水俣を旅して(専修大学特別講義・2019年)

 ここで紹介するのは、2019年に僕が専修大学で行った特別講義の講義録です。学部はネットワーク情報学部。科目名は「地域とメディア」です。担当教員の杉田このみ(講師)さんとは長い付き合いで、彼女が監督した記録映画『原発被災地になった故郷への旅』(2014年制作)に僕は出させていただきました。

 杉田さんは学生時代からずっと「場所性」にこだわってこられた方で、それが、僕の故郷・南相馬市に対する考え方にすごく近かったんです。そういう縁もあり、一昨年から彼女が担当している専修大学ネットワーク学科での授業で、年に一度語らせてもらえるようになった次第です。 

 

 初めまして、志賀泉と申します。

 これから話すのは、僕が旅をしながら、特に水俣を歩いて、どんな人に出会って、何を受け取ってきたかという話です。水俣湾には「恋路が島」っていう島があります。(下写真)

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 「恋の路」と書いて「恋路が島」です。その島を望む公園が、かつてはヘドロの海でした。ヘドロの海を埋め立てて作った公園ですが、先日、グーグルマップで調べてみたら、なんと、「恋愛の聖地」になってたんですね。びっくりです。まあ、別にいいですけど。やっぱり時代を感じましたね。大体、恋路が島の「恋」って、元々は魚の「鯉」という字でしたから。たぶん、島の形が鯉に似ているからです。ぜんぜんロマンチックじゃないんです。

 でも、公害が社会問題にならなくなったのはいいことなんです。社会問題にならないものは、忘れられてしまう。それは仕方のないことです。だから、いまここにいる皆さんが、水俣病なんか知らないよ」「石牟礼道子も知らないよ」と言ったとしても、誰にも責められない。

 けれど、世の中がたとえ忘れたとしても、何かは残ります。何が残ると思いますか。

 トラウマが残ります。社会のトラウマです。

 事件そのものは忘れても、トラウマが残れば、そのトラウマは後の世まで、ずっと影響を与え続けます。これが、同じ過ちを繰り返さないという、抑止力になってるんです。

 文学作品の役割は何かと言うと、そのひとつに、社会にトラウマを残すためにあると、僕は考えます。

  石牟礼道子の『苦海浄土』は、そういう意味で、日本社会のトラウマです。トラウマは必ず帰ってきます。忘れていても帰ってきます。だから、水俣病なんて昔の話でしょ、石牟礼道子の本も読んだことないっていう、あなたのところへも、ちゃんとこうして帰ってきたんです。

水俣病」は、僕にとってもトラウマです。しっかり刻まれています。僕は1960年生まれです。胎児性水俣病患者が初めて公式に認められたのは1962年ですから、胎児性水俣病患者と僕は同世代です。その意味で、他人事ではありませんでした。他人事ではないという意識は、子供の時からありました。

 それと、黒地に白い文字で「怨」と書いた幟。あの映像をテレビの特集番組で見て、本当に怖くて、頭にこびりついて、夢に出てきました。うなされました。今でもはっきり覚えてます。ちなみに、あの「幟」を考えたのは石牟礼道子さんです。だから文字通り、石牟礼さんは子供だった僕の頭にトラウマを植え付けたんです。

 1970年代の前半までは、人類が滅ぶとしたら「公害」が原因だろうと、とみんな信じてましたから。子どもだけじゃなくて大人も。それだけ公害問題は深刻で、社会全体で危機感を共有していました。

 いま、日本では公害が社会問題になることはほとんどありません。でも、忘れてならないこともあります。

 1970年代に、有毒な物質を工場の外に出さないための規制が厳しくなりました。規制を守っていると設備投資にお金がかかります。そこで一部の企業はどうしたかというと、うるさい日本を離れて東南アジアなどの、規制の緩い国に工場を移転させて、やりたい放題をやりました。結果、工場の周辺で病気になる人が増えました。病気になるのは貧しい人たちです。公害の輸出です。日本の僻地と都市の関係が、発展途上国と先進国の関係に置き換わっただけです。

 いまは国際的に監視の目が厳しくなったので、これも過去の話かもしれません。けれど、日本の外に視野を広げていけば、報道されないだけで、実は終わっていないのかもしれないということです。

 最近の例で言うと、プラスチックゴミを日本等の先進国は中国に輸出していました。そのため中国は、環境が悪化したという理由で、受け取りを拒否しました。世界中の国が慌てました。国内でプラスチックゴミを処分しないといけないので、急いで対策に乗り出しています。中国は発展途上国じゃありませんが、とにかく汚い物、厄介な物はよそに押しつければいいんだという、発想は同じです。

 それと、核のゴミ、原発から出た使用済み核燃料の処分場を、日本の外、モンゴルに作ったらどうかと考える人もいます。ひどい話です。モンゴルは貧しい国なので、金さえ出せばなんとかなると考えていますから。

被害者が日本人でなければいいじゃない、ではお話にならない。手を変え品を変え、水俣の問題は何度でも帰ってきます。貴方がいつ当事者になるかわからない。だから、水俣を忘れてはいけないんです。 

 では、僕が水俣市を訪れた時の様子を、画像を見ながら説明します。僕が水俣を旅したのは2003年と4ですから、15年くらい前の写真と思って見てください。

f:id:futakokun:20210223140839j:plain   これは15年前のチッソ工場です。この写真から何が読み取れますか? 鉄塔の塗装が剥げて錆びています。水俣病患者への賠償金の支払いで、チッソが経営不振に陥っていた証拠です。現在は、チッソ工場は存在しません。2011年にチッソはJNC株式会社を設立して、事業を譲りました。チッソは親会社として、JNCの経営や財産を管理して、そこから得た利益で、水俣病患者に賠償金を支払うことにしました。

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 この写真はチッソプラスチック工場の写真です。「チッソは肥料を作っていた工場というイメージが強いかもしれなせんが、さまざまな化学製品を作っていました。そのひとつがプラスチックの材料です。こんな、豆粒くらいの大きさのプラスチックの玉です。それが皆さんの周りの、ありとあらゆるプラスチック製品に化けていたわけですから、皆さんもチッソ工場のお世話になったはずです。今はJNCに名前は変わりましたけど、自分の生活と無関係じゃないということを、頭の片隅に入れておいてください。

 水俣市はいま、環境にとても厳しい自治体になりました。家庭ゴミも細かく分別して出しています。町内のゴミ置き場が、すごく整然としていました。こういう(下写真左)看板も、今でこそ日本のあちこちで見かけますが、当時は珍しかったと思います。水俣市はとてもきれいな町です。道にゴミが落ちてない。公害の町というイメージを払拭するのに、水俣市の市民がすごく努力していたのがわかります。

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 上右の写真は、道を歩いていて偶然に出会った子猫です。目が見えません。道端に、子猫の兄弟が五、六匹かたまっていたんです。僕の姿を見て、子猫たちはサアッと逃げ出しました。この、目の見えない一匹だけが、身動きできずに、ニャアニャア鳴いていたんです。水俣病との因果関係はないと思いますが、何かの縁と思い、写真に撮りました。

 僕にとって、石牟礼さんは伝説の人です。畏れ多くて、会いに行こうなんて、考えもしませんでした。だから僕は、石牟礼さんになるべく近い人物から、近づいていこうとしました。水俣病患者の緒方正人さんという人の存在を知って、この人に会いに行くことにしました。緒方さんは、石牟礼さんと、「本願の会」という会を立ち上げた人です。

「本願の会」は、本願寺の本願じゃなくて、「本当の願い」という意味です。宗教ではありません。では、「本当の願い」とは何か。「いのちの祈り」なんだと緒方さんは書いています。緒方さんも水俣病です。一見すると健康そうなんですが、話している内に、口の端から泡が吹いて、呂律が回らなくなってきました水俣病の症状です。でも症状としては軽いので、水俣病と認定されませんでした。そういう人は沢山います。

 緒方さんは、水俣病未認定患者の訴訟を起こしていました。でもある日、告訴を取り下げちゃったんです。緒方さんに何が起きたのか。ある日、家の中にいて、ふと気づいたそうです。

 俺はチッソ工場を敵にして戦っているけど、身の回りはプラスチックの製品だらけじゃないか、プラスチックの原料はチッソ工場で作られているから、チッソと戦っている俺が実は、チッソの製品の中で暮らしている。テレビも冷蔵庫もみんなそうだ。漁船だってプラスチックだ。これは一体どういうことなんだって、気が狂ったんです。電化製品やら家財道具から、プラスチックで出来ている物をみんな窓から放り出して、家を飛び出して、何日も外をふらついて歩いていました。そうやって辿り着いた答えが、チッソは私であった」です。それが本のタイトルにもなっています。

 敵・味方、あるいは加害者・被害者の対立構造で物事を考えるのではなて、もっと大きな視野で、文明社会という枠組で世の中を見渡した時、文明という枠の中、緒方さんはシステムと言ってますが、その中に、チッソ工場もあり、自分もいるんだって気づいたんです。

 だから、罪があるのはチッソ工場だけじゃなくて、自分自身も罪人かもしれない。いや、この近代社会、文明そのものが罪なんだという考えに至りました。 

 緒方さんはそれから何をしたかというと、チッソ工場の入り口にチッソは私であった」という横断幕を張って、座り込みを始めました。何を言いたいのか、誰にも理解できませんでした。チッソの社員にも、水俣病患者の組織にも、家族にも理解されない。頭がおかしくなったとみんなに思われながら、孤独な戦いを始めたんです。

 じゃあ、ネットワークではない世の中とはどういう世の中かというと、それを象徴しているのが、常世の舟」という、緒方さんの離れにあった、石牟礼道子さんの書です。常世というのは、簡単に言うと「あの世」です。人が死んでから向かう世界。それが海の彼方にあると、昔は信じていました。沖縄もそうですね。人は死んで、海の向こうにある「あの世」に行って、神さまになるんです。神さまになって、子孫に恵みを与える。

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 それが魚です。つまり魚は、あの世から贈られてきた賜物だと考えてきました。たまものですから、たま・ものなんです。魂の物なんです。それを受け取るのが漁師です。漁師はだから、あの世とこの世を媒介する人だとも言えるんです。あの世に続く海、生きている人が暮らす陸。それが混じり合っている場所が渚です。

 実際、水俣に行ってみて実感したのは、あそこは湾ですから、潮の満ち引きの差がすごく大きいんです。

引き潮の時に海岸線を歩いていて、潮が満ちてきたなと思って振り返ると、いつの間にか道がなくなっている。溺れると思って、慌てて引き返した覚えがあります。つまり、海と陸の境界線が曖昧なんです。

「あの世」と「この世」がはっきり分かれていない混じり合っている。そこに生活の場がある。こういう環境から、石牟礼道子さんの文学が生まれ、緒方さんの哲学が生まれた。これはとても大事なことなんです。風土が人を作り上げるというのはこのことです。

 本を読んでもわからない。実際に行ってみて、体験して、初めてわかるんです。

  この写真は何かわかりますか? エビスさんです。漁師の守り神です。海岸線をずっと歩いたんですが、港には必ずエビスさんが祀っていました。

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 これも緒方さんから聞いたのですが、エビスさんには、鉄を嫌うという言い伝えがあります。なぜかは知りません。とにかく、昔の漁師さんは、釘一本でも海に落とさないよう注意していたそうです。あと、なぜか梅干しの種も嫌うそうなんで、舟の上でおにぎりを食べるときも、梅干しの種を落とさないよう気をつけていたんです。不思議ですね。それほど大切にしてきた海が、工場が出す廃液、ヘドロで汚されたわけです。

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この写真は、ヘドロが堆積した水俣湾を埋め立てて作った公園です。その公園に、さっき話した「本願の会」の人達が、自分で石を刻んで、このような野仏を建てている。そういう活動をしています。水俣病亡くなった人の供養です。ここで起きた悲劇を忘れないためのメモリアルです。

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(下写真左)「いのるべき 天と思えど 天の病む」と刻んであるのは、石牟礼道子さんの言葉です。

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  写真上右は遺族の方です。○○ちゃん、「こんな可愛い仏さまになって」って、泣いていました。聞いていて、とても切なくなりました。

 「本願の会」の立ち上げは1995年です。この頃には、水俣病の裁判はだいたい決着がついて、結局は「賠償金をめぐる裁判」で終わったことに石牟礼さんたちは違和感を感じていました。裁判に勝ったのはいいけど、これで終わりでいいんだろうか、と。水俣湾のヘドロ処理も進んで、このままでは水俣病の記憶が風化してしまう。

 だから、これからは「魂」の問題を深めていこう、水俣病が残していったものを「魂」の次元で考えよう。そうして始まったのが「本願の会」です。

 「本願の会」が出している『魂うつれ』という冊子があります。『魂うつれ』って、どういう意味かわかりますか?「魂よ、私に乗り移れ」という意味です。水俣病で亡くなった人の魂」であり、魚の魂であり、草や木の魂、生きとし生けるもの、すべての魂ですそれらの魂を自分の身体で引き受けて、表現活動をしていく。それが「本願の会」の活動です。 

「本願の会」は、毎月、満月の日、つまり大潮の日に公園に集まって、焚き火を囲んで、お酒を飲む会を開きます。石牟礼道子さんも参加します。「その会にお前も来るか?」と緒方さんに誘われました。願ってもないチャンスでした

 石牟礼道子さんは遅れてやってきました。この空を背負って、海沿いの道を歩いてきたんです。なんだか、神話の世界からやってきた人みたいでした。遅刻してきた石牟礼さんは、「今の世の中でもキツネに化かされることはあるんですねえ」と話し始めました。「通い慣れた道なのに、なぜか道に迷ってしまいました。キツネに化かされたとしか思えません」って、冗談でなく、真面目にそう話していたんです。不思議な人です。

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左が石牟礼さんです。横にいるのは、土本典昭さんと水俣の記録映画を作っていた掘傑さんという方です。

 僕が太宰治賞を受賞して作家デビューをしたのは翌年の6月です。その年の8月に、つまり単行本を出して間もない頃に、石牟礼さんが脚本を書いた新作能『不知火』の水俣公演がありました。新幹線に乗って、7時間かけて水俣へ観に行きました。

 この日は台風が迫っていて、夕方まですごい風が吹いていました。これで大丈夫だろうか、台風が直撃したらどうなるんだと心配していましたが、夕方になると、不思議なことにピタリと止みました。怖ろしいくらい荘厳な夕焼けが空に広がりました。僕は神さまを信じているわけではありませんが、神の気配を感じました。

信じなくても感じるものは感じるんです。

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 『不知火』という能は、海の姫神とその弟のお話です。海に広がった毒を、姫神が弟と共に一身に引き受けて死んでいく。しかしその魂は舟に乗って常世の国に運ばれていく、そういうストーリーです。

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 左のお二人は、緒方正人さんと杉本栄子さんです。能を水俣の海に奉納する儀式を始めるところです。

杉本栄子さんは、もうお亡くなりになりましたが、「国も許す、県も許す、チッソも許す、私を差別した人も許す、誰も恨まないから、私で終わりにしてほしい」と言った人です。

 「人を恨んでいると自分が駄目になってしまう」「人は変えられない。自分が変わらなければ」と考えて、最終的に「水俣病は天からの授かり物」だとさえ、言いました。

 杉本さんは、普通の漁師のおばちゃんです。漁に出て、魚を捕って暮らしている人です。杉本さんが受けた差別は酷いもので、はじめの頃は、水俣病は伝染病と誤解されていましたから、買い物に行って、お金を渡しても、受け取ってもらえなかった箸でお金を摘まんで、やっと受け取ってくれた。そんな酷い仕打ちをされたのですが、それでも「許す」心境に至ったんです。本当に、魂がきれいな人だと思います。

 下は、『不知火』で使われた 「常世の舟」です。

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 2011年に東日本大震災原発事故が起こり、福島県の被災者の間で、水俣に学べ」という声が上がりました。実際、勉強会があったようです。けれど、福島が水俣から何を学んだかというと、裁判の仕方です。訴訟の起こして国に勝つ方法です。それはわかるけど、何か違う、と僕は違和感を抱きました。

確かに、国や東電に事故の責任を認めさせ、賠償金を請求するのも大切です。でも、裁判に勝っても、勝ち取った賠償金を一人一人に配ると、金額は一人頭、三十万とか五十万とか、その程度の金額です。

 一般国民はどう思っているか。ネットで調べたら、こんなブログを見つけました。

 文句はないけど、賠償金って、結局は私たちの税金だよね、電気料金だよね。結局は、私たちのお金なんだよね、と。こういうことです。国や東電にすれば、お金を払いました。これで解決です。もう文句は言わないでね。はい、幕引きしました、さようなら。こうなっては逆効果です。

 やっぱり、被災者一人一人の心の問題、精神の問題として考えないと。結局は一人一人ですから。一人一人をいかに掬い取っていくか。それが文学の役割だと思います。 

 被災者に寄り添うって、よく言いますけど、口で言うほど簡単じゃありません。

「避難指示を解除しました。故郷に帰ってください。仮設住宅は不便だったでしょ。立派な復興住宅を作りました。さあ住んでください」と言って、おばあさんをマンションみたいな部屋に入れて、話し相手もなく独りぼっちになったお婆さんは、自殺しました。実際にあった話です。

 何がいいのか悪いのかなんて、本当にわからないんです。そのわからない部分を突き詰めて考えるのが小説なんです。

 水俣に工場が出来た時、これで水俣も栄えるとみんな大喜びしたそうです。チッソの会社に勤めるのは、靴を履いて仕事に行くんだ、と、みんな羨ましがったんですね。そのチッソに裏切られてしまった。

 福島の原発も同じです。原発が誘致されると聞いて、もう出稼ぎに行かずに済む、お金が入ってくるとみんな大喜びしたんです。その原発に裏切られてしまった。

じゃあ、自分にとって原発とは何だったんだろう。 

原発というものを、自分の外側にいる敵と考えずに、自分の内側から考える。 

緒方さんが、「チッソは私であった」と言った境地に辿り着けるのか?

杉本さんが、「誰も恨まない。許す」と言った境地に辿り着けるのか? 

 原発事故について小説を書く時に、原点になっているのはやはり、僕の水俣体験なんです。なかなか難しいのですけど、やっぱり、これは一生の仕事だと思っています。