記録映画「原発被災地になった故郷への旅」講演録

 

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 2013年、記録映画『原発被災地になった故郷への旅』(監督・杉田このみ)の制作に参加した。出演者は僕一人、制作スタッフは監督と撮影助手(監督の現在の夫)と僕の三人、一泊二日で小高町を撮影して回ったのだった。その後は各地で映画の上映とトークイベントをして回った。この経験は大きかった。故郷に対し、どういう態度で向き合うか、僕なりの姿勢がこの映画に出演したことで固まったと思う。以下に、トークの原稿から僕の敬愛する民俗学者宮本常一に関する部分を抜粋して掲載する。

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 この映画は何と云うことのない映画です。ただ、僕がかつての通学路を歩いて個人的な思い出を語っているだけです。

 大体においてこの映画は、監督の杉田さんが、「いろんな人が、自分の通学路を歩きながら思い出を語る映画を撮りたい」って言った時に、僕が「じゃあ被災地になった通学路を歩くのはどうだろう」って、その企画に乗っかったところから始まってるんです。そもそも、反原発とはまるで違うところからスタートしてます。

 皆さんも自分の通学路を持っていますよね。人が見たら何の変哲もない路地だけど、自分だけの特別な思い出がある、そういう道があるはずです。逆に言えば、何の変哲もない場所なんだけど、ある人が思い出を語った時から、その場所が違って見えたという経験は誰でもあると思うんです。僕がやりたかったのはそういうことです。

 そしてもうひとつ、言っておきたいのは、僕には、マスコミやジャーナリストが撮影した映像に対する違和感が根底にあったわけです。

 ジャーナリストは、あるテーマを持って被災地に入り、予め設定した文脈に沿って風景を切り取る。でも、被災地出身者にとってはテーマも文脈も必要ないんですね。白紙のまま被災地に入っていける。肩肘張らなくとも、テーマは風景の側にあるから、それを受け取ればいいわけです。

 簡単に言えば、ジャーナリストが原発被災地という枠組みで見ている風景を僕らは、「いや、被災地である以前に故郷なんだ」という意識で見る。

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 よそから来た人は、里山の夕日を見て「美しい」とはなかなか言えないけど、僕らは平気で言えちゃう自由がある。政治思想的な先入観を取っ払って、自由な眼差しを持った時に被災地がどう見えるかをまず知ってほしかった。その上で、「なぜ美しく見えるのだろう」という、その謎を多くの人と共有したかった。これが二つ目です。

 もちろん謎なんてないという言い方もできます。「放射能は目に見えないからだよ」と言ってしまえばそれが正解で、そこで終わっちゃう話ですが、そういう理屈では割り切れないものがどうしても心に残る。僕はその理屈で割り切れないものに焦点を当てたかったわけです。

 この映画は要するに、何かを訴える映画じゃないんです。人が集まって、何かを考えたり語り合うための道具としての映画であり、また、見る人の思いを入れる器でもあります。

 皆さんも、自分の通学路を思い出してみて下さい。もしそこが放射能に汚染されて無人の街になったとしたら、その道を歩きながら何を思うだろう何を語るだろうと考えてほしいんです。その上で、もう一度現実に立ち返って、原発事故とは何だったんだろう、原発の存在とは何だろうと考えてほしいんです。

(上映) 

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 この映画は冒頭と結びに宮本常一という人の言葉を置いてます。

 宮本常一民俗学者ですけど、戦前から戦後にかけて日本中をくまなく歩いて、離島や僻地で生きている人々の生活向上に一生を捧げた人です。その土地に入って土を舐めるだけで、この土壌なら何々を植えて特産品にしなさいと勧めたり、伝統芸能を復活させて村の名物にしたり。佐渡ヶ島の鬼出鼓座はご存知と思いますけど、あの太鼓集団の立ち上げを指導したのも彼なんです。

 映画の冒頭に、「自然は寂しい。しかし人の手が加わると温かくなる」という言葉を置いてますが、これを子供向けにわかりやすく書いた言葉が別にあります。

「人手の加わっている風景は、どんなにわずかに加わっていても、心を温かくするものです。そのような風景をよく考えてみると、この世を少しでも住みやすくしよう、と努力して作られたものなのです」というものです。

  宮本常一は、日の当たる山があれば開墾してミカン畑を作りましょうと提案する。ミカンが特産品になれば流通のために道路が作られる、港がよくなる、必然的に村が豊かになると考えた。

 ところで、宮本と同時代に、地方を豊かにしようとした日本人がもう一人いるんですね。田中角栄です。

 ただし、田中角栄は発想が逆なんです。道路を作り新幹線を整備すれば、企業や工場が誘致されて地方が豊かになると考えた。その結果、確かに豊かになったんだけど、地方が交付金補助金なしでは生きていけなくなり、地方自治が弱体化して中央の言いなりになってしまった

 その最たるものが原発なんです。1974年、田中政権の時代に、美浜原発の事故隠しが明らかになって、これでは新しい原発を作りにくくなると考えて編み出したのが、電源三法交付金制度です。

 原発建設と地域振興策をセットにして、日本にどんどん原発を増やしていった。その元を作ったのが田中角栄なんです。宮本常一田中角栄のこうした遣り方に反発していた。というか、激しい怒りを覚えていました。

 宮本が「自然は寂しい。しかし人の手が加わると風景は温かくなる」と言ったのは、街道の並木道や、開墾した田畑のことを指しています

 そこには、人間に対する深い信頼と祖先に対する感謝がありました。それを根こそぎ破壊したのが田中角栄だったんです。

 なぜ豊かにならなかったかというと、交付金制度にカラクリがあったんです。交付金を町は自由に使えなかったインフラとか公共設備にしか使えない縛りがあった。近年になって改正されたんですが、長い間そういう制限があった。要は、地方にばらまいた金を大手ゼネコンが吸い取るという仕組みです。ODAと同じです。儲かったのは大企業で、地方は箱物の維持が負担になって逆に財政的に追い込まれたことは、みなさんご承知と思います。冒頭にあの言葉を置いたのは、実はそういう意味を含めてのことだったんです。

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(上下、南相馬市小高区での撮影風景。後ろ姿は杉田監督。

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 冒頭の言葉だけでも、話はどんどん膨らんできちゃうわけですけど、そろそろ映画の最後に置いた、結びの言葉、

「小さいときに美しい思い出をたくさん作っておくことだ。それが生きる力になる」に移ります。

 これは、彼が22歳の時、大阪の小学校の教員になって、子供たちによく話して聞かせた言葉だそうです。この言葉には続きがあります。

「学校を出てどこかへ勤めるようになると、もうこんなに歩いたり遊んだりできなくなる。忙しく働いてひといき入れる時、ふっと、青い空や夕日のあった山が心に浮かんでくると、それが元気を出させるもとになる」

 みなさんもきっと思い当たると思います。僕もそうです。もちろん、震災心が傷ついた福島の子供たちのことが念頭にあったわけです。

 子供たちに「美しい思い出を与えられない」ということは、彼らの「生きる力」を削いでしまうということでもあるんです。
 その責任も考えなくちゃいけないなという思いがあって、あの言葉で最後を締めくくったわけです。

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 この記録映画は英文連アワード2014(主催・文化庁他)でパーソナル・コミュニケーション部門とパーソナル・ドキュメント部門で賞をいただいている。その意味でも感慨深い作品になった。

 付け加えておくと、講演録にある「なぜ美しく見えてしまうのだろう」という「謎」についてだが、数年後にその答えのひとつを見つけた。ヒントになったのは「国褒め」という言葉だ。

 「国褒め」とは、古代において天皇が高台に登り、里を見渡して土地の美しさ、豊かさを褒め称える歌を詠むことなのだが、歌うことによってその土地の地霊を祝い、鼓舞する意味があるという。僕がこの映画でしたこと、というより僕が故郷について話したり書いたりする行為はすべてこの「国褒め」なのだと気づいた。

 僕は「復興」という言葉をあまり使いたくない。どうしても「産業の復興」という意味合いが強くなるからだ。それが悪いというわけではないが、風土をかえりみない復興は逆に破壊につながる。僕が本当に願うのは土地の「再生」だ。「再生」とは風土の再生に他ならない。宮本常一の言葉を借りれば「人手が加わること」で「心が温かくなる」風景のことだ。その例を僕は水俣で見てきた。

 

 

 

 

「地域とメディア」(専修大学特別講義2020年版)

 専修大学ネットワーク情報学部 科目名「地域とメディア」担当教員 杉田このみ(講師)コロナ禍により、リモートで講義を行いました。その講義録を一部抜粋で掲載します。

 まずは自己紹介から

 志賀泉と申します。よろしくお願いします。志賀泉というのは、ペンネームみたいですけど、本名です。実は僕と同性同名のお酒があります。これです。 

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 酒飲みの小説家は腐るほどいますが、お酒と同姓同名の小説家はたぶん、僕くらいのもんです。自慢になりませんけど。

 志賀泉酒蔵という、長野県にある酒蔵です。それだけなら、ただの偶然で終わりますけど、実はけっこう僕と因縁深いお酒なんです。僕は太宰治賞を受賞して小説家になったわけですが、この志賀泉酒蔵と太宰治は深い関係があります。

 戦後のことです。長野県のある地方(今の中野市)には規模の小さな酒蔵がたくさんありました。このままでは大手に押されてみんな潰されてしまうと危機感を抱いた地元の税理士が、小さな酒蔵をひとつの会社にまとめて立ち上げたのが、「志賀泉酒蔵」なんです。その税理士さんはやがて東京に出て、結婚しました。その結婚相手というのが太宰治の娘、園子さんなんです。ね、志賀泉と太宰治はこんなふうに繋がっていたんです。面白くないですか?

 志賀泉という名前にはもうひとつエピソードがあります。僕は福島県南相馬市の小高区というところで生まれました。僕が生まれた時は小高町です。だから土地の人はみんな小高町小高町って言います。僕もそうなので小高町で通します。

 小高町には、もう一人志賀泉がいます。僕より一歳年下で、女性です。僕が太宰治賞を取って地元の新聞の記事になった時はえらいめんどくさかったそうです。小高出身の志賀泉で、年齢もほぼ同じですから、みんな彼女のことだと勘違いしたそうです。「良かったね」と身に覚えのないことで祝福されて、「君が小説を書いてるなんて知らなかった」と言われ続けたわけですから。ほんと迷惑だったと思います。

 原発事故が起きて、小高町警戒区域に入り、住民はみんな避難しました。彼女もお母さんと一緒に避難しました。埼玉県です。埼玉県の避難者交流会で、もう一人の志賀泉に会いました。初めての出会いです。イヤな人だったら困るなと心配してましたが、幸い、「志賀泉」に悪い人はいません。素敵な人でした。これも何かの縁と思い、僕は志賀泉という酒を、彼女に送りました。志賀泉が志賀泉に志賀泉を贈るという離れ業をしたんです。

 こんな芸当ができる人、他にいますか? ある意味、奇跡ですよね。志賀泉酒蔵に、直接、ネットで注文したんですが、向こうも前代未聞のことで相当混乱したみたいで、お酒は送り主の僕のところに届いてしまいました。そこで、志賀泉酒蔵に電話をかけて改めて手配をしたという経緯があります。不思議な話だと思いませんか?  

 自己紹介に変えて、僕の名前に関するエピソードを語らせていただきました。 

 実は先日、みなさんの最終課題を一部ですけど、拝見しました。杉田さん(講師)がどういう講義をしているのか、それにみなさんがどう答えているのか、知った上で今日の講義に望みたいと思ったからです。

 実は、今日の講義は、「言葉」や、「コミュニケーション」を中心に話す予定だったんですが、みなさんのレポートを読んで気が変わりました。僕も杉田さんの学生になったつもりで、杉田さんが出した課題に取り組んでみました。その方が、皆さんと問題意識を共有できて、楽しめるんじゃないかと思ったんです。

 課題のひとつ目は 、

「自分の家にあるいちばん古い物は何か?」です。

 生まれた家と、いま住んでいる家と両方あります。生まれた家から考えてみました。さっきも話しましたが、僕が生まれた家は、南相馬市の小高区、小高町にあります。原発事故を起こした福島第一原発から二十キロ圏内です。震災で家が傾いちゃって、建て直したんですが、建て直す前の家にあった物で、いちばん古い物は何だったか考えました。たぶん、鍋敷きです。実物がないので絵を描きました。これです。f:id:futakokun:20210226101000p:plain

 鍋の下に敷く、ごく普通の鍋敷きです。たしか、サクラの木で出来ていました。昔はいつも、みそ汁の鍋の下に敷いて使っていました。

 僕が大学生の時だったかな、夏休みか何かで帰省してました。家族でご飯を食べていて、ふと、鍋敷きに目がとまったんです。この鍋敷き、俺が小さい時からあるよな」って、どんなに記憶を遡ってもこいつはあったんです。ところどころ焦げて、古くて汚い、でも頑丈な鍋敷きが。

 僕の質問にお祖母ちゃんが答えました。昔はこの上におっきな鉄鍋を置いてたんだげんちょも、戦争中に供出で持って行かれた」って。

「供出」って知ってますか? 太平洋戦争が行き詰まって、日本が物資不足で困ったことになりましたよね。

 そこで、国民に、家にある金属を出せって命じたんです。それが鉄砲の弾になったり銃剣になったり、もしかすると零戦に生まれ変わったかもしれません。お寺の鐘を国に差し出したとかいう話は聞いたことがありますけど、「鍋かよ」って、びっくりしましたね。

 そんなこまごまとした物まで掻き集めないと戦争が出来ないんですから、アメリカに負けるわけです。

 イメージを膨らませるために、古い写真をお見せします。1965年頃ですね。

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 僕の家は「相馬屋」という米屋でした。写真右、小さい方の子どもが僕で、大きい方が兄です。真ん中にいる人がお祖母ちゃんです。左の写真。 親父とお袋と、親戚の叔母さんや従姉も一緒です。店先でみんな何をしてるかというと、お祭りの行列を見ているんです。いい写真です。

 この話で僕が何を言いたいかというと、何の変哲もない、毎日、日常的に使っている家庭用品が実は戦争の生き証人だったということです。米屋でさえ戦時中は食べ物に困ったんです。一家の大黒柱を兵隊に取られてますから、五人の子どもをお祖母ちゃんは女手ひとつで食べさせなくちゃならなかった。食べるものがないと井戸水で腹を膨らませたそうです。そうやって、水っ腹になって母屋に引き返す時、お腹の水がちゃぽんちゃぽん音を立てたという話も、聞いてます。

 そういう時代も、その鍋敷きはちゃぶ台の横で、ずっと見てきたわけです。戦争って遠くに感じますけど、ひょっとすると身近に、さりげなく、歴史の証人がいるかもしれない。それは人ではなくて、物かもしれない。物に歴史を語らせることができるかもしれない。

 こうして考えると、「家の中の古い物を探す」という課題の隠れた意図が見えてきます。それは言い換えると、「日常性の謎を探す」になります。さりげなくそこにある物、ふだん見慣れている物が、何かのきっかけで謎として立ち現れる。ブラックボックスとして見えてくる。ブラックボックスを開くことで、我々は自分の日常を物語として組み立て直すことが可能になる。僕の例で言えば、自分の日常に「戦争」という物語が組み込まれていく。そこで初めて、「戦争」という遠い話を、自分の事として語ることができるようになるんです。戦争に限りません。家の中の古い物を調べることで、自分の家の歴史が見えてくる。それは、なぜ自分が存在するのか、なぜこんなふうに自分は生きているのか、っていう謎を解き明かしていくことにも繋がるんです。 

 12歳の自分に救われた

 話を進めます。これは実家の話です。じゃあ自分がいま住んでる家の中でいちばん古い物はなんだろうと探してみました。見つけたのは、僕が小学六年の時に書いた作文です。小六の年がちょうど、小学校が創立百周年を迎えた年です。記念事業としてタイムカプセルに絵や作文を入れました。

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  これは未来の絵です。ごらんの通り人類が滅亡しています。宇宙から降り注ぐ放射能が強力になって、地上に住めなくなり、一部の科学者が地下に都市を作って繁栄しますが、やがてヒトラーのような独裁者が生まれて戦争が起こり、人類が滅びてしまうという、夢のないストーリーが画用紙の裏に書いてます。

 未来の世界を描けっていう、お題ですけど、未来のどの時点を描いたらいいのか、わからなかったんです。未来っていうのは永遠じゃないだろう。いつか未来が終わる。いつ終わるのかというと、人類が滅亡した時だ。その時点が究極の未来だ。じゃあ人類が滅亡した未来を描くしかないだろうって答えを出したんです。

 ちなみに僕の予言では、地上が滅びるのは2800年代、人類が滅亡するのが3200年です。まだまだ先ですのでご安心ください。

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 次に作文です。タイトルは「ぼくの20年後の予定」です。この中で、「20年後の自分は小説家になってる」と宣言していますが、「将来の夢」じゃなくて「予定」なんです。だから小説家になるのはもう決定事項だと言ってるのと同じで、子どもの頃に人生のハードルを思いっきり上げちゃったんです。

 小説家になろうと考えたのは小学5年です。山本有三という小説家がいるんですが、その人の『路傍の石』という児童文学を読んだのがきっかけです。えらい感動しました。小説家ってすげえと思いましたね。何が凄いかっていうと、小説を書けば、自分が死んでからも人に感動を与えられる。翻訳されれば、自分が行ったこともない外国の人にも感動を与えられる。つまり、自分っていう存在を無限に拡張していけるわけです。

 なぜ20年後かというと、20年後に卒業生が集まってタイムカプセルを開ける計画だからです。32歳です。現実の僕は、本屋の店員でした。うだつの上がらない男です。毎年毎年、小説を書いては新人賞に応募しては落選していました。

 そういう状態だったので、ぼくはタイムカプセルを開ける行事には参加しませんでした。12歳の自分を、裏切ったという思いが強かったんです。申し訳なくて、12歳の自分に会えなかった。僕の絵と作文は、同級生がいったん預かって、それから実家に渡されたわけですが、そういう経緯があって、僕はその作文をずっと受け取らずにいました。

 作文を初めて読んだのは35歳の時です。僕に何が起きたのか?

 胃癌になったんです。かなり進行していました。手術で胃を切ったのですが、どこに転移するか予断を許さない状態でした。僕は独身で、独り暮らしをしていたので、退院後、しばらく実家に帰って療養していました。するとだんだん、抗癌剤の副作用に苦しめられてきました。外科的な痛みって、気力があれば我慢できるんです。でも抗癌剤の副作用は、その気力を少しずつ奪っていく。髪は抜ける、全身に発疹が起きる、食欲がない。食べると吐き気がする。下痢もする。全身だるくて、寝ていてもしんどい。体が衰弱して、これは駄目だ、死にそうだと考えて、地元の病院に再入院しました。隣町にある、原町市立病院です。そこがいちばん、設備が良かったので。食事ができなくて、点滴で栄養を入れてたんですが、身体に入った水分は、ほぼ一時間おきに下痢になって出て行くんです。水様便ですが、腸の内壁が剥がれて、赤いものが浮いているんです。だから腹痛もひどい。

 ある夜、どうしようもなく辛くて、眠れなくて、看護師さんを呼んで鎮痛剤の座薬を入れてもらいました。いつも座薬は自分で入れてたんですが、この時だけは指に力が入らなくて、看護師さんに入れてもらいました。向こうもプロですから、人のお尻の穴なんて見飽きてると思いますけど。

 次の朝です。その看護師さんが僕の前に現れました。そして「志賀君」って呼ぶわけです。「私のこと覚えてる?」って。マスクをしていたから気づかなかったんですが、マスクを外したら、なんと、小6の時にクラスメイトだった女性ですよ。「うわっ、この人に尻の穴を見られた」って、びっくりですよ。まさか、彼女に尻の穴を見られるなんて、小六の時は想像もしなかった。当たり前ですけど。その時の短い会話で、タイムカプセルに入れた僕の絵と作文を、彼女がしばらく預かってくれていたと判明しました。そういう経緯があって、地元の病院を退院してから、初めて自分の作文を読みました。

 するとですね、頭に記憶していた文章と、実際に書いていた文章と、違っていたんです。「絶対、小説家になってる」とは書いてなかったんです。ちゃんと、小説家になれていない自分のことも想定していたんです。

「なーに、人生は長いんだ。20年後を目標にしてやってみて駄目だったら30年後を目標にすればいい。長い人生、なんとかなるさ」で作文を締めくくっていたんです。これ、まったく記憶になかったんで、意外でした。12歳の自分に励まされたんですよ。ありがたくて涙が出るくらいでした

 そして僕はどうにか体力を回復して、作文に書いた通り、30年後に、正確には1年前倒しの29年後ですけど、41歳で、文学賞を受賞して作家デビューを果たしました。だからやっぱり、夢じゃなくて「予定」だったんです。小説家になるのは。

 面白い話だと思いませんか。何から何まで実話です。でも、この話にはまだ続きがあります。僕の作文を預かってくれて、座薬を入れてくれた看護師さんは、それから数年後に、妊娠中毒症で亡くなりました。それも含めて、運命の不思議さを感じます。 

 僕は胃癌になって良かったと思ってるんです。きれいごとじゃなくて、大袈裟でもなく、リアルに「死」ってものに向き合えた体験は、やっぱり大きかった。

 手術の前日に何を考えていたかというと、もしかすると手術中に死ぬってこともあり得るんだから、今のうちに自分の一生を振り返ってみようと思ったんですね。するとですね、意外なことに、それまで自分が重要だと思っていたことがぜんぜん心に引っかからないんです。小説家になりたいってことも含めて、青春時代とか、彼女のことなんかもね、悩んだことも楽しかったことも、するする通り過ぎるだけなんです。

 自分にとって大事な思い出っていうのは、ぜんぶ子ども時代なんです。10歳より下です。特別な体験じゃなくって、たとえば、従兄弟と縁側に並んでスイカ食ったとか、裏の畑にいっぱい赤とんぼが飛んでたとか、そういう他愛ない思い出ばっかりなんです。

 たぶん、自分が無垢でいられた時代なんでしょうね。人間、歳をとるほど汚れていきますから。人を傷つけてばっかりだしね。

 ちなみにトルストイも、「イワン・イリッチの死」という小説で同じことを書いてます。

 「人生がこんなに無意味で、こんなにけがわらしいものだなんて、そんなことのあろうはずがない」って書いてます。僕がこの小説を読んだのは退院してからです。本当にこの通りだったんです。

 自分が死ぬと決まると、欲が抜けていくじゃないですか。そこで価値観が変わるんじゃないかと思います。 トルストイの小説では、最後には黒い穴が見えてきて、その穴に落ちていくと「光」が見えてくるんですね。

「死とはなんだ? 恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。死の代わりに光があった。」こう書いてます。臨死体験そのままなんです。

 僕の場合は、臨死体験じゃないからそこまでいきません。

 ぱたぱたぱたって、音を立てる感じで記憶の断片が流れていって、最後に田舎の海が見えてきたんですね。海がうねっていて、そこに光が当たってキラキラまぶしいんです。

 「ああ、この海に抱かれて死ぬのなら、死ぬのも悪くないな」って思いました。小高の海ですよ。それで、死ぬのが怖くなくなったんです。

 受け入れたんですね。こんなふうに話すと、きれいにまとめちゃった感があるんで、ちょっと気に入らないんですけど、嘘偽りなく、大体はこんな感じです。

 だから、いま子どもに対する虐待が増えてますけど、本来無垢であるべき子ども時代が、暴力と恐怖で支配されてる状態っていうのは、本当に悲惨だなって思います。それはつまり、生きる力を削いでいくことになるんで、虐待する側は、自分が考えている以上に酷いことを子どもにしているんだって、自覚すべきなんです。

 先日、杉田さんとリモートで話をして、「小説っていうのは『生と死』をめぐる話が多いですよね」って話になったんですが、作家がストーリーを組み立てていく時って、あまりそういうことは意識しないので、うまく答えられなかったのですが、つまりこういうことだと思います。

 身の回りに死んだ人が誰もいないうちは、世界は自分で経験できる範囲で完結している。ということは、比較的、日常が安定しているわけです。ところが、人が死ぬことで、世界があちら側とこちら側というふうに二重化する。あちら側から見るこちら側という、別の視点を得ることで、こちら側を相対化するすると価値観が変化するわけです。小説って、そのシミュレーションをしてるんじゃないのか。いろんなパターンのシミュレーションを繰り返すことで、我々のリアルな日常に帰った時に、現実への対応力が増すわけです。

 価値感はひとつじゃないよ。いくつもあるんだよ、と知ることで柔軟性を身につけるんです。また、他人のことを理解できる。もちろん、あの世なんてない、人は死んだらそれきりで、魂もないのかもしれない。それでも同じなんです。自分で自分の死は体験できませんから。自分が死ぬ間際の時点を設定して、そこから今の自分をふりかえってみることでも同じです。

 それも一種の、「生と死」の二重構造なんです。

 

 これから、「生と死」の話に入っていきます。 

 杉田さんは、生まれて間もなく亡くなったお兄さんがいるという話をしました。同じように、僕にはお姉さんがいます。生まれてすぐに亡くなりました。その次に兄が生まれ、僕が生まれましたわけです。両親は、子供は二人と決めていたそうなので、もしお姉さんが生きていたら、僕は存在しなかったわけです。だから、生きているお姉さんについて僕が考えるのは理論的に矛盾があるわけです。

 沖縄にはユタという人がいます。聞いたことはありますか? 簡単に言えば、神様を下ろして神様の言葉を告げる人です。霊媒師、という言葉は聞いたことがあるでしょ。その沖縄版と思ってください。ただ、沖縄のユタは、今も人の生活に溶け込んだ存在です。なぜかって、沖縄に行くと感じるのは、死者や、神が、近いというか、当たり前に隣にいるんですね。だから、死者や神と、人間をつなぐ役割としてのユタが必要になるんです。

 信じるか信じないかは人の自由ですけど、僕は沖縄でNO2と言われたユタに会いに行ったことがあります。ユタから、僕は4人兄弟の末っ子だと告げられました。戸籍では2人兄弟ですけど、神様の数え方は違っていて、生まれるはずだった人も含めて、魂の数なんですね。3人は把握してるけど、あと1人はわからない。でもそれは別にいいんです。僕が言いたいのは、死んだ人も生きている人も、魂として見れば、変わりはないということです。だから、僕がお姉さんのことを考えるのも、矛盾しないっていうことです。

 こんな夢を見ました。夢の話で恐縮です。ジェットコースターのゴンドラに乗って、スタートを待ってるんです。一台ずつゴンドラはスタートするんだけど、よく見るとレールの先が切れていて、ゴンドラがピョ-ンピョ-ンと次々空中に放り出されて、人が死んでいるんですね。だんだん自分の番が近づいている。やばいな、このままでは俺も死ぬな。けれどゴンドラを下りることはできないんです。そういうルールだから。

 いよいよ自分の番がやってきて、もうダメだって言うときに、人が駆け寄ってきて、「死んだと思っていたお姉さんが実は生きていた。今すぐ会いに行ってあげなさい」と言うんです。ゴンドラを下りる理由ができたんですね。「助かった」って、夢の中でわんわん泣きました。「お姉さんに救われた」って。目覚めたらやっぱり泣いてました。

 この夢を見たのは大学生の時で、精神的にかなり不安定だった頃です。

 もうひとつ、同じ時期に、似たような夢を見ています。僕は田舎の実家にいて、明日、船に乗らなければならない。でも、ラジオからニュースが流れていて、その船が明日沈没すると予告している。天気予報のように事故の予報もしていたんです。船に乗ったら間違いなく死ぬ。でも僕は船に乗らないといけない。ルールだから避けられない。さっきと同じパターンですね。違うところは、お姉さんその人がやってきて、なぜか小学生なんですけど、やっぱりお姉さんなんです。お姉さんその人が、あなたはもうひと晩、お家に泊まっていかないといけないと言いだしたんです。船に乗らない理由ができたんです。そこで僕は、「救われた」と思うんですね。この夢では泣きませんでしたが。

 なぜか忘れましたが、この時期はたぶん、死の不安に取り憑かれていたんでしょうね。その不安を取り除く者として、死んだはずの姉があちら側からやって来る。夢の構造はこういうものです。 

 もちろん夢ですから、幻想です。でも、幻想にせよ、守られてるという感覚を持つことは、一種の強みなんです。何が言いたいかというと、こうした感覚は伝統的な日本人の精神構造と同じなんです。 

 田舎の古い家にお邪魔すると、ご先祖の写真が鴨居にずらっと並んでいます。

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 左は、震災前の僕の家ですけど。さっき話したお祖母ちゃんの写真もあります。これは先祖が神になって家を守っていますよ、子孫を守ってますよ、という意味です。お祖母ちゃんも先祖の仲間入りをしたんですね。そういう意味では先祖は死んでいない。子孫と共にいるんです。右は両親が住んでいた仮設住宅の中です。狭いのですが、お祖母ちゃんの写真だけは飾っていました。  

 死者が子孫を見守るという考えは、日本だけでなく、世界中にあります。

僕はチェルノブイリを旅行したこともありますが、その時にお邪魔した、立入禁止区域内にあるウクライナの農家(写真右)にも、イエス・キリスト聖母マリアのイコンと並んで、亡くなった家族の写真が壁に飾られていました(写真左)

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 亡くなった家族は、その家の守り神になるんだと、ガイドさんが教えてくれました。日本人と同じ風習がウクライナの農村に残っていたんです。ということは、世界中の、少なくとも農耕民族には、共通してあるのかなと想像できます。 

 変わって、この写真はなんだかわかりますか?

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 そう、墓地です。これは福島県の、飯舘村という山間の村の共同墓地です除染のために木を伐採して丸裸にした。表面の土も剥いだんでしょうね。それで表面が崩れやすくなったんで、ゴムシートで保護してるんです。こういうのも破壊なんですよ。精神風土の破壊です。悲しくなりませんか、こういう風景を見て。

 では次に、小高町の南隣にある、浪江町の海沿いの集落、請戸に伝わる安波(あんば)祭を紹介します。これは田植え踊りです。毎年2月に、くさの神社の前で田植え踊りを奉納する祭です。農業と漁業で栄えた土地でしたから、豊作祈願と共に、大漁祈願もします。

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 請戸地区には487の家があって、1617人が住んでいましたが、震災の津波でほぼすべての家が流され、行方不明も含めると160人近く、だから人口の一割の人が犠牲になりました。しかも翌日に原発事故が起こって、被災者の捜索が打ち切られました。救える命があったのに、瓦礫の下から呻き声が聞こえているのに、泣く泣く撤収するしかなかった。そういう悲劇が起きた土地です。住民は、ばらばらに避難しましたが、伝統の火は消さなかったんです。それぞれの避難先で、踊り子は踊りの稽古を続けました。そして震災の翌年には、仮設住宅で踊りを披露する形で祭を続けたんです。

 震災前と同じ、毎年2月に神社の前で踊りを奉納するようになったのは2018年からです。僕が見学したのは2020年で、あいにく雨の日でした。請戸地区は津波危険地帯に指定されて、人は住めません。今では想像もつきませんが、個々に立派な街があったんです(下写真左)。その集落自体が、津波で消えてしまった。踊り子はふだんばらばらに生活していて、祭の日に集まって踊るのです。

 農業はもうできません。漁業は、試験操業だけが許されています。それでも豊作を祈願し、大漁を祈願します。震災後には、震災の犠牲者を追悼するという意味が加わりました。

 消えてしまった集落で祭をする意味はそこにあるんです。踊ることで土地の再生を祈るんです。住めないけれど、ここに我々の集落があったんだと、永遠に記憶し、先祖を慰める祭。そして、普段はばらばらに暮らしている人達が、集まるための祭。津波で死んでいった人たちを忘れないための祭。だから尊いんです。

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 請戸漁港は修復しました。防波堤に「浪江町の復興は請戸漁港から」と書かれています。

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 左は、祭りを終えたあとの記念写真ですが、みなさんいい笑顔でしょ。右は、祭りを終えて帰って行く人達です。寂しい風景ですけど、祭りがあるから、故郷に繋がっていられるんです。

 

 僕自身のフィールドワークの報告

 福島第一原発があった、大熊町双葉町です。帰還困難区域が解除されたばかりの町を、2020年3月に聖火ランナーが走る予定でした。けれど、みなさんご存じの通り、新型コロナウイルスの影響で、直前になってオリンピックが延期になり、聖火リレーも取りやめになりました。まあ、それはそれとして、レンタカーを予約しちゃったし、町の様子がどんなか知りたくて、出かけたわけです。

 政治的な先入観は抜きにして、率直な感想だけを話します。その先は皆さんご自身で考えてください。

 大熊町の駅です。駅名は大野駅です。立派な駅が出来ました。開業したのは今年の3月です。聖火リレーの予定に合わせる形で開業したんですね。

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 駅前ロータリーはきれいになりました。ただしその周辺はまだ手つかずので、便宜的に一本だけ開いている道がありますが、他は、どこへ行くにも道が塞がれています。つまり、帰還困難区域、立入禁止区域に駅がぐるりと囲まれている状態です。

 これは商店街の入り口です。バリケードがあって中に入れません。この向こうは震災当時のままです。

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  帰還住民の復興住宅が山の方にあるんですが、そこに通じる道だけが解除区域で、道の両側は今も帰還困難区域です。山の上の方でいま、盛んに復興住宅を建設してます。これは除染で出た土砂を運ぶダンプカーです。一般に「汚染土」と呼んでますが、ダンプの正面には「除去土壌等」と書いてます。「等」がミソですね。「等」と付ければ何でもアリですが、放射能」をなるべく連想させないための配慮ですね。イメージ戦略とも言います。

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 ここ双葉町商店街です。2020年の3月に帰還困難区域が一部解除になりました。福島第一原発から3キロちょっとの距離です。駅前はとてもきれいになりました。壊れた民家は撤去して、広々としています。でも、住民が帰る家はまだないというのが現実です。

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 自由に歩けますが、「避難指示解除準備区域」なので、歩けるのは日中だけです。道路は舗装し直してますが、震災で傷ついた家がほとんどそのままです。

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 駅から離れて海岸へ向かう途中に、フレコンバッグの仮置き場がありました。五段積みです。

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 海岸のすぐ近くに巨大なビルが建設中です(当時)。警備員の人に聞いたら、東日本大震災原発事故伝承館だそうです。双葉町の復興の目玉にするんでしょうね。

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 僕は双葉高校の出身で、剣道部だったんで学校から海までよく走っていました。昔のこの辺りを知っているから思うんですけど、こんな巨大な建物なんか本当は建って欲しくない。これが復興だなんて思いたくない。都会のど真ん中にでもありそうなハコ物を田舎に作れば、みんな喜ぶだろうっていう、発想がそもそも貧困なんです。原発事故から何も学んでない証拠なんです。

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 これは、伝承館の裏手の道ばたに、未だに置いてある津波の瓦礫です。 

 以上、ざっと見てきて、素朴な疑問ですよ。僕は政治も経済も素人なので素朴なことしか言えません。復興っていいますけど、これは一体、誰のための復興ですか、どこを目指している復興なのか。目線がどこを向いているのか。原発事故とは何だったかを、とことん突き詰めて考えたら、あんなバカでかい建物を平気で作ったりはしないはずです。

 原発を建設した時と発想が同じなんです。とにかく巨大な物を作る。そのぶん税金を落としてやる。雇用を生み出してやる。何か問題でも? ですよね。行政から見れば、これは従来通りの正しい方法です。ただし進歩もない。未来がない。

  伝承館を巨大なビルにする理由、そのまわりに公園を作る理由。目線が東京を向いている証拠です。住民に向いてない。誤解してほしくないんですが、僕は誰かを批判しているわけではありません。自分の意見を皆さんに押しつけているわけでもない。

 

 報道は必ず偏向する

 マスコミの報道は、必ずが何らかの意図を持っています。そして意図を持っているということは、必ず偏向しているということです。

 「地域とメディア」という課題で浪江町を取り上げた方がいらっしゃいました。その方の論調は明確で、マスコミ報道は被災地の傷ついた部分、荒れた部分ばかり取り上げているが、実際に現地を見てみたら、街は復興に向けて前向きに動き出している。そちらを報道しないで被災地の傷ついた部分ばかり取り上げるのは、復興の妨げになるんじゃないかという論旨でした。この方の言ってることは正しい。取り上げ方で被災地のイメージはずいぶん変わってきます。僕も悩むところです。

 だから、僕からのメッセージは、自分のしていることを絶えず疑え、ということです。

 被災者の生の声を聞いた。だからこれは真実なんだと言う人もいます。けれど、被災者にもいろんな立場の人、いろんな考え方の人がいます。報道する側は、誰の声を拾うか、あるいは切り捨てるか、意識的にせよ無意識的にせよ、必ず選択が入るんです。つまり偏向してしまう。

 でも、自分が何かを伝えたいのなら、偏向は必ずしも悪いことじゃない。大事なのは、自分の伝えたいことを唯一の真実と思わないことです。何でもそうです。真実はいくつもあると言えるし、真実なんてないとも言える。その上で、なるべく公平に伝えたいと思ったら、今は難しいですが、何度も現場に足を運んで、できたら現地の人の話を聞くことです。

 現地の人でも意見ばらばらですから。なるべく場数を踏むことです。どんな場合でも、いちばん大事なのは、現地の人、当事者の目線で見ることです。

 

 アフターコロナの時代に

 これから皆さん、自分が希望する仕事に就くことが益々難しい時代になります。腐ることも悩むことも傷つくこともいっぱい出てくるはずです。自分の頭だけで考えを煮つめていくと、必ず間違えます煮詰まっているなと思ったら、環境を変えて、ぱあっと広いところに出ることです。いろんなものが見えてきますから。どうも、抽象的なことしか言えませんけど。 

 アフターコロナの時代だ。これからは在宅勤務だ、おうちでテレワークだって言ってますけど、自分の生活をシステム化しすぎると、偶然が入り込む余地がなくなって、小さく固まってしまう危険があります。

 順調な時はそれでいいけど、行き詰まった時に、うまく対応ができなくなって、一気に破綻してしまうリスクが増えるんじゃないかと、それが心配です。組織としてはうまく乗り切れても、あなた個人はどうなるのか?

 それともう一つ、頭だけ使う仕事がもてはやされて、肉体労働が低く見られて、格差が広がるんじゃないかと、それも心配です。これから社会のリモート化がどんどん進むと思いますが、どんなに社会が変わっても肉体労働は残ります。絶対に残ります。キャバクラもホストクラブも残ります。なぜかって、必要とされてるから。

 ですから、皆さんがこれから、自分の望まない仕事に就いてしまってもね、必要とされてる仕事なら意味のある仕事ですから、あんまり腐らないでください。そこから学べるものを学んでいけば、次の展開は必ずやってきます。 

 僕の場合は、この仕事もそろそろウンザリだな、煮詰まってきたなと思えてきたら、こんな仕事をしていた時代もあったよなあって、今の自分を思い返している、未来の自分を想像していました。未来を先取りして、今の辛い自分を過去のものに考えるんです。こういうことを考え始めると、大抵チャンスが巡ってくるんです。ほんとそうでした。チャンスはいろんな形でやってくるけど、見逃さない。ちゃんとちゃんと掴んでいけば、難しい時代ですけど、楽しんで生きていけるんじゃないかと思います。 

 以上です。楽しんでいただけたでしょうか? ありがとうございました。

水俣を旅して(専修大学特別講義・2019年)

 ここで紹介するのは、2019年に僕が専修大学で行った特別講義の講義録です。学部はネットワーク情報学部。科目名は「地域とメディア」です。担当教員の杉田このみ(講師)さんとは長い付き合いで、彼女が監督した記録映画『原発被災地になった故郷への旅』(2014年制作)に僕は出させていただきました。

 杉田さんは学生時代からずっと「場所性」にこだわってこられた方で、それが、僕の故郷・南相馬市に対する考え方にすごく近かったんです。そういう縁もあり、一昨年から彼女が担当している専修大学ネットワーク学科での授業で、年に一度語らせてもらえるようになった次第です。 

 

 初めまして、志賀泉と申します。

 これから話すのは、僕が旅をしながら、特に水俣を歩いて、どんな人に出会って、何を受け取ってきたかという話です。水俣湾には「恋路が島」っていう島があります。(下写真)

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 「恋の路」と書いて「恋路が島」です。その島を望む公園が、かつてはヘドロの海でした。ヘドロの海を埋め立てて作った公園ですが、先日、グーグルマップで調べてみたら、なんと、「恋愛の聖地」になってたんですね。びっくりです。まあ、別にいいですけど。やっぱり時代を感じましたね。大体、恋路が島の「恋」って、元々は魚の「鯉」という字でしたから。たぶん、島の形が鯉に似ているからです。ぜんぜんロマンチックじゃないんです。

 でも、公害が社会問題にならなくなったのはいいことなんです。社会問題にならないものは、忘れられてしまう。それは仕方のないことです。だから、いまここにいる皆さんが、水俣病なんか知らないよ」「石牟礼道子も知らないよ」と言ったとしても、誰にも責められない。

 けれど、世の中がたとえ忘れたとしても、何かは残ります。何が残ると思いますか。

 トラウマが残ります。社会のトラウマです。

 事件そのものは忘れても、トラウマが残れば、そのトラウマは後の世まで、ずっと影響を与え続けます。これが、同じ過ちを繰り返さないという、抑止力になってるんです。

 文学作品の役割は何かと言うと、そのひとつに、社会にトラウマを残すためにあると、僕は考えます。

  石牟礼道子の『苦海浄土』は、そういう意味で、日本社会のトラウマです。トラウマは必ず帰ってきます。忘れていても帰ってきます。だから、水俣病なんて昔の話でしょ、石牟礼道子の本も読んだことないっていう、あなたのところへも、ちゃんとこうして帰ってきたんです。

水俣病」は、僕にとってもトラウマです。しっかり刻まれています。僕は1960年生まれです。胎児性水俣病患者が初めて公式に認められたのは1962年ですから、胎児性水俣病患者と僕は同世代です。その意味で、他人事ではありませんでした。他人事ではないという意識は、子供の時からありました。

 それと、黒地に白い文字で「怨」と書いた幟。あの映像をテレビの特集番組で見て、本当に怖くて、頭にこびりついて、夢に出てきました。うなされました。今でもはっきり覚えてます。ちなみに、あの「幟」を考えたのは石牟礼道子さんです。だから文字通り、石牟礼さんは子供だった僕の頭にトラウマを植え付けたんです。

 1970年代の前半までは、人類が滅ぶとしたら「公害」が原因だろうと、とみんな信じてましたから。子どもだけじゃなくて大人も。それだけ公害問題は深刻で、社会全体で危機感を共有していました。

 いま、日本では公害が社会問題になることはほとんどありません。でも、忘れてならないこともあります。

 1970年代に、有毒な物質を工場の外に出さないための規制が厳しくなりました。規制を守っていると設備投資にお金がかかります。そこで一部の企業はどうしたかというと、うるさい日本を離れて東南アジアなどの、規制の緩い国に工場を移転させて、やりたい放題をやりました。結果、工場の周辺で病気になる人が増えました。病気になるのは貧しい人たちです。公害の輸出です。日本の僻地と都市の関係が、発展途上国と先進国の関係に置き換わっただけです。

 いまは国際的に監視の目が厳しくなったので、これも過去の話かもしれません。けれど、日本の外に視野を広げていけば、報道されないだけで、実は終わっていないのかもしれないということです。

 最近の例で言うと、プラスチックゴミを日本等の先進国は中国に輸出していました。そのため中国は、環境が悪化したという理由で、受け取りを拒否しました。世界中の国が慌てました。国内でプラスチックゴミを処分しないといけないので、急いで対策に乗り出しています。中国は発展途上国じゃありませんが、とにかく汚い物、厄介な物はよそに押しつければいいんだという、発想は同じです。

 それと、核のゴミ、原発から出た使用済み核燃料の処分場を、日本の外、モンゴルに作ったらどうかと考える人もいます。ひどい話です。モンゴルは貧しい国なので、金さえ出せばなんとかなると考えていますから。

被害者が日本人でなければいいじゃない、ではお話にならない。手を変え品を変え、水俣の問題は何度でも帰ってきます。貴方がいつ当事者になるかわからない。だから、水俣を忘れてはいけないんです。 

 では、僕が水俣市を訪れた時の様子を、画像を見ながら説明します。僕が水俣を旅したのは2003年と4ですから、15年くらい前の写真と思って見てください。

f:id:futakokun:20210223140839j:plain   これは15年前のチッソ工場です。この写真から何が読み取れますか? 鉄塔の塗装が剥げて錆びています。水俣病患者への賠償金の支払いで、チッソが経営不振に陥っていた証拠です。現在は、チッソ工場は存在しません。2011年にチッソはJNC株式会社を設立して、事業を譲りました。チッソは親会社として、JNCの経営や財産を管理して、そこから得た利益で、水俣病患者に賠償金を支払うことにしました。

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 この写真はチッソプラスチック工場の写真です。「チッソは肥料を作っていた工場というイメージが強いかもしれなせんが、さまざまな化学製品を作っていました。そのひとつがプラスチックの材料です。こんな、豆粒くらいの大きさのプラスチックの玉です。それが皆さんの周りの、ありとあらゆるプラスチック製品に化けていたわけですから、皆さんもチッソ工場のお世話になったはずです。今はJNCに名前は変わりましたけど、自分の生活と無関係じゃないということを、頭の片隅に入れておいてください。

 水俣市はいま、環境にとても厳しい自治体になりました。家庭ゴミも細かく分別して出しています。町内のゴミ置き場が、すごく整然としていました。こういう(下写真左)看板も、今でこそ日本のあちこちで見かけますが、当時は珍しかったと思います。水俣市はとてもきれいな町です。道にゴミが落ちてない。公害の町というイメージを払拭するのに、水俣市の市民がすごく努力していたのがわかります。

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 上右の写真は、道を歩いていて偶然に出会った子猫です。目が見えません。道端に、子猫の兄弟が五、六匹かたまっていたんです。僕の姿を見て、子猫たちはサアッと逃げ出しました。この、目の見えない一匹だけが、身動きできずに、ニャアニャア鳴いていたんです。水俣病との因果関係はないと思いますが、何かの縁と思い、写真に撮りました。

 僕にとって、石牟礼さんは伝説の人です。畏れ多くて、会いに行こうなんて、考えもしませんでした。だから僕は、石牟礼さんになるべく近い人物から、近づいていこうとしました。水俣病患者の緒方正人さんという人の存在を知って、この人に会いに行くことにしました。緒方さんは、石牟礼さんと、「本願の会」という会を立ち上げた人です。

「本願の会」は、本願寺の本願じゃなくて、「本当の願い」という意味です。宗教ではありません。では、「本当の願い」とは何か。「いのちの祈り」なんだと緒方さんは書いています。緒方さんも水俣病です。一見すると健康そうなんですが、話している内に、口の端から泡が吹いて、呂律が回らなくなってきました水俣病の症状です。でも症状としては軽いので、水俣病と認定されませんでした。そういう人は沢山います。

 緒方さんは、水俣病未認定患者の訴訟を起こしていました。でもある日、告訴を取り下げちゃったんです。緒方さんに何が起きたのか。ある日、家の中にいて、ふと気づいたそうです。

 俺はチッソ工場を敵にして戦っているけど、身の回りはプラスチックの製品だらけじゃないか、プラスチックの原料はチッソ工場で作られているから、チッソと戦っている俺が実は、チッソの製品の中で暮らしている。テレビも冷蔵庫もみんなそうだ。漁船だってプラスチックだ。これは一体どういうことなんだって、気が狂ったんです。電化製品やら家財道具から、プラスチックで出来ている物をみんな窓から放り出して、家を飛び出して、何日も外をふらついて歩いていました。そうやって辿り着いた答えが、チッソは私であった」です。それが本のタイトルにもなっています。

 敵・味方、あるいは加害者・被害者の対立構造で物事を考えるのではなて、もっと大きな視野で、文明社会という枠組で世の中を見渡した時、文明という枠の中、緒方さんはシステムと言ってますが、その中に、チッソ工場もあり、自分もいるんだって気づいたんです。

 だから、罪があるのはチッソ工場だけじゃなくて、自分自身も罪人かもしれない。いや、この近代社会、文明そのものが罪なんだという考えに至りました。 

 緒方さんはそれから何をしたかというと、チッソ工場の入り口にチッソは私であった」という横断幕を張って、座り込みを始めました。何を言いたいのか、誰にも理解できませんでした。チッソの社員にも、水俣病患者の組織にも、家族にも理解されない。頭がおかしくなったとみんなに思われながら、孤独な戦いを始めたんです。

 じゃあ、ネットワークではない世の中とはどういう世の中かというと、それを象徴しているのが、常世の舟」という、緒方さんの離れにあった、石牟礼道子さんの書です。常世というのは、簡単に言うと「あの世」です。人が死んでから向かう世界。それが海の彼方にあると、昔は信じていました。沖縄もそうですね。人は死んで、海の向こうにある「あの世」に行って、神さまになるんです。神さまになって、子孫に恵みを与える。

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 それが魚です。つまり魚は、あの世から贈られてきた賜物だと考えてきました。たまものですから、たま・ものなんです。魂の物なんです。それを受け取るのが漁師です。漁師はだから、あの世とこの世を媒介する人だとも言えるんです。あの世に続く海、生きている人が暮らす陸。それが混じり合っている場所が渚です。

 実際、水俣に行ってみて実感したのは、あそこは湾ですから、潮の満ち引きの差がすごく大きいんです。

引き潮の時に海岸線を歩いていて、潮が満ちてきたなと思って振り返ると、いつの間にか道がなくなっている。溺れると思って、慌てて引き返した覚えがあります。つまり、海と陸の境界線が曖昧なんです。

「あの世」と「この世」がはっきり分かれていない混じり合っている。そこに生活の場がある。こういう環境から、石牟礼道子さんの文学が生まれ、緒方さんの哲学が生まれた。これはとても大事なことなんです。風土が人を作り上げるというのはこのことです。

 本を読んでもわからない。実際に行ってみて、体験して、初めてわかるんです。

  この写真は何かわかりますか? エビスさんです。漁師の守り神です。海岸線をずっと歩いたんですが、港には必ずエビスさんが祀っていました。

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 これも緒方さんから聞いたのですが、エビスさんには、鉄を嫌うという言い伝えがあります。なぜかは知りません。とにかく、昔の漁師さんは、釘一本でも海に落とさないよう注意していたそうです。あと、なぜか梅干しの種も嫌うそうなんで、舟の上でおにぎりを食べるときも、梅干しの種を落とさないよう気をつけていたんです。不思議ですね。それほど大切にしてきた海が、工場が出す廃液、ヘドロで汚されたわけです。

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この写真は、ヘドロが堆積した水俣湾を埋め立てて作った公園です。その公園に、さっき話した「本願の会」の人達が、自分で石を刻んで、このような野仏を建てている。そういう活動をしています。水俣病亡くなった人の供養です。ここで起きた悲劇を忘れないためのメモリアルです。

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(下写真左)「いのるべき 天と思えど 天の病む」と刻んであるのは、石牟礼道子さんの言葉です。

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  写真上右は遺族の方です。○○ちゃん、「こんな可愛い仏さまになって」って、泣いていました。聞いていて、とても切なくなりました。

 「本願の会」の立ち上げは1995年です。この頃には、水俣病の裁判はだいたい決着がついて、結局は「賠償金をめぐる裁判」で終わったことに石牟礼さんたちは違和感を感じていました。裁判に勝ったのはいいけど、これで終わりでいいんだろうか、と。水俣湾のヘドロ処理も進んで、このままでは水俣病の記憶が風化してしまう。

 だから、これからは「魂」の問題を深めていこう、水俣病が残していったものを「魂」の次元で考えよう。そうして始まったのが「本願の会」です。

 「本願の会」が出している『魂うつれ』という冊子があります。『魂うつれ』って、どういう意味かわかりますか?「魂よ、私に乗り移れ」という意味です。水俣病で亡くなった人の魂」であり、魚の魂であり、草や木の魂、生きとし生けるもの、すべての魂ですそれらの魂を自分の身体で引き受けて、表現活動をしていく。それが「本願の会」の活動です。 

「本願の会」は、毎月、満月の日、つまり大潮の日に公園に集まって、焚き火を囲んで、お酒を飲む会を開きます。石牟礼道子さんも参加します。「その会にお前も来るか?」と緒方さんに誘われました。願ってもないチャンスでした

 石牟礼道子さんは遅れてやってきました。この空を背負って、海沿いの道を歩いてきたんです。なんだか、神話の世界からやってきた人みたいでした。遅刻してきた石牟礼さんは、「今の世の中でもキツネに化かされることはあるんですねえ」と話し始めました。「通い慣れた道なのに、なぜか道に迷ってしまいました。キツネに化かされたとしか思えません」って、冗談でなく、真面目にそう話していたんです。不思議な人です。

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左が石牟礼さんです。横にいるのは、土本典昭さんと水俣の記録映画を作っていた掘傑さんという方です。

 僕が太宰治賞を受賞して作家デビューをしたのは翌年の6月です。その年の8月に、つまり単行本を出して間もない頃に、石牟礼さんが脚本を書いた新作能『不知火』の水俣公演がありました。新幹線に乗って、7時間かけて水俣へ観に行きました。

 この日は台風が迫っていて、夕方まですごい風が吹いていました。これで大丈夫だろうか、台風が直撃したらどうなるんだと心配していましたが、夕方になると、不思議なことにピタリと止みました。怖ろしいくらい荘厳な夕焼けが空に広がりました。僕は神さまを信じているわけではありませんが、神の気配を感じました。

信じなくても感じるものは感じるんです。

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 『不知火』という能は、海の姫神とその弟のお話です。海に広がった毒を、姫神が弟と共に一身に引き受けて死んでいく。しかしその魂は舟に乗って常世の国に運ばれていく、そういうストーリーです。

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 左のお二人は、緒方正人さんと杉本栄子さんです。能を水俣の海に奉納する儀式を始めるところです。

杉本栄子さんは、もうお亡くなりになりましたが、「国も許す、県も許す、チッソも許す、私を差別した人も許す、誰も恨まないから、私で終わりにしてほしい」と言った人です。

 「人を恨んでいると自分が駄目になってしまう」「人は変えられない。自分が変わらなければ」と考えて、最終的に「水俣病は天からの授かり物」だとさえ、言いました。

 杉本さんは、普通の漁師のおばちゃんです。漁に出て、魚を捕って暮らしている人です。杉本さんが受けた差別は酷いもので、はじめの頃は、水俣病は伝染病と誤解されていましたから、買い物に行って、お金を渡しても、受け取ってもらえなかった箸でお金を摘まんで、やっと受け取ってくれた。そんな酷い仕打ちをされたのですが、それでも「許す」心境に至ったんです。本当に、魂がきれいな人だと思います。

 下は、『不知火』で使われた 「常世の舟」です。

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 2011年に東日本大震災原発事故が起こり、福島県の被災者の間で、水俣に学べ」という声が上がりました。実際、勉強会があったようです。けれど、福島が水俣から何を学んだかというと、裁判の仕方です。訴訟の起こして国に勝つ方法です。それはわかるけど、何か違う、と僕は違和感を抱きました。

確かに、国や東電に事故の責任を認めさせ、賠償金を請求するのも大切です。でも、裁判に勝っても、勝ち取った賠償金を一人一人に配ると、金額は一人頭、三十万とか五十万とか、その程度の金額です。

 一般国民はどう思っているか。ネットで調べたら、こんなブログを見つけました。

 文句はないけど、賠償金って、結局は私たちの税金だよね、電気料金だよね。結局は、私たちのお金なんだよね、と。こういうことです。国や東電にすれば、お金を払いました。これで解決です。もう文句は言わないでね。はい、幕引きしました、さようなら。こうなっては逆効果です。

 やっぱり、被災者一人一人の心の問題、精神の問題として考えないと。結局は一人一人ですから。一人一人をいかに掬い取っていくか。それが文学の役割だと思います。 

 被災者に寄り添うって、よく言いますけど、口で言うほど簡単じゃありません。

「避難指示を解除しました。故郷に帰ってください。仮設住宅は不便だったでしょ。立派な復興住宅を作りました。さあ住んでください」と言って、おばあさんをマンションみたいな部屋に入れて、話し相手もなく独りぼっちになったお婆さんは、自殺しました。実際にあった話です。

 何がいいのか悪いのかなんて、本当にわからないんです。そのわからない部分を突き詰めて考えるのが小説なんです。

 水俣に工場が出来た時、これで水俣も栄えるとみんな大喜びしたそうです。チッソの会社に勤めるのは、靴を履いて仕事に行くんだ、と、みんな羨ましがったんですね。そのチッソに裏切られてしまった。

 福島の原発も同じです。原発が誘致されると聞いて、もう出稼ぎに行かずに済む、お金が入ってくるとみんな大喜びしたんです。その原発に裏切られてしまった。

じゃあ、自分にとって原発とは何だったんだろう。 

原発というものを、自分の外側にいる敵と考えずに、自分の内側から考える。 

緒方さんが、「チッソは私であった」と言った境地に辿り着けるのか?

杉本さんが、「誰も恨まない。許す」と言った境地に辿り着けるのか? 

 原発事故について小説を書く時に、原点になっているのはやはり、僕の水俣体験なんです。なかなか難しいのですけど、やっぱり、これは一生の仕事だと思っています。

 

お蔵だし写真 いわき市久ノ浜編

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 久ノ浜はいわき市の北部に位置する、漁港のある地区。薄磯からは北へ約20キロのところにある。福島第一原発からは30キロ圏内に入る。僕の母校である双葉高校には久ノ浜から通っている生徒も少なくなかったので、小高からは遠いが馴染みの濃い街だった。

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 震災後、久ノ浜を訪れたのは2011年5月。いわき市を中心にボランティアをしていた頃だ。津波被災地は他も訪れていたが、ここで受けた衝撃は違った。海岸と街並みがほとんど接しているのに加え、防波堤が低いことと、防潮林がなかったことによって、津波の衝撃をもろにかぶってしまい、しかも町内の工場から出火し、津波と火災の二重災害が起きてしまった。さらに原発事故によって被災者が避難したことにより、被災家屋が震災後もしばらく手つかずのまま残されたのだ。

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 他では受ける事のなかった衝撃とは、家屋が完全にひっくり返されるなどの視覚的混乱が生じたこと。もうひとつは、火災の名残である重油の焦げた匂いと、漁港の街ならではの魚が腐ったような匂いが漂い、ほんの数日前に震災が起きたように錯覚してしまうほど、災害の空気が生々しく残っていたことだ。

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 上が出火した工場跡。下は火災現場。

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 火災によって溶けた街路灯。

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 被災者の生活を思わせるがそこかしこに散乱していたが、人形は別格の扱いをされていたように思う。

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 不思議なのか、不思議でないのかよくわからないが、町の中心にある稲荷神社はほとんど無傷で残った。確かに、周囲より少し高い場所に建ってはいるのだが・・・。ミッキーマウスが拝殿に借り住まいしていた。

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 防波堤から海側に視線を転じると、穏やかな海がある。すさまじい被害を背にしているのに、海だけを見れば何も起こらなかったみたいだ。

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 久ノ浜にはその後もたびたび訪れ、変貌を目にしてきた。下左は2011年9月、右は10月の慰霊台。自然発生的な慰霊台が、ひと月の間に調えられていった。

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 生き残った神社はその後、復興のシンボルとなり、周辺が公園になった現在も、大切にされている。宗教的なシンボルは住民にとっていかに大事かを思わせる。信仰があろうとなかろうとに関わりなく、そうなのだ。

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 4,5ヶ月の間に街は変わっていった。焼け残った商店も軒並み整理された。

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 美術系の学生がボランティアで被災家屋をペィンティングしていった。上左の郵便ポストもそう。被災地を少しでも明るく、という気持ちはわかるのだが、個人的には少々複雑。ありのままでいいじゃないか。

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 犠牲者の出た高齢者施設にて。

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 9月頃には、避難していた住民も帰っていて、いろんな話をしてくれた。みんな、自分が目にしたもの、自分が体験したことを伝えたがっていた。ここに遺体があったとか、水がここまで上がったとか。下左の写真では、家の板壁の塗装が剥げているところまで水位が上がった。おばさんは道沿いにアサガオを育てているのだが、花がしおれても寂しくないようにと、造花のアサガオ(右)も飾り付けていた。しかしこの家もいまは撤去されている。

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 下写真。解体が決まった我が家への愛情が感じられる。

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 道の駅よつくらは当時休業中、瓦礫置き場になっていた。そこで目にした立て看板。住民、特に漁師の怒りが伝わってくる。漁業関係者がどれだけの苦難を強いられてきたか考えたら、汚染水の海洋放出は絶対にできないはずだ。安全だというなら東京湾に流せばよいではないか。オリンピック開催中に。海外メディアの目の前で。だってアンダーコントロールしているんだから。それができないなら、できない理由を教えてほしい。

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お蔵出し写真 いわき市薄磯編

 薄磯にはなぜか引き寄せられる

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 薄磯はいわき市の沿岸部。津波により220人が犠牲になった。震災前の薄磯になじみはなかったけれど、なぜか引き寄せられるものがあり、何度か脚を運んだ。震災の年の五月、精神科医のチームと一緒にいわき市内の避難所を巡回し、避難者の話し相手になるボランティアをしたことがあり、その時、津波の爪痕がまだ生々しい薄磯を目にしたこともそうだけど、震災とは別に、この土地には他にない独特の雰囲気があると感じ、調べてみたらこの辺りがもともと霊地だったとあとで知った。下の写真は2011年5月初旬の撮影。なお、下写真は、テレビ局の取材を受けている精神科医チーム。彼らと活動した経験がなかったら、震災をテーマにした小説のほとんどは書けなかったか、違うものになっていたと思う。

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 その年の秋、今度は一人で薄磯を訪ねた。被災家屋のほとんどは撤去されており、夕暮れ、遠くからコンクリートの建物を解体する物音が間遠に聞こえていた。ほとんど車が通らない交差点に(もちろん信号機はない)警備員が独りで立っていたことを記憶している。

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 偶然にも大潮の日で、見事な満月がのぼっていた。釣り人が独り。元住民だろうか? 美空ひばりの歌で有名な塩屋崎灯台は故障中で点灯しなかった。工事が終わると波音のほか何の物音もしなかった。

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 崖に横穴古墳群がある。きっと古代から霊的に強い場所だったのだろう。それと関係しているのか、ここの海岸の自然風穴には賽の河原もある。海で亡くなった子どもの霊が集まる場所だといい、伝説も残っている。

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 この時はまだ内部にはお地蔵様が倒れたままだった。(今は外に並んでいる)そこかしこに石積みがあり、うっかり蹴飛ばしたり踏みつけたりしないよう、気をつけて歩かなければならなかった。

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 波音が洞穴に反響して厳かな空気に満ち、傷ましくはあったが、怖い感じはなかった。僕はオカルト的な興味で訪れたわけではなく、こういった場所で自分がどういう心境になるものか感じ取ってみたかったのだ。こういう経験を積んでいかないと小説は書けない。下の写真は出口。

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 しかし自宅に帰ってから不思議なことが起こった。夜、誰もいない僕の部屋から時おり、水のしたたる音が聞こえるようになったのだ。もっとも、音の正体はすぐに判明した。僕の携帯電話の着信音がいつの間にか水音に切り替わっていたのだ。自分では変えたつもりはなかったが、操作ミスでそうなってしまったのだろう。なあんだ、という話なのだが腑に落ちない。なぜ着信音が変わったのだろう。着信音に水音があるなんて僕は知りもしなかったのだ。被災地を歩いていると不思議なことはよく起こる。不思議は不思議と受け入れて、慰霊の心は忘れないことが大事。

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 塩屋崎灯台は修理を終え、夜になると光を回転させている。灯台からは薄磯地区が一望できる。

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 震災前、灯台絵画コンテストで佳作入選した女の子が残念ながら津波の犠牲になった(当時小学校4年生)。色彩が鮮やかだし、構図も見事だ。子どものかわいらしい絵、という以上に優れたデザインだと思う。成長していたら才能を開花させてデザイナーになったかもしれないと思うと、なお傷ましい。その作品は、灯台の復旧を記念してハンカチになった。彼女の命の証は、ハンカチになって永遠に残るのだろう。灯台の展示コーナーに上のポスターが飾られてある。

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 2019年撮影の灯台。震災直後はこの通路が割れてぐちゃぐちゃになってしまった。美空ひばりの歌碑がやたら有名になったけど、灯台自体も美しい。騎士か貴婦人を思わせるくらい、凜としている。

 下左写真は2019年撮影。新しい道路が敷かれ、空き地だった場所にも家が建ち始めていた。右写真は高台に作られた復興住宅。住民の新しい生活が始まっている。

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原発事故と震災文学

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2013年の小高駅前商店街

 今回紹介するのは、二〇一七年に僕が首都圏を中心に語ってきた講演録です。かなり切り詰めましたが、それでも長い文章なので、忙しい方は、太字の部分を拾い読みしてくださるだけでも結構です。学生時代に参考書に引いたアンダーラインのようなものです。それで講演の主旨はつかめるはずです。 

  原発事故と震災文学               志賀 泉 

 文学者の使命は歴史を生きること

 こんにちは、志賀泉です。この会場でお話をさせていただくのは今回で二度目です。前回は原発被災地になった故郷への旅』という、僕が出演している記録映画を上映し、映画に込めた思いを語りました。

 「原発被災地になった故郷」とは、福島県南相馬市の小高区のことです。僕はそこで生まれました。福島第一原発から二十キロ圏内です。原発事故が起きてから約一年間、立入禁止区域に指定されていました。

 映画を撮影したのは立入禁止が解除されてからですが、宿泊は禁じられていたので、小高区は基本的に無人地帯でした。人影のない故郷を僕がひたすら歩き、少年時代の思い出を延々と語り続ける映画です。

 では、『原発被災地になった故郷への旅』で僕が伝えたかったことは何か。一番には、目に映る風景の美しさ、やさしさでした。

 放射性物質に汚染されて田畑は荒れ放題だし、津波に襲われた海辺の集落には瓦礫が転がってるし、地震で壊れた家もあちこちに残っている。それでも、風景の美しさが心に染みました。どうして美しく見えるのか、それは「謎」として僕の心に残りました。その「謎」を多くの人と共有したい、そして考えてほしいと願いました。

 もちろん、「謎なんてない」という言い方もできます。放射性物質は目に見えないからだよ、線量を測れば「美しい」なんて言っていられないよと、そう言ってしまえば話は簡単です。それが正しい答えですから。でも、正しい答えが唯一の答えとは限りません。

 答えを出す、その一歩手前で踏み止まり、「謎」を「謎」のまま抱え込む。すると「謎」が深まっていき、簡単に答えの出せないものに変わる。そこでさらに考えを深めていく。文学者は大抵、そういう手続きを踏みます。論理的な正しさからこぼれ落ちるものを拾い上げる。評論家やジャーナリストと文学者の違いはそこだと思います。

 カミュという作家はご存知ですか。『異邦人』や『ペスト』の作者です。彼の自伝的小説を映画化した作品に『最後の人間』があります。そこに出てくる印象的なセリフに、こういう言葉があります。

 「作家の使命は歴史を作ることではない。歴史を生きることだ」

 「歴史を作る」のは社会を動かす人、変革しようとする人たちです。彼らは他者を否定し、断罪し、その言動は時として暴力的になります。

 では、「歴史を生きる」とはどういうことか。社会を高みから見下ろすのではなく、社会のただ中に自分を置き、他者と共感しながら、人間として生きることです。それが文学者の使命だとカミュは言います。

 僕が故郷を舞台に小説を書く時、肝に銘じているのは「被災者が悩むように悩み、迷うように迷いながら書く」です。それが僕なりの「歴史を生きる」ことです。誰かを糾弾したり人を導いたりするために書くわけではありません。

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チェルノブイリ原発労働者の街・プリピャチにて

  「見落とされた歴史」を救う文学 

 小説ではなくジャンルは記録文学になりますが、背筋が寒くなるほど凄いと感じたのは、二〇一五年にノーベル文学賞を受賞した、スベトラーチ・アレクシェービッチの代表作『チェルノブイリの祈り』です。

 彼女はジャーナリストです。この本も、チェルノブイリ原発事故を体験した人の証言集です。では、これはドキュメントなのかというと、普通のドキュメントとは違う。文章の肌触りが違うのです。

 肌触りとは、取材対象との距離感のことです。この本はそれがゼロに近いのです。距離を置いて客観的な事実を書こうとはしていない。証言者の息の温もりや、口臭まで匂ってきそうな文章です。ひとつひとつの言葉が、ちゃんと命を宿しているのです。

 それがとても不思議でした。僕も文章を書く人間ですから、誰にもできそうでいて、誰にも真似できないことはわかります。だから不思議としか言い様がありません。

 ただ、僕とアレクシェービッチには共通点がふたつあります。ひとつは、僕もアレクシェービッチも原発被災地の出身だということです。アレクシェービッチはベラルーシの出身です。ベラルーシ原発事故の最大の被災国です。どういうことかというと、作者にとって、原発事故について考えることは自分自身について考えることと同じだということです。つまり、生身の人間を通して原発事故を考える。そういう視点を持つということです。それも僕との共通点です。

 前書きにはこうあります。

「私の関心をひいたのは事故そのものじゃありません。あの夜、原発でなにが起き、だれが悪くて、どんな決定がくだされ、悪魔の穴の上に石棺を築くために何トンの砂とコンクリートが必要だったかということじゃない。この未知なるもの、謎に触れた人々がどんな気持ちでいたか、なにを感じていたかということです。チェルノブイリ私たちが解き明かさねばならない謎です」

 チェルノブイリを、作者は「謎」と言っています。事故の真相がわからないという「謎」ではありません。チェルノブイリとは、人類の文明史に突然現れた得体の知れない何か、名づけようのない何かなんです。「解き明かさねばならない謎」とは、原発事故の真相を究明しようという意味ではありません。それがなぜ存在するのか、そして人間に何をもたらしたのか、そのこと自体が「謎」だと言っているのです。

 他には、「私はほかのことにも聞きたかったのです。人間の命の意味、私たちが地上に存在することの意味についても」とあります。

 ジャーナリストの問いかけではありません。哲学的な問いかけです。宗教的でさえあります。アレクシェービッチは原発事故という事実を書こうとしたのではなく、書きたかったのは人間という現象なのです。

 事実は客観ですが、現象は主観で捉えるものです。歴史は客観的な事実ですが、では、主観は歴史になるのか。

 多くの主観を束ねれば歴史になる、そうアレクシェービッチは言います。

「一人の人間によって語られるできごとはその人の運命ですが、大勢の人によって語られることはすでに歴史です。個人の真実と全体の真実を両立させることはもっともむずかしいことです」

 個人の運命を束ねていくと、それも歴史になると書いています。たとえそれが全体の真実と矛盾するものであっても、個人にとって真実であるなら、歴史の証言として残すべきだとアレクシェービッチは考えます。

 証言者の多くは、死者を背負って生きているように思えます。誰もが、死んでいった親しい人、愛する人の代弁者になっている。さらに、そう遠くない自分の死を予感している。自分自身も半分は死者になっている。この本が他のドキュメントと決定的に違う点はそこです。死者の声を聞き取ろうという、作者の無意識の意思が隠れているように読めるのです。

 たとえば、このような言葉があります。

「ユーリャは泣いた。『私たち、死ぬのね』。いまでは、空はぼくにとって生きたものです。空を見あげると、そこにみんながいるから」

 語り手は子どもです。身の回りで友だちがどんどん死んでいく。でも、彼にとって死んだ人は本当の意味で死んではいない。空の上で生きている。死者に見守られている。そして、いつか自分も彼らの仲間になる運命を予感している。状況は残酷ですが、不思議と明るく、透明感のある、生命の尊厳も感じさせてくれる言葉です。

 アレクシェービッチは、どうしてこのような言葉を書き残すことができたのか。

 一人の子どもの運命を、アレクシェービッチは聞くことによって、書くことによって、我が身に引き受けている。言い換えると、語り手の運命を作者が自分の運命であるかのように生きているのです。このような過程を経ることで、証言は血もあり肉もある言葉となり、さらに大勢の読者に共有されることで、人間的な歴史になるのです。

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                  ウクライナチェルノブイリ博物館にて

 いかにして「震災文学」は成立するか 

 原発事故を十年もたたないうちに過去にしてしまえる国で、文学はこれからも生き続けられるのか、僕は危機感を覚えます。原発事故は、日本人とは何か、国家とは何か、家族とは何か、人間とは何かを考え直すまたとない経験だったはずです。

  震災後、「震災文学」という言葉が生まれました。でも考えてください。「震災文学」とは何でしょう。関東大震災後に震災文学は存在したのか。阪神淡路大震災後に震災文学は存在したのか。では、なぜ東日本大震災後に震災文学が生まれたのか

 震災文学を戦後文学と比較するとわかりやすいと思います。なぜ太平洋戦争後に戦後文学が生まれたのか。敗戦を境に世の中が変わったからです。価値観がひっくり返った社会でどう生きるか、自分を問い直す必要があったのです。だからこそ新しい文学が求められたのだと思います。

 東日本大震災原発事故も、世の中を変えるだけのインパクトがありました。震災直後には多くの人が「生きる意味が変わった」と感じたはずです。そういう意識があって、初めて震災文学は成立するのです。

 それともうひとつ、死生観の問題があります。戦後の日本人は多くの死者を背負っていました。新しい日本を建設しなければ戦争で死んだ仲間に申し訳ないという責任感がありました。同じように、震災直後は多くの日本人が震災の犠牲者を背負っていたはずです。

 東北では、特に福島県では、震災関連死や自殺が今も後を絶ちません原発事故との因果関係を認定されないまま、健康被害に苦しむ方、病死する方も増えていくでしょう。死者の問題は終わっていないのです。

  確かに、死者を背負ったまま日常を生きるのは困難です。しかし、だからこそ、死者を忘れないための記憶の器という役割が、文学にはあるのです。

 たかが文学と軽く見ないでください。石牟礼道子苦海浄土を書かなかったら、水俣病が日本人の魂に記憶されたでしょうか。野坂昭如火垂るの墓を書かなかったら、過酷な運命をたどり死んでいった多くの戦争孤児がいたことを、子どもたちに伝えられたでしょうか。

 文学の果たす役割は決して小さくありません。公式的に残される歴史を、文学は裏側からひっくり返すことだってできるのです。記録すること、語り継ぐことは、僕たちにできるささやかな抵抗です。そして、どんなに悲惨な経験からも、文学は希望を見つけることができるのです。

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大熊町商店街の入り口(撮影2020年3月)

 

 

オリンピックの影で

  今回は昨年(2019)3月、共同通信の依頼で書いた、「東京五輪を考える」というシリーズのコラムをここに再録します。僕の他には江川紹子氏や有森裕子氏などビッグネームが名を連ね、それぞれ辛口のコメントを発表していました。新型コロナの感染が拡大し、オリンピックの延期が発表されるぎりぎりのタイミングで日本各地の地方紙に掲載されました。オリンピックと浪江町のあんば祭りを「祭」という共通項でくくり、その上で復興とは何か、問題提起した記事です。(写真はすべて昨年2月)

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 オリンピックの影で
 

 もしも私が予言者だとして、東日本大震災から1年以内のある時点で「今から9年後に東京オリンピックが開催され、Jヴィレッジ(当時は事故処理作業員の拠点)が聖火リレーの出発点になる」と予言したとしたら、あなたは信じただろうか。黙殺したか、悪い冗談だと一笑に伏したに違いない。

 では、別の予言を立てたとしよう。「7年後、今は警戒区域に入る海辺の集落で、伝統の祭が復活する」と。こちらは信じた人もいるのではないか。少なくとも、信じたいと願う人はいたはずだ。

 現に復活した。毎年2月に浪江町請戸地区で催される安波(あんば)祭がそうだ。今年はあいにくの雨だったが、津波の被害を受けた神社の前で、テントに守られながら女性達が田植え踊りを舞った。伝統の灯を絶やすまいと、避難先で稽古を積んできた人達だ。

 聖火リレーも田植え踊りも「祭」であり、どちらも復興の証に違いない。では両者の違いは何か。前者は上から与えられる祭で、後者は地元民が下から突き上げる祭だ。規模の大小は比較にならないが、祈りの深さは、田植え踊りの方が遙かに深い。請戸地区に限らず、原発事故の被災地域で、伝統の祭が少しずつ復活している。私はそちらの方に、より強い復興の足音を聴く。郷土の誇りを守ろうとする人々の魂を尊いと思う。

 県外避難者を含めた福島県民の中には、「オリンピックを目途に自分達は切り捨てられるのではないか」と危機感を抱いている人は少なくない。「2020年までに避難者をゼロにする」という目標は、今年3月、避難者への支援打ち切りという形で進行する。

 双葉町大熊町を除く町村で、帰還困難区域からの避難者(世帯数2700以上)も、住宅支援を打ち切られる。町内の避難解除区域に復興住宅が整備されれば、帰れない土地に家があっても、避難者ではなくなるのだ。双葉・大熊町も遠からずそうなる。

「避難者支援を打ち切った以上、あなたは避難者ではない」あなたが当事者だとしたら、この論理を受け入れられるだろうか。

 19年3月の福島県の調査では、支援打ち切り後に住宅確保の見通しが立たない世帯は49%に上った。すでに自主避難者への住宅提供は17年3月に打ち切られ、路頭に迷った人、自殺まで追い詰められた人々を民間団体が救済している。

 福島県出身者として、地元の復興に尽力する人々に、私は敬意を捧げている。聖火リレーに期待する人の思いも否定しない。しかしその一方、オリンピックの影で切り捨てられていく人々にも目を向けていきたい。どちらか一方というわけにはいかないのだ。復興とは行政のための復興ではない。一人一人の復興のことに他ならないのだから。

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 安波(あんば)祭について少し紹介する。安波祭は延宝年間(1673~1680)の大凶作の時代にら始まる、五穀豊穣と海上安全を祈願する祭。毎年2月の第3日曜日に、田植え踊りや祖馬流山、大漁節などを請戸の苕野(くさの)神社に奉納する。避難中にも保存会の人たちはそれぞれの避難先で稽古を重ね、震災2年目から各地の仮設住宅で踊りを披露してきた。請戸地区にはいま、住む人はいない。苕野(くさの)神社も社殿が流され、小さな社があるのみだ。そのような土地で祭を継承する意味とは何か。『震災と行方不明』(新曜社)で、請戸地区出身の新野夢乃氏が「踊りの中で生き続けるもの」に踊り子の心情を詳しく書いているのでぜひ読んでほしい。素晴らしい文章です。

 新野氏によれば、震災後は踊りの意味が変わった。犠牲者の慰霊・追悼を込めた踊りになったという。

 新野氏の家族はいまも行方不明にある。彼は踊りながら、震災前の請戸の風景や神楽を踊る父の姿を思い出し、父と踊っているような錯覚さえ覚えたという。

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 踊り子は東京や神奈川からこの日のために集まってくる。

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 請戸地区は津波により荒廃した。苕野神社も灯籠や鳥居が崩れたままだ。

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 祭が終わり、雨の中、見学者たちがそれぞれの車に帰って行く。

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