お蔵だし写真(8)浪江編

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 浪江町には高校時代、よく遊びに行った。小高町に比べるとゲームで遊べる喫茶店や(その頃はゲーム機と一体化したテーブルがどの店にもあった)映画館もあって(『八つ墓村』を観た)便利な町だった。ちなみに僕は浪江の喫茶店で生まれて初めてピザトーストを食べた。おしぼりという文化に出会ったのも浪江だ。純朴な少年はそれだけで浪江に都会を感じたのだ。二十歳を過ぎてからは浪江で酒を飲むこともあった。2011年の正月には、高校時代の応援団員と浪江で飲んでいた。上写真の右側の店だったと思う。「近々結婚する」と言ってた者もいたが、その後どうしただろう、彼女と結婚できただろうか。

f:id:futakokun:20210130152751j:plain  浪江町が栄えたのは原発の力が大きかった。福島第一原発で働く作業員のための宿泊施設とバーやスナックが繁盛していた上、浪江・小高原発の建設予定地として町は「電源立地等初期対策交付金」として1984年から2010年まで、約8700万円(直近の額)を受け取っていた。(参照『浪江町の歴史と東日本大震災』www.f-smeca.com)良い悪いじゃなくて、たとえ原発がなくても原発の近隣の市町村はその影響下にあるということだ。それは浪江町に限ったことじゃなく、日本全国、原発のある自治体とその周辺に言えることで、日本から原発をなくしたいのなら、そこを含めて考えなければならない。

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 写真は2013年秋のもの。浪江町福島第一原発から10キロ圏内だったので、長く避難地域に指定され、避難指示が解除されたのは2017年3月31日。以前は駅前に小さな店が軒を連ねていた。目についた点景を何気なく撮影したけれど、その一帯は今では整地され、消滅してしまった。

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 同じく2013年秋の請戸港。この頃はまだ打ち上げられた漁船が転がっていた。季節が秋だったのでなおさらうら寂しい風景だった。下の写真は2020年2月にほぼ同じ場所を撮影したもの。防潮堤は高くなり、港の改修も進んでいる。

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 下の7枚は2013年秋。

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 記録映画「立入禁止区域・双葉」(監督・佐藤武光)で、請戸出身のシンガーソングライターが「ここに○○屋があって、△△も売っていた。ここに□□ちゃんの家があって」と懐かしそうに語りながら歩いていたのが印象的だった。彼の目にはかつての街並みが見えていたのだ。彼にとってこの風景は廃墟ではない。記憶の地図と言ってもよいものだ。だからこそ、この場所をきれいに整備して公園化するのではなく、ある程度現状を保存したままで残すべきなんだと僕は思う。生者のためにも、死者のためにも。

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 ぼくのボツ原稿(失敗作)『どうということもない、陽が暮れる』から、この風景を描写した場面。ちなみに、文中の「サトミ」とは「ぼく」の死んだ妹です。 

 枯れ野が広がっていた。

 一面のススキと、黄色いのはセイタカアワダチソウ。いたるところ、打ち上げられた漁船がごろごろ、かろうじて形骸をとどめた建物がぽつりぽつり。かつての家並みの名残といえば、枯れ草に埋もれたコンクリの土台くらいで。

 薄雲を透かして、秋の日差しが柔らかく荒れ野を包んでいる。

 凄まじく寂しい風景なのに、それでもぼくは、ここの空気が心地よかった。海岸線の南側を向けば、丘陵の向こうに爆発した原発の排気筒が見えるというのに。空中を飛び交う放射線が、見えない凶器となってぼくの身体を貫き、一瞬一瞬に無数の細胞を傷つけているとしても。それを承知していても、ぼくはここが安息の地に思えた。ここには生も死もない。あるのは、生と死のあわいだけだ。あわいに、ぼくの魂が溶けていく。ぼくは枯れ野であり、打ち棄てられた漁船であり、がらんどうの家だ。

 この風景を、どんな言葉で伝えられるだろう。地球上の言語では不可能かもしれない。でもぼくは地球上の言葉しか知らない。生きている人の言葉でしか話せない。「アー」と、サトミの声が聞こえる。「アー」と。

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 下は、現在の請戸漁港前にある展望台に掲示されている航空写真。立派な町があったんだ。

 震災前、浪江町人口21500人のうち請戸地区は1800人。津波による死者は150人に及んだ。行方不明者は31人だから、住人の約一割が犠牲になった。原発事故のため捜索が打ち切られ救える命も救えなかったことが、癒えない傷として残っている人もいる。

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その展望台からの、現在の眺望。請戸漁港は再生しつつある。この努力を無駄にしないためにも、町民の生きる力を削がないためにも、汚染水の海洋放出はすべきでない。

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 前出のシンガーソングライターは小学時代、ネグレクト(育児放棄)の状態だったという。後妻に入った母親に朝ご飯を食べさせてもらえない日は、漁港に行って漁帰りの漁師さんにご飯を食べさせてもらったという。「請戸の人たちはみんな家族だった」と彼は話していた。