震災10年目の双葉町を訪ねた。コロナ禍で旅行を控えていたので、ほぼ1年ぶりの再訪。もちろん変化はあった。双葉町の「復興」がどこを目指しているのかも徐々に見えてきた。駅の西側には復興拠点の住宅用地を整備している。マンション型の復興住宅か、一軒家としても無個性の画一的な住宅が並ぶのだろう。他の町がそうであるように。
駅前の景色に唖然とした。一年前、かろうじて残っていた商店や民家が見事に撤去されていた。記憶の喪失。この光景から僕は何も思い出すことができない。見た目はすっきりしただろう。でも僕にはこれも破壊の跡にしか見えない。無、空虚。がらんどうの廃墟。ここにアートが必要だろうか。ごまかしではないか? 作者には申し訳ないけど。
かつての商店街。どんどん家並みが消えていく。更地が増えていく。復興の過程として、これも仕方の無いことなのだろうか。
バス停の顔が白い。のっぺらぼうのウチワみたいな。ペンキで白塗りしたのではなく、単に色落ちしたのだ。「記憶喪失のバス停」と呼ぶことにした。ワタシハダレ? コココハドコ?
ある意味、商店街の象徴だった下写真の木造家屋(2020年3月撮影)も消えた。崩壊した家を放置するのは確かに問題があるだろう。けれど、あれだけは保存してほしかった。
一年前の洋品店の店内は現在も変わらなかった。フェイスブックに連載している写真俳句を採録。
吊るされて客なき店の春セーター
誰を待つ無人の店の春暗く
光善寺の山門。双葉地方には浄土真宗のお寺が多い。天明の飢饉のさい、激減した領内の人口を補填しようと相馬藩が積極的な移民政策をとり、浄土真宗信徒の多い北陸から人を呼び寄せたから。そんな歴史を刻んだ寺が、新たに苦難の歴史を刻んだ。
敲(たた)かれぬ山門となり桜咲く
僕の母校、双葉高校。双葉町に来れば必ずここに引き寄せられる。ここに僕の青春のすべてがあった。双高復活のダルマが両目を開くときは来るだろうか。
枯れ松よ なお生き抜くか母校の春
老いてなお学び舎に歌う恋の歌
草木萌ゆ校庭(にわ)を記憶がひた走る
昔、部活で走った海へ続く道。津波に流された水田地帯にいま、中間貯蔵施設が作られている。汚染廃棄物を貯蔵か処理をしているのだろう、銀色のドームがものものしい。こんなものが出現するなんて夢にも思わなかった。
海岸沿いに産業拠点が次々と建設されていく。雇用促進? それにしても、こんな「復興」を誰が望んだのだろう。誰がここを「故郷」と認めるだろう。
ふたばマリンハウスは廃墟になりながらも残った。どうかこれだけは保存して欲しい。
生きているただそれだけの空と海
去年は立入禁止で進めなかったが、今年は上写真の断崖まで歩いて行けた。引き潮の時なら、波打ち際から福島第一原発の建物が見えてくる。念のため断っておくと、違法な行為で撮影した写真ではない。とにかく見えてしまうのだ。
原発よ海青くして無罪なり
海沿いの神社。孤影あり野辺の社に春の夕
慰霊の地蔵を拝む。子供が犠牲になったのだろう。供物のイチゴが転がっていた。
死にたいと言う者あらばここで泣け
海岸から伝承館へ続く道に、いまも瓦礫が積み上がっている。早晩、これも始末するのだろう。多くの人がここで写真を撮っていた。歴史の証人として保存すべきではないかと僕は思う。
伝承館ではキャンドルナイトの準備が進められていた。
上写真は、産業交流センターの屋上から見た双葉町の中間貯蔵施設。下写真はおそらく、震災瓦礫を埋めるための穴。
日輪は燃えて故郷は春の闇
風が強く、キャンドルに火をつけて回る人(パチパチ隊)は苦労していた。お疲れ様です。苦労の甲斐あり、浮かび上がった光の文字は「キオクツナグミライ」。
春の夜に祈りの燭の数知れず
春花火あの世この世の境なく
花火が終わり、シャトルバスで双葉駅に戻る。無人の町に、街灯のほか光はない。
十年の時の重さよ砂時計
捨てがたき故郷なれど春遠く
捨てがたき故郷ならば人は住む
春を待ち春迎えては忘れ去る
どうか、そうならないように。