「いかりのにがさ」はこうして生まれた

「いかりのにがさ」というタイトルは、宮沢賢治の詩「春と修羅」から取っている。

いかりのにがさまた青さ /四月の気層のひかりの底を/

唾し はぎしりゆききする /おれはひとりの修羅なのだ

キリスト教会と付属幼稚園

 舞台は南相馬市雄高区(雄高町)にあるキリスト教会幼稚園。小高には実際、キリスト教会幼稚園がある。僕の家は浄土真宗だが、宗教にこだわらず家から近いという理由で通っていた。近所の子ども達はみんなそうだったと思う。日曜日には教会で牧師先生の話を聞き、お盆が回ってくると寄付金を置き(僕はいつも5円玉だった)、聖書の言葉がある絵カードをもらって帰った。そのカードはノートにご飯粒(!)で貼り付けていた。小説の幼稚園と現実の幼稚園は構造からして異なるが、自分の幼稚園時代の記憶を引っ張り出しながら書くのは楽しかった。

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 震災後、帰省するたび門から園庭を眺めた。草ぼうぼうの庭は悲しいが、建物そのものはほぼ無事な様子なのが救いだった。表通りは教会になっている。写真は2015年1月1日のもので、教会は閉鎖したままだがクリスマスの飾り付けはしてあった。園児募集のポスターもそのままなのも寂しい。

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看板にある聖書の言葉「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」は小説でも使っている。震災後に読むと胸に刺さるものがあった。本当に、原発事故が起きた直後は「世の終わり」がきたと思ったのだ。

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 35歳の時、僕は胃癌の手術を受け、自宅療養でしばらく帰省していたことがある。日曜日、教会の扉が開いていたのでふらっと入った。30年ぶりの日曜学校だった。信者は10人もいただろうか。ぼくは信者ではないが、形だけのお祈りだったのに泣いてしまった。泣けて泣けて止まらなかった。なぜあんなに泣いたのか、いま振り返ってみると理由がわからない。その時の経験も小説中に活かされている。

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 教会幼稚園なので、卒園式にはキリスト降誕劇を披露した。中央の人形はイエス・キリスト。その前で歌っているのがマリア。僕はというと手前の羊の左から二番目。この劇については、羊の衣装を着せられた時からはっきり覚えている。わけのわからないまま、四つん這いで舞台に出ていったのは、幼子心に屈辱だった。金の冠をかぶった友達もいるというのに。せめて、立って歩きたかったよ。

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主人公の女性は幼い頃、光るこびとを見ていたという。(本人にその記憶はない)。こびとのアイデアは、上写真のポスターからヒントを得ている。アーティスト・内藤礼さんの作品だ。現物は高さ5センチあるかないかの小さな木彫だ。観客は展示会場のあちこちに配置されたこの作品を探して歩くことになる。このポスターは我が家の食卓の、僕が座る位置の正面の壁に貼られている。いわば僕は、このこびとと向き合って生活しているのだ。

2012年4月の小高町

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 小説は、震災発生時からそのほぼ一年後、雄高町の立入禁止が解除された頃までなので、参考までに2012年4月末の小高駅前の写真を紹介する。今では解体した建物も多いので、かつての街並みを知っている人は懐かしく思うかもしれない。路肩の土は、津波の泥流が駅前まで流れてきた名残。30~40㎝くらいの水位だったと聞く。一年を経過しているというのに、まだ堆肥のような匂いがした。

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2012年8月、小高小学校にて

主人公はシングルマザー。その娘は小学六年生で、卒業式を間近に控えて被災したのだった。

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2012年8月、お盆で帰省し、許可をもらい久しぶりに実家で寝泊まりした。翌日、母校である小高小学校を訪ねてみたら、不思議なことに多くの子どもが校舎を目指していた。3月11日に避難していった子ども達が、教室に置いていった持ち物を持ち帰るために集まっているのだという。職員の方の了解を得て、中に入らせてもらった。子ども達はみんな元気で、再会を喜び合っていた。それだけに切なさもこみ上げる光景でもあった。

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マスクをしている子はいない。真夏だったせいもあるのだろう。

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 その後、かつての通学路を歩いてみた。人影があったのは小学校だけで、他はほとんど無人地帯だった。

見慣れた町並みが、同時に見たこともない町並みでもあった。日差しが強く照りつけるのも非現実感を強めていた。足下がふわふわしていた。夢の世界を歩いているみたいだった。

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2013年5月の町並み

震災2年目、町はだいぶきれいになった。しかし、ここに映っている商店の多くは、現在は撤去されている。

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2014年7月の「がんばっぺ」

この頃になると、住民の帰還に向けた気運が高まっていた。しかし、この頃から町並みの消滅は容赦なく進んでいった。

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