭を見ることができるのが、なんだか不思議。

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 下左は、前にも紹介した卒園式のキリスト降誕劇。中央の羊がぼく。右は遠足で行った夜の森公園。みんな楽しそうだ。「いかりのにがさ」に込めたぼくの原体験については前に書いたのでここでは触れない。

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 急がなくていいから、いつかこの教会と教会幼稚園を再開してほしいと切に願う。仮に再開は無理だとしても、このまま保存して町のために役立ててほしいと願う。感傷ではなく、町の未来のために。そう思うのは理由がある。

高原分校のこと

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 震災前、2005年のこと。伊豆半島の付け根に位置する山里に、高原分校を訪ねたことがある。高原分校は数年前に廃校になったが、ぼくの好きなアーティストが校舎を利用して個展を開いていたからだ。

 右写真の山中に高原分校はある。なぜここに分校があるかというと、戦後、満州からの引き揚げ者に開拓地として与えられた土地がこの山だったからだ。当時は手つかずの雑木林で耕作には向いていない。引き揚げ者というのも同じ引き揚げ船に偶然乗り合わせた人たちで、それまではほとんど見知らぬ同士だったという。

 とにかく、生きるために開拓しなければならない。彼らがまず最初に手がけたのは学校を作ることだった。山の木を伐り、大工の経験がある人が校舎を建て、教員の経験がある人が先生になった。新しい村を自前で作ろうというとき、子どもの教育を最優先したことに、当時の日本人の精神性の高さを感じる。子どもの教育にこそ開拓地の未来があるという認識を開拓民が共有していたのだ。

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 その学校では周囲の自然環境を利用した自然研究に力を入れ、レベルの高さは全国的に知られるほどになった。指導した先生の話では、「山の中の小さな分校の出身が、将来子ども達が進学したときにコンプレックスにならないよう、誰にも負けないものをひとつでも身につけさせてあげたかった」からだという。

 その学校の廃校が決定し、校舎は市の物置として利用されることになったのだが、最後の卒業式で、卒業生代表の生徒が「ぼくたちの学校をどうかこのまま残してほしい」と泣きながら訴えた。市長や市の職員をはじめ、来賓たちはその訴えに涙し、計画は急遽「保存」の方向で変更され、校舎はシンポジウムの会場やアーティストの発表の場として利用されることになった。美しいエピソードだと思う。

 実際、ぼくが訪ねて驚いたのは、教室はもちろんだが、保健室の引き出しを試しに開けてみたら、なんと薬までしっかりそのままという徹底ぶりだったのだ。

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 ぼくがここで体験したのは、アーティストが手編みしたニット帽をみんなでかぶり、薪ストーブを囲んで語り合おうという参加型のアートだった。(数ヶ月前に銀座の画廊でも催され、ぼくは大いに感激したのだ)。この日は開拓時代を知る世代が集まり、思い出話に花を咲かせた。ぼくは飛び入り参加みたいなものだが、アートには人が集う場を提供するという意味もある。ストーブの火を見つめること、ニット帽をかぶりお喋りすることもアートの形だ。参加者がひとつの場を共有することで何かが生まれる。形にならないもの。お金には換えられないもの。けれど人の心に感動を残すもの。

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 物置にするはずだった廃校を、子どもの涙によって保存に切り替えたのはセンチメンタルだろうか。ノスタルジーだろうか。もちろん、有効利用に成功しなければ保存の意味がない。しかし高原分校は保存することで地域の文化向上に貢献する施設になった。この意味は大きい。たとえ限界集落として消えていく運命にあるとしても、開拓の歴史をその地に刻むことは決して無意味なことじゃない。

 高原分校の例は、被災地の復興を考える上でも参考になると思い紹介した。産業を興し人口と税収を確保することにいまは必死だとしても、そろそろお役所的な発想から脱却して、もっとアーティスティックな発想を取り入れて復興の柱に据える時期がきているんじゃないか。

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