「百年の孤舟」の舞台
「百年の孤舟」は、知る人ぞ知る大作家、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」のもじりであり、マルケス的なマジック・リアリズムを意識している。舞台は南相馬市雄高区。もちろん小高区がモデル。小高を父祖の地とする作家、埴谷雄高から取っている。埴谷雄高は独自の宇宙論を構築した孤高の作家だ。津波と原発事故で海辺の集落が消滅した島尻地区の歴史をひもときながら物語は進む。島尻のモデルは浦尻。浪江町との境にある集落だ。島尻の地名はやはり小高を父祖の地とする作家・島尾敏雄から取った。島尾敏雄は自身の夢をモチーフにした幻想文学の作家としても知られる。つまり「百年の孤舟」はガルシア・マルケス、埴谷雄高、島尾敏雄の三人の作家へのオマージュでもある。
津波で冠水した浦尻の水田地帯。2012年4月、小高区の立入禁止が解除されると同時に入り、撮影した。「干拓地が海に戻った」と話には聞いたが、実際にこの光景を目の当たりにし、言葉を失った。自分の記憶にある浦尻と同じ土地とは思えなかった。というより、現実の世界に思えなかった。しかし、不思議な美しさをたたえた風景にも見えた。
震災以前の浦尻
上は江戸時代後期に書かれた浦尻の絵地図(出展『おだかの歴史 民俗編1 海辺の民俗』)。浦の呼称は「蛯沢浦」となっているが、浦尻の人は「井田川浦」と呼んでいた。「百年の孤舟」では「島尻浦」にしている。作品中、主人公が「膀胱に似てる」と言って家族の顰蹙(ひんしゅく)を買うが、それは僕がこの絵地図から連想したもの。
『おだかの歴史 民俗編1 海辺の民俗』は、浦の漁師の最後の生き残りというべき人物、大正2年生まれの泉金助氏の証言を記録している。「百年の孤舟」で主人公の祖父が「日本一の浦だ」と豪語しているが、それはもともと泉金助氏の言葉だ。祖父が語る島尻浦の記憶は、ほとんど泉金助氏の証言に基づいている。
実際、浦尻ではドブ舟と呼ぶ丸木舟で漁をしていた。一般にはドンボ舟だが、泉金助氏が「ドブブネ」と呼んでいたので作品中でもそれにならった。ドブ舟は現存しているものは福島県立博物館に保管された一艘しかない。長さ4,63メートル、幅63センチでの、杉を刳り抜いて作られている。この一艘を除くほとんどは、干拓事業が完了するまでに燃やしてしまったという。
海側でも漁は盛んだった。現在は侵食によって砂浜が狭くなったが、江戸時代には地引き網漁ができるほど砂浜は広かった。良質な港はなく、漁師達は漁船を浜に揚げていた。実際、僕も木製の漁船が浜に並んでいたことを記憶している。1975年頃までは、僕もここで海水浴をした。海水浴場としては衰退していたが、人が少ないので一人気ままに泳げたので僕は好きだった。
上は震災前、正月に帰省して撮った写真。左は干拓のために作った人工の川。直線ですっきりした形状が僕は好きだった。右は白鳥が飛来することで知られた池。ここも好きだった。
物語の中で重要な役どころのアトムの看板。看板に原発の「げ」の字もないが、アトムやお茶の水博士のイラストが、ここが原発予定地(東北電力の浪江・小高原発)であることを示している。小高側は予定地の面積が少ないためか抵抗は少なかったが、浪江側は住民が強固に反対していた。高校時代、浪江側を自転車で走ると、農家の入り口に「原発関係者入ルベカラズ」の手書きの看板をよく見かけた。左は排気筒と同じ高さの鉄塔、気象観測塔。僕の感覚だと、いつの間にかあった。結局のところ、東北電力が建てたのはこのひょろ長い鉄塔一本きりだった。原発事故の影響で原発建設計画が白紙撤回され、鉄塔も2016年に撤去された。
2011年3月11日、東日本大震災による津波で福島県沿岸部は壊滅的な打撃を受けた。上は震災前の水門。背景の松林のすぐ裏に海岸がある。下左は2012年4月撮影。機械室は壊滅したのに水門自体は無事だ。
震災後の浦尻
2012年8月に撮影した同じ場所の写真。ポンプで海側に水を汲み出しているのがよくわかる。
「百年の孤舟」で主人公がドブ舟に乗って巡ったのは、下のような沼だった。
防波堤は破壊され、防風林は消滅し、海岸に打ち寄せる波が飛沫を立て、あたりは白くけぶって見えた。あり得ない光景に呆然としたことを覚えている。心が抜き取られたように、何も思えなかった。
干拓地の水は、汲み出しても雨が降れば水位が戻ることの繰り返しで、無理なんじゃないかという話を聞いた。しかも福島第一原発から近いため、この水はかなり汚染されているはずだという噂も聞いた。水が引いても使えない土地なら、いっそこのままにしたらと僕は本気で考えていた。
2014年8月の浦尻
2012年8月、盆帰りで帰省した折り、浦尻に立ち寄る。意外にも水が引き、水没していた自動車や農機具が姿を現していた。背景の6本松をランドマークにして4月の写真と見比べてほしい。
場所によっては青草が生い茂っていた。赤く錆びた農機具にフジツボの殻がこびりついていた。
2014年12月31日の浦尻
2014年12月31日。大晦日というのに、夕暮れが迫るなか、車で走りながら写真を撮った。
あらためて、僕は浦尻が好きだったのだなと思う。浦尻は僕が通っていた小学校と学区が違う。だから疑う人もいるのだが、逆に言えば、顔見知りに会う確率が低いからこそ、ぼくは気楽に、自転車で走り回ることができたのだ。
もちろん、大晦日の夕暮れ時にわざわざ無人地帯を訪れる人などいない。波の音以外、何も聞こえなかった。
あの時の、底の深い寂寥感が蘇ってくる。
2016年4月。小高区帰還開始。
海は荒れていたが、釣りをしている人は何人もいた。
小説中に貝塚の話が出てくるが、実際、浦尻には貝塚がある。小学生時代、土器集めが一部で流行し、僕もよく畑に入り土器を探した。その畑が草ボウボウのジャングルと化していた。分け入ると頭まで草の海に埋もれてしまい、前が見えなくなる。方向感覚が狂ってしまい、僕は30分くらい迷いに迷った。たぶん、放射線量が高かっただろうな。
畑のへりに立つと海が見える。斜面を覆っているブルーシートは貝塚を保護するためのもの。白い壁に囲われているのは廃棄物の処理場。ここで瓦礫を分類し、フレコンバッグに入れて保管する。仕方がないのだろうが、美しかった水田地帯がこのように形を変えていくのを見るのは悲しい。
その後、処理場は津波被災地を覆うように拡大していった。