震災前の小高
震災前の小高駅前の様子がわかる写真を探した。比較することで、原発被災地では震災による直接の被害のみならず、やむを得ず帰還を断念して自宅を解体し、更地にした家が多く、町の様子が年を追うごとに変化していった様子がわかると思う。それも原発事故による被害だと思う。
1995年か6年の写真ではないかと思う。相馬野馬追の武者行列の風景。我が家の前で。腕を組んでいるのは30代のわたし。若い!理由もなくドヤ顔。はす向かいにある掃部関ポンプ店は現在、柳美里さんのフルハウスになっている。電柱にはプロレス興行のポスターが。
写真左、武者の背後にある赤い看板の自転車屋はなくなった。店先でよくパンクの修理とかしていたのを覚えている。わたしの曾祖父の時代、ここはうどん屋で、二階は芸者の置き屋だった。曾祖父はここに入り浸って酒を飲んでいた。そのとなりはシャッターが閉まりっぱなしで何屋だったか覚えていない。ギフトショップだったかな? そのとなりの「甲子大國」の看板がある店は、いまは洋風になった「菓子工房わたなべ」。右写真の町並みも、いまはほとんど残っていない。下写真、「管」の字の見える家は「管野米屋」。ちなみにわたしの家も米屋。商売がたきがはす向かいにあったのだ。この家並みもいまでは、むかしの面影はない。
雪が降った翌朝、自宅前から西側を撮る。隣近所までせっせと雪かきをした記憶がある。1993年か4年。
震災後の小高(2012年)
2012年4月、小高町への立ち入りが日中のみ自由になる。線路や駅を超えて押し寄せた津波の泥が道ばたに残り、一年たったというのにまだ悪臭を放っていた。堆肥のような臭いだった。駅前にある双葉旅館のご主人の話では、玄関の上がり框すれすれまで津波の水位が上がった(約30センチ)という。ちなみにご主人は、3月14日まで避難せず旅館にねばっていたという。
同じ日に自宅前から西側を撮影。店舗(鈴木ミート)の外壁が路上に落下しているのがわかる。この店は現在、食堂として再生し繁盛している。わたしも利用した。うまい、はやい、やすい、盛りがいい。そのうえコロナ対策もしっかりとして安心。土木作業員や高校生たちで繁盛していた。
道ばたの乾いた泥をすくうスコップの音が、いまも耳から離れない。富士タクシーには眉毛のある名物わんこがいたが、震災後どうしただろう。写真を撮ったはずだが紛失してしまった。
同じ年、2012年8月に盆帰りの帰省。上写真、突き当たりにあるのが小高駅。この短い距離で、道に面している家だけで5人の同級生がいた。自分もふくめれば6人。うち4人が被災し避難していった。
下写真、蔵造りの建物は「そうべい書店」。学校帰りによく立ち読みした。なのに漢字が思い出せない。
霊柩車に蜘蛛が巣を張っていたのを記憶している。右は通学路にもしていた路地。暑い日だったので非現実感が増した。道をふつうに歩いているのに足下がおぼつかなかった。夢の中を歩いているみたいで。自転車に乗った大学生ボランティアの男女が「何か手伝うことはありませんか?」と泣きそうな顔で声をかけてきた。「特にない」と答えるとがっかりしながら去って行った。
2013年~
2013年5月。記録映画『原発被災地になった故郷への旅』の撮影で小高に入る。町並みはまだ密の状態だが、日が暮れてくると窓明かりのないまま夜に沈んでいく。その寂しさはたとえようがなかった。無人の町とはすなわち体温のない町だと知った。
2014年7月。小学生による手作りの休憩所。小学校は隣接する原町区の小学校を仮校舎にしていた。町を訪れる人が増えて、なんとなく明るさが見えてきた頃だ。
2015年7月。民家の解体が始まり、街に更地が現れ始めた。下写真は2012年4月。ほぼ同じ地点から撮影。
2015年7月。来年の帰還開始に向けて、申請すれば自宅での宿泊が許されることになった。私も4年半ぶりで我が家に泊まった。この日は姪が婚約者を家族に紹介するという特別な日でもあった。家族全員が顔を合わせるのも震災以来。電気や水道も使える。テレビを観ながら食卓を囲んでいると、震災前に返ったように錯覚してしまうが、一歩外に出ると、街灯以外は闇に包まれた街の風景があった。
翌朝、夜明け前に起き出し散歩する。写真は小高川に架かる橋の上から小高神社方向を見る。この時の経験が「百年の孤舟」の夜の描写に活かされることになる。
2016年7月、小高町の帰還開始
浦尻から村上地区へと走る。廃棄物置き場の白いフェンスに沿って「おかえりなさい」の旗が無数に迎えていた。
陸橋を渡り最初の交差点にある、安売りで有名だった雑貨店。ここを左に折れる。山川食堂やもっきりやもある。駅前の交流広場を飾っていた「幸福の黄色いハンカチ」。新しく仮店舗もできた。「エンガワ商店」とは、縁側のように人の集う店にしたいという思いから。実際、この店があるおかげでわたしもずいぶん助かった。1970年代まではここに路線バスの車庫があり、バスの利用客のために菓子などを売る店もあったのだ。むかしから人の集まる磁場があったのかもしれない。
小高駅の待合室には地元ボランティアによる飾りつけ。この飾りつけは季節ごとに変わる。手作り感あふれる温かい飾りがうれしい。線量計は0.15マイクロシーベルト毎時を示す。
翌日(相馬野馬追の祭日)は朝から雨が降っていた。雨の中、街を散歩しながら、解体されていく家々を目の当たりにした。帰還開始とは、同時に帰還断念の開始でもあったのだ。このときのやりきれない思いが、「花火なんか見もしなかった」の背景となった。
しかしふつうの意味の喪失感とは違っていた。心のどこかでは、これも「復興の過程」なんだと受け入れていた。いや、受け入れるべきなんだと念じていた。帰還者は少ないが、開店した店や食堂はあったのだ。
下写真は実家の裏側。となりは銀砂工場のあった家。立派な家だったがいまは更地だ。
原町区にて。雨の中、野馬追祭の武者行列。武者姿の桜井勝延南相馬市長(当時)が観客に馬上から挨拶。復興への協力を呼びかけた。
翌日は快晴。消えていく家があれば、もちろん新築の家もある。農協の跡地に生まれた復興住宅。
今野外科医院。この建物も解体された。路地を抜けて駅前通りに出る。わたしの家はいったん消滅し、セキスイハウスの小さな家に生まれ変わった。
2021年の小高
3月25日、双葉町の聖火リレーを見るために帰省。実家に立ち寄る。双子を産んだばかりの姪も実家で子育てをしていた。コロナ禍のため、赤ちゃんや老いた両親とは距離を置いて面会する。左写真手前の家がフルハウス。(以前の掃部関ポンプ店。ポンプ店の看板を目印に見比べると街並みの変化がわかる)右写真の洋風3階建ての家は菓子工房わたなべ。
半月後の4月、再び小高へ。このときは誰とも会わずに帰った。
右側、太い煙突のある建物が小川医院。むかし、この医院では庭に孔雀を飼っていた。その記憶をもとに「無情の神が舞い降りる」を書いた。小川医院のとなりが更地に。この風景の抜けように唖然とした。
あぶくま信用金庫の緑の看板を目印に上下写真を見比べてほしい。下は2016年7月の同地区。
上の写真は2016年7月。蔵造りの店、そうべい書店は下写真の白い家になった。(消火栓の標識が目印)。新築しても蔵造りを意識しているのがわかる。家の記憶を子孫に伝えたいのだろう。
下の連続写真は、2012年秋に車を流しながらビデオ撮影した動画から。暗いしブレているし、見づらいけど、かつての街並みがよくわかるので紹介する。いまの小高の街並みは「櫛の歯が抜けたよう」という表現がぴったりだが、それでも明るさを取り戻しているのを実感している。無人地帯だったときは「体温のない冷たさ」を皮膚感覚で感じたが、いまは体温のある街になった。人の息づかいのする街だ。いろいろ問題はかかえているにせよ、明るい方向に進んでいる。それだけは間違いない。