久ノ浜はいわき市の北部に位置する、漁港のある地区。薄磯からは北へ約20キロのところにある。福島第一原発からは30キロ圏内に入る。僕の母校である双葉高校には久ノ浜から通っている生徒も少なくなかったので、小高からは遠いが馴染みの濃い街だった。
震災後、久ノ浜を訪れたのは2011年5月。いわき市を中心にボランティアをしていた頃だ。津波被災地は他も訪れていたが、ここで受けた衝撃は違った。海岸と街並みがほとんど接しているのに加え、防波堤が低いことと、防潮林がなかったことによって、津波の衝撃をもろにかぶってしまい、しかも町内の工場から出火し、津波と火災の二重災害が起きてしまった。さらに原発事故によって被災者が避難したことにより、被災家屋が震災後もしばらく手つかずのまま残されたのだ。
他では受ける事のなかった衝撃とは、家屋が完全にひっくり返されるなどの視覚的混乱が生じたこと。もうひとつは、火災の名残である重油の焦げた匂いと、漁港の街ならではの魚が腐ったような匂いが漂い、ほんの数日前に震災が起きたように錯覚してしまうほど、災害の空気が生々しく残っていたことだ。
上が出火した工場跡。下は火災現場。
火災によって溶けた街路灯。
被災者の生活を思わせるがそこかしこに散乱していたが、人形は別格の扱いをされていたように思う。
不思議なのか、不思議でないのかよくわからないが、町の中心にある稲荷神社はほとんど無傷で残った。確かに、周囲より少し高い場所に建ってはいるのだが・・・。ミッキーマウスが拝殿に借り住まいしていた。
防波堤から海側に視線を転じると、穏やかな海がある。すさまじい被害を背にしているのに、海だけを見れば何も起こらなかったみたいだ。
久ノ浜にはその後もたびたび訪れ、変貌を目にしてきた。下左は2011年9月、右は10月の慰霊台。自然発生的な慰霊台が、ひと月の間に調えられていった。
生き残った神社はその後、復興のシンボルとなり、周辺が公園になった現在も、大切にされている。宗教的なシンボルは住民にとっていかに大事かを思わせる。信仰があろうとなかろうとに関わりなく、そうなのだ。
4,5ヶ月の間に街は変わっていった。焼け残った商店も軒並み整理された。
美術系の学生がボランティアで被災家屋をペィンティングしていった。上左の郵便ポストもそう。被災地を少しでも明るく、という気持ちはわかるのだが、個人的には少々複雑。ありのままでいいじゃないか。
犠牲者の出た高齢者施設にて。
9月頃には、避難していた住民も帰っていて、いろんな話をしてくれた。みんな、自分が目にしたもの、自分が体験したことを伝えたがっていた。ここに遺体があったとか、水がここまで上がったとか。下左の写真では、家の板壁の塗装が剥げているところまで水位が上がった。おばさんは道沿いにアサガオを育てているのだが、花がしおれても寂しくないようにと、造花のアサガオ(右)も飾り付けていた。しかしこの家もいまは撤去されている。
下写真。解体が決まった我が家への愛情が感じられる。
道の駅よつくらは当時休業中、瓦礫置き場になっていた。そこで目にした立て看板。住民、特に漁師の怒りが伝わってくる。漁業関係者がどれだけの苦難を強いられてきたか考えたら、汚染水の海洋放出は絶対にできないはずだ。安全だというなら東京湾に流せばよいではないか。オリンピック開催中に。海外メディアの目の前で。だってアンダーコントロールしているんだから。それができないなら、できない理由を教えてほしい。
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