『百年の孤舟』その後
2021年4月9日、特急ひたちに乗って南相馬市に向かった。県境を越えて福島に入ると、「こんなに美しい土地だっけ」とひそかに心打たれていた。もちろん仲春の季節だからという理由もある。鮮やかな新緑に草花が彩りを添え、桜の花も残っている。野山は俳句の季語にある「山笑う」といった風情だ。この時期に故郷を訪れることはしばらくなかった。
けれど、季節だけが理由ではない。公園や民家の庭はもちろんのこと、道ばたや川の土手、畑のへりなどいたるところに色鮮やかな花がある。以前は、というのは震災前のことだが、これほど熱心に花を植える習慣は、地元の人にはなかった気がする。震災や原発事故で暗くなった心を少しでも明るくしようという意志が、思い過ごしかもしれないけど、感じられるのだ。
列車が旧警戒区域、帰還困難区域に入っても思いは変わらなかった。いや、いっそう強く感じた。ぼろぼろになった民家の庭や、建物を撤去した更地の庭でさえ、草花が鮮やかだった。明らかに人が手入れしている。まるで草花の世話をすることで、この土地を見捨ててはいない証とするように。その心を尊いと感じた。
ぼくは『百年の孤舟』に、震災や原発事故が人の心に残したもの、多くは心的外傷として癒やしがたく刻まれたものを書いてきたが、暗い面ばかり強調したきらいがある。もちろん、ぼくなりに必然性があってそうしたわけだし、物語の方から「そう書け」と要求された結果でもある。
けれど、どんな物事にだって光と影はある。現場に立ち、現地の人と交流を持てばその両面に触れることになる。しかし物語を創作する上で難しいのは、光と影を同時に描ききることだ。その意味でぼくは未熟なのだと思う。『百年の孤舟』はぼくの故郷である小高町(南相馬市小高区)を舞台にしているが、暗い話ばかりになってしまい、現実に小高町で日常生活をいとなんでいる人たちに対しては、申し訳ない思いも実はしている。個人的には、故郷の再生に地道に取り組んでいる地元の人たちに敬意を惜しまないし、ぼくの誇りでもある。
だから、せめてこのブログで、小高町の何が変わり何が変わっていないかを、新旧の画像で比較しながら紹介したいと考え、一人旅をしたのだった。コロナ禍ゆえに誰とも会わず、急ぎ足の日帰り旅行だったけど。
旧福浦村・浦尻地区(島尻)
旧福浦村(小高町の南側、海寄り)、宮田川で見つけた舟。たぶん川漁で使われていたものだろう。丸木舟ではないが、いまでは珍しい木の舟で、「百年の孤舟」のイメージに近い。偶然の出会いに胸がときめいた。川岸の葦といい、静謐な流れといい、絵に描いたような光景だ。舟にまといつくように浮かんだ花びらは、山桜の花びらが川に散って流れたもの。一句詠む。
沈みゆく孤舟を惜しみ山桜
「百年の孤舟」で「鳥の巣箱のよう」と表現した桃内駅。桃内という駅名にたがわず、小さな駅舎がかわいい。ぼくが乗り降りしていた〇十年前は木造の素朴な駅で、無人駅なのになぜか駅員がいた。小高駅と桃内駅の間には四つの短いトンネルがある。「百年の孤舟」の主人公は、真夜中に右写真のトンネルを通り抜けてきた。ちなみに、作品中に書いたトンネルを走り抜ける命がけの遊びは、ここではないけど実際にやった。よい子は真似しないように。
桃内駅のホームかの眺望。主人公が夢の中で鉄道を伝い、桃内駅のホームから見渡したときは真夜中だったので、暗闇の底が抜けたような真っ暗闇だったはず。左が2014年大晦日、右が2021年4月。あまり変わっていないようだが、よく見ると奥の建物がいくつか消えている。
海岸から3キロ地点に置かれた線量計。左が2014年大晦日。右が2021年4月。干拓によって作られた広大な水田地帯だったが津波で冠水した。福島第一原発からは15キロくらいか。2014年には残っていた被災家屋が現在は撤去され、代わりに廃棄物置き場が出現した。ちなみに線量の数値は2014年が0.155マイクロシーベルト毎時。現在は0.085まで下がっている。
上写真と同じポイントから視線を海側に転じると、彼方の海岸まで視線をさえぎるものがない。中学時代に自転車でよく走った道だ。人がいないので井上陽水とかの歌を大声で歌った。やはり左が2014年で右が2021年。かつては民家の庭木だった枯れ木立ちが消えた。仕方のないことだとしても。
左右とも2021年4月。線量計写真の道路をはさんで山側は廃棄物置き場になり(左)、海側は太陽光発電の基地と化した。東芝のロゴが見える。エコなんだろうけど、違和感を覚えるのはわたしのエゴか。
家屋が流されても庭木や花壇を残している家は案外多い(左)。こういう心遣いが風景をやさしくする。この土地が死んでいない証明なのだ。右は無人飛行機の離発着場所らしい。テスト飛行なのだろう。舗装して短い滑走路を作るのだろうか。もしそうだとすると、左の風景まで消滅してしまうかもしれない。
土を入れ替えるなどして農地を再生させる計画があると、市会議員から聞いた。実際、いたるところで作業が行われていた。重機の音を頼もしく感じる経験って、あまりない。個人の農家ではなく、大規模な農場経営が可能な企業に土地を託すというが、名乗りをあげる企業はまだないそうだ。生きているうちに、青々とした水田の風景を見てみたい。どうか、工業団地にだけはしないでほしい。
井田川干拓地の水門。同じ橋の上から撮影した。左は2012年4月。右は2021年4月。傷んでいた橋も新しくなり、慰霊の祭壇も移された。
同じ水門を反対側から撮影した。左が震災前。右が2021年。背後の防潮林がすっかり消滅している。防潮林のない海岸は寂しい。植林はされているので早く大きくなってほしい。
宮田川は干拓地をまっすぐに貫く。この川をさかのぼると舟のある場所に行き着く。いい風景だとあらためて思う。
一時は「海に戻った」と言われた干拓地だが、2012年の夏には懸命の排水が効果を現し始めた。排水しても雨が降れば水かさが増し、復旧は無理と言う人も多かった。上写真は2012年4月。下写真は同年の7月に撮影。冠水していた土地が草原となり、赤く錆びた農機具や自動車が至る所に転がっていた。
しかし2014年の暮れに訪れてみると、一角に白いフェンスが張り巡らされ、廃棄物の処理場が作られていた。仕方がないこととはいえ、なんとはなし、裏切られたような気分だった。
下2枚は同じ日に撮影。津波が残していった水はいたるところに残り、荒れた印象は拭えなかった。しかしシラサギが餌を探している風景は救いだった。以前は生き物の気配もなかったのだ。
浦尻貝塚から見下ろした廃棄物処理場。上下とも、左が2016年7月で右が2021年4月。このまま仮置き場にされるのではと懸念していたが、めでたく役割を終えて撤収されていた。囲いの中で防潮林の苗木が植えられている。
「百年の孤舟」にも貝塚の話が出てくるが、浦尻貝塚がモデル。下は、震災前に撮影した海辺の集落。直角に海岸へ向かう道路を目印に見て欲しい。この区域だけで39戸が津波で流失し、31戸が損壊した。犠牲者の数は24名。避難を呼びかけて命を落とした人もいる。
2016年に訪れたときは、人の背丈を超えるほどの藪に覆われていた貝塚。果敢にも藪に分け入り、いまは地元の人の努力で整備され、見事な貝塚遺跡として再生された。感謝。感謝。竪穴住居跡や土偶も発見されたのだ。縄文時代からここが豊かな土地だった証拠。ぼくが土器や石器を拾っていた1970年代は畑だった。なぜか縄文ブームが小学生の間で沸き起こったのだ。2021年、還暦を過ぎたぼくはここで二つの石器を拾った。ぼくが子どもの頃は、拾うのはOK、掘るのはNGというルールがあった。いまもそのルールが適用されているという前提で、合法的に持ち帰った。
上写真。津波に破壊された民家の破片だろう。防波堤の真下はえぐり取られ、水が溜まっていた。2012年4月撮影。下はその10年後。防波堤は倍ほどの高さだ。苗木が防潮林になるころには、ここにあった集落を記憶している人も少なくなるのだろう。
下写真。慰霊碑も立派になった。(左)2014年の時点ではお地蔵様3体だったが、(右)その後、慰霊碑と観音様が建立されていた。2021年撮影。
今後、この土地をどう利用していくのかわからないけど、ゼネコン主流の乱暴な開発だけは辞めて欲しい。それだけは切に願う。
小高の海は独特だ。どーんという波音が深い。重低音で胸板を叩く。ざあっという波が引いていく音も激しい。他の、どの海岸に行っても、同じ波音を聞いたことがない。この岸壁の上に綿津見神社がある。
浪江町との境へ続く坂道。下りていくと水平線が見えてくる坂道って、いいものだ。設定では、「百年の孤舟」の主人公の家は、この坂道の(海に向かって)左奥にある。
坂道を上ったところに浪江町との境がある。近くに「百年の孤舟」でも取り上げたアトムの看板があったが、いまは消えている。
「このからだ微塵に散らばれ」とチェルノブイリ
「このからだ微塵に散らばれ」を創作するにあたって、最初にふたつの決めごとを設けた。
ひとつは宮沢賢治の詩句をタイトルに据えて、「いかりのにがさ」「花火なんか見もしなかった」と併せて宮沢賢治三部作にすること。そこで、「春と修羅」の一行、(このからだそらのみぢんにちらばれ)を借り、「このからだ微塵に散らばれ」に決めた。この時点ではテーマもストーリーをまるで決めていなかった。
もうひとつの決めごとは、2017年に僕はチェルノブイリを旅行しているので、僕なりのチェルノブイリ体験を何らかの形で物語に反映させることだった。しかし、そのために思いのほか苦しむことになった。チェルノブイリと福島を「からだ」で結びつけるものとして、甲状腺がんの他にはなかった。けれど、物語を進めるためには、機動力となる何かが必要だ。その何かが見つかるまで何度も書き直した。チェルノブイリと福島を結びつける何か。そこで、不意に思い浮かんだのがウクライナの歌姫、ナターシャ・グジーだった。
実は、チェルノブイリ・ツアーの参加者の一人が、参加者全員にナターシャのCD(「消えた故郷・生命の輝き2」)をプレゼントしてくれた。もちろん僕もいただいた。鎌倉の建長寺で避難者支援のコンサートを開いた時は僕も聴きに行った。購入したCDにサインをしてもらい、短い時間だが会話もした。繊細でやさしい人という印象を持った。ナターシャをモデルにした歌姫を小説で「美神」と僕は書いたが、それはこの時の正直な感想だ。
上は、廃墟となったプリピャチ市に今も残る、ソ連のマークを掲げた建物。下はプリピャチ市の遊園地。開園前に原発事故が起こり、使われずじまいとなった。
原発時事故当時、ナターシャの家はチェルノブイリ原発労働者の街、プリピャチ市の郊外にあった。原発から3.5キロという近さだった。ナターシャは6歳の時にここで被爆した。ナターシャが住んでいた集落は、家も学校も何もかもが、線量が高すぎるという理由で破壊され、土に埋められた。
これらの写真はチェルノブイリ原発からほぼ30キロの距離にある村。居住禁止区域だが、ウクライナ語で「サマショール(わがままな人)」と呼ばれる自主帰還者が生活している。下右写真は井戸の覆い。
捨てられた村での生活はもちろん不便を強いられる。近くに病院も商店もない。基本的には自給自足の生活で、森で採れるキノコは貴重な食料だ。当然、健康上のリスクをともなう。しかし彼らは土から切り離された都会生活や避難者差別に耐えられず、故郷に戻ってきた。村内にある農家の多くは空き家で農地は荒れ果て、見るからにわびしい風景が広がっていたが、帰還者はその中にあって、それなりに充足した生活を送っているように見えた。「復興」の名の下に近代化を押しつけられている東北の被災地に比べて、僕が理想として思い描いていた「故郷再生(復興ではなく)」の姿を、ここで見たような気がした。もちろん、チェルノブイリにとっても福島にとっても僕はよそ者であり、こんな感想なんて身勝手な感傷にすぎないのだけれど。
下は、我々が訪問したサマショール、マリアさんの家にて。マリアさんはウオッカとピクルスで我々をもてなしてくれた。ピクルスを切るマリアさんの足下に、おこぼれにあずかろうとする鶏やガチョウが集まってきた。
チェルノブイリ博物館(キエフ市)にある母子像。子どもが十字に腕を広げているから、聖母子像でもあるのだろう。チェルノブイリを訪れて意外だったのは、どこを歩いても宗教的(ウクライナ正教)な雰囲気が濃く漂うことだった。
NHKスペシャル「原発事故7年目 甲状腺検査はいま」(2017年11月26日放映)より。画面撮りですみません。甲状腺がん摘出手術をした青年の首に残る手術痕。人によっては自殺を考えるまで苦しんだ。福島の甲状腺がんについては(当時)意外と参考図書が少なく、この番組が参考になった。
下左は2017年当時の、地域別の甲状腺がん発見数のグラフ。
「このからだ」を書くため、浪江町から避難した友人に頼み、解体が決まった彼の実家にひと晩泊まらせてもらった。
畳にはネズミの糞が散らばっていた。夜になると天井裏から小動物の足音が聞こえてきた。
これは2013年小高駅前の夜景。まだ居住制限があったため、日が落ちると人影がまったくなくなった。
『百年の孤舟』全編を通して、主人公たちは何かに怒っている。「ずっと怒っているので読んでいて疲れる」という声も聞こえた。僕には心外だった。そんな自覚はまるでなかったからだ。
心当たりがあるといえば、福島から東京に戻ってくると、いつも僕は駅の雑踏に違和感を抱き、いらだち、目の前にいる人を手当たり次第に殴ったり蹴り飛ばしたりといった暴力衝動にかられた。もちろん行動には移さない。妄想するだけだ。そして福島に帰りたいと思った。人のいない怖ろしく寂しい風景を自分の居場所のように感じた。
なぜ怒りにかられたのだろう。子どもじみていると言われたらそれまでだ。東京が水のように電気を使うから福島はその犠牲になったとか、東北に無関心で遊んでいるやつらが気にくわないとか、そういういちおうは筋道のとおった感情ではなく、もっとわけのわからない衝動的な怒りだった。
いまはもうそんなことはない。駅に着くと、腹が減ったから何か食べて帰ろうとか、つまらないことを考えている。
いつから怒りが消えたのか。たぶん住民の帰還が始まって街の様子が徐々に落ち着いてきてからだと思う。それは同時に、いつの間にか自分の故郷が自分の記憶と違うものに変化していく、馴染みのないものに変わっていく過程でもあったのだ。でも、そのことに対して抗議するつもりはないし、その資格もないと思っている。復興は地元住民が進めていくべきで、よその人間がしゃしゃり出てとやかくいうべきではない。小高の人たちは頑張っているなと、風景を見渡しただけでも感じるし、嘘偽りなく感謝もしている。
「このからだ微塵に散らばれ」には、そんな僕の正直な思いをにじませている。。
。
「花火なんか見もしなかった」と火の祭
「花火なんか見もしなかった」に描いた雄高町の花火大会は、小高町の「火の祭」をモデルにしている。
火の祭は相馬野馬追祭の行事のひとつ。古くは、祭を終えて郷(相馬領内の行政区分)に帰った騎馬武者を、民衆が松明をかかげて出迎え、ねぎらったのが始まりだというが、深読みをすれば、騎馬武者に宿った先祖の魂を慰霊するためだったのではないかと想像する。騎馬武者が先祖伝来の甲冑を身につけること自体が、意識的にせよ無意識的にせよ、先祖の霊との一体化なのだから。そもそも日本全国どこでも、花火大会には「お盆の迎え火」的な要素があったはずだ。だから花火大会は夏の風物詩であり、華やかさの裏に一種のわびしさが漂うものなのだと思う。
「花火なんか見もしなかった」は、花火大会の会場で花火を見ていない主人公が何を見ていたか(何を見ようとしていたか)、その心の軌跡をたどっていく話だ。現実の花火大会に、主人公は小学六年の学芸会で発表した劇「銀河鉄道の夜」の記憶を重ねていく。
「花火なんか見もしなかった」は、2016年7月25日に開催された、6年ぶりの「火の祭」を僕が実際に見物した体験に基づいて書いた。小高町はその年の6月に住民の帰還が始まった。相馬野馬追祭の開催日に合わせたのだろう。小高町に実家のある僕も祭を見るために帰郷した。もちろん、感無量だった。やっと、小高がここまで復興したのかと。しかし同時にそれは、復興の「現実」を突きつけられた体験でもあった。
復興の「現実」とは何か? 見慣れた町の光景が消滅していくことだった。
これは2016年7月25日の小高駅前。この町並みはもはや存在しない。半分以上の家屋が消滅している。「花火なんか」は、消えていく町へのレクイエムという側面を併せ持つ。
帰還を諦めた住民が次々と自宅を解体し、更地にしていった。見えるはずのない裏道が表通りから見通せたのは衝撃だった。仕方ないと言えばそれまでだが、僕はこの光景を「第二の破壊」と感じた。震災後に僕が思い描いていたのとは、まるで異なった「復興」が始まろうとしていた。
震災の爪痕は一掃されていた。ごくたまに、個人宅の裏手のほうに、納屋か何かが崩れたままになっているのが見受けられた。上は、民家跡にたたずんでいたネコ。血統のよさそうな毛並みだ。まるまる太っているのは、ネズミなどの獲物が多いからか? 人間が珍しいのか懐かしいのか、逃げもせず僕をじっと見ていた。
放置されてジャングルのようになった庭。こうした光景を見ると逆にほっとした。廃墟には廃墟なりの、空間にみなぎる力がある。家屋を撤去した跡地には、「がらんどうの廃墟」「記憶喪失の空間」とでも言うべき空虚感があった。
これは前回に紹介した小高教会幼稚園の庭。草ぼうぼうだが、なぜか野菜を栽培していた。
そして花火大会の夜。数日前まで無人だった町を見物客が歩く。小高駅は先日再開したばかりだ。写真の蔵造りの家は、元書店。僕も世話になったが、この建物もいまは存在しない。
断っておくと、ポケモンGO!をしながら歩いていた若い男女は本当にいた。「おっ、こんなとこにもいたポケモン!」「小高って意外にちゃんと町なんだね」という会話も僕は実際に聞いたのだった。
商店があった交差点の一角にソーラーパネル。この先に小高小学校がある。
明かりのともる家はまれだった。裏通りに入ればなおさら、基本的にはほとんど無人の町だった。
本来なら水田地帯に点在していた篝火。星空を地上に下ろしたような幻想的な光景が広がっていたのに、その風情はなくなった。実行委員の努力には頭が下がるのだけれど。原発事故後、かつての水田地帯は除染のために表土を削られ、ざらざらした地面を剥き出している。かつては水の匂いがし、ホタルも飛んでいたのに。
そして、セレモニーの花火が上がった。感傷的な音楽が流れる。夏の夜を彩る花火が、この日は震災の犠牲者を悼み、慰霊する花火になった。
一発目を 見上げる人々の、この表情。作品中、僕はかなり正直に、正確に描写している。一人一人、感無量で見上げていたと思う。僕自身、ついつい涙ぐんでしまった。
牛のオブジェを荷台に載せた軽トラックが、走り抜けていった。運転しているのは、「反原発」を訴え続ける吉沢牧場(希望の牧場)の牧場主。吉沢牧場は小高と浪江町の境にあり、線量は高い地区だが、牛の薬殺に抗議して牛を飼い続けている。
市街地から見ると花火は爆撃のように見えた。花火と共に暗闇から浮き上がり、また沈んでいく町並みの光景から、僕は宮沢賢治の「春と修羅」の序にある「風景やみんなといっしょに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける」の詩句を思い出していた。この詩句を足がかりに小説のストーリーを組み立てていった。
町が燃え上がるようだった。そして下写真が、最後の花火。特別の大玉だった。小説で描写した光景、そして主人公の心情は、ほとんど僕がこの夜、実際に体験したことを忠実に再現したものだ。
花火大会が終わってしばらく、駅に向かって走り「ダメだ、終電に間に合わねえ」と道ばたにへたり込んだ二人の中学生男子がいた。彼らは無事に家に帰れただろうか。
主人公の家は海の近くにあり、津波で流された。小高町の塚原か村上地区を想定している。
震災二年目の塚原地区の状態を参考までに掲載する。平地の民家は土台しか残っていない。高台にも津波は押し寄せ、多くの民家を破壊していった。
田んぼの中に流された自動販売機。
「いかりのにがさ」はこうして生まれた
「いかりのにがさ」というタイトルは、宮沢賢治の詩「春と修羅」から取っている。
いかりのにがさまた青さ /四月の気層のひかりの底を/
唾し はぎしりゆききする /おれはひとりの修羅なのだ
キリスト教会と付属幼稚園
舞台は南相馬市雄高区(雄高町)にあるキリスト教会幼稚園。小高には実際、キリスト教会幼稚園がある。僕の家は浄土真宗だが、宗教にこだわらず家から近いという理由で通っていた。近所の子ども達はみんなそうだったと思う。日曜日には教会で牧師先生の話を聞き、お盆が回ってくると寄付金を置き(僕はいつも5円玉だった)、聖書の言葉がある絵カードをもらって帰った。そのカードはノートにご飯粒(!)で貼り付けていた。小説の幼稚園と現実の幼稚園は構造からして異なるが、自分の幼稚園時代の記憶を引っ張り出しながら書くのは楽しかった。
震災後、帰省するたび門から園庭を眺めた。草ぼうぼうの庭は悲しいが、建物そのものはほぼ無事な様子なのが救いだった。表通りは教会になっている。写真は2015年1月1日のもので、教会は閉鎖したままだがクリスマスの飾り付けはしてあった。園児募集のポスターもそのままなのも寂しい。
看板にある聖書の言葉「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」は小説でも使っている。震災後に読むと胸に刺さるものがあった。本当に、原発事故が起きた直後は「世の終わり」がきたと思ったのだ。
35歳の時、僕は胃癌の手術を受け、自宅療養でしばらく帰省していたことがある。日曜日、教会の扉が開いていたのでふらっと入った。30年ぶりの日曜学校だった。信者は10人もいただろうか。ぼくは信者ではないが、形だけのお祈りだったのに泣いてしまった。泣けて泣けて止まらなかった。なぜあんなに泣いたのか、いま振り返ってみると理由がわからない。その時の経験も小説中に活かされている。
教会幼稚園なので、卒園式にはキリスト降誕劇を披露した。中央の人形はイエス・キリスト。その前で歌っているのがマリア。僕はというと手前の羊の左から二番目。この劇については、羊の衣装を着せられた時からはっきり覚えている。わけのわからないまま、四つん這いで舞台に出ていったのは、幼子心に屈辱だった。金の冠をかぶった友達もいるというのに。せめて、立って歩きたかったよ。
主人公の女性は幼い頃、光るこびとを見ていたという。(本人にその記憶はない)。こびとのアイデアは、上写真のポスターからヒントを得ている。アーティスト・内藤礼さんの作品だ。現物は高さ5センチあるかないかの小さな木彫だ。観客は展示会場のあちこちに配置されたこの作品を探して歩くことになる。このポスターは我が家の食卓の、僕が座る位置の正面の壁に貼られている。いわば僕は、このこびとと向き合って生活しているのだ。
2012年4月の小高町
小説は、震災発生時からそのほぼ一年後、雄高町の立入禁止が解除された頃までなので、参考までに2012年4月末の小高駅前の写真を紹介する。今では解体した建物も多いので、かつての街並みを知っている人は懐かしく思うかもしれない。路肩の土は、津波の泥流が駅前まで流れてきた名残。30~40㎝くらいの水位だったと聞く。一年を経過しているというのに、まだ堆肥のような匂いがした。
2012年8月、小高小学校にて
主人公はシングルマザー。その娘は小学六年生で、卒業式を間近に控えて被災したのだった。
2012年8月、お盆で帰省し、許可をもらい久しぶりに実家で寝泊まりした。翌日、母校である小高小学校を訪ねてみたら、不思議なことに多くの子どもが校舎を目指していた。3月11日に避難していった子ども達が、教室に置いていった持ち物を持ち帰るために集まっているのだという。職員の方の了解を得て、中に入らせてもらった。子ども達はみんな元気で、再会を喜び合っていた。それだけに切なさもこみ上げる光景でもあった。
マスクをしている子はいない。真夏だったせいもあるのだろう。
その後、かつての通学路を歩いてみた。人影があったのは小学校だけで、他はほとんど無人地帯だった。
見慣れた町並みが、同時に見たこともない町並みでもあった。日差しが強く照りつけるのも非現実感を強めていた。足下がふわふわしていた。夢の世界を歩いているみたいだった。
2013年5月の町並み
震災2年目、町はだいぶきれいになった。しかし、ここに映っている商店の多くは、現在は撤去されている。
2014年7月の「がんばっぺ」
この頃になると、住民の帰還に向けた気運が高まっていた。しかし、この頃から町並みの消滅は容赦なく進んでいった。
。
「百年の孤舟」の舞台
「百年の孤舟」は、知る人ぞ知る大作家、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」のもじりであり、マルケス的なマジック・リアリズムを意識している。舞台は南相馬市雄高区。もちろん小高区がモデル。小高を父祖の地とする作家、埴谷雄高から取っている。埴谷雄高は独自の宇宙論を構築した孤高の作家だ。津波と原発事故で海辺の集落が消滅した島尻地区の歴史をひもときながら物語は進む。島尻のモデルは浦尻。浪江町との境にある集落だ。島尻の地名はやはり小高を父祖の地とする作家・島尾敏雄から取った。島尾敏雄は自身の夢をモチーフにした幻想文学の作家としても知られる。つまり「百年の孤舟」はガルシア・マルケス、埴谷雄高、島尾敏雄の三人の作家へのオマージュでもある。
津波で冠水した浦尻の水田地帯。2012年4月、小高区の立入禁止が解除されると同時に入り、撮影した。「干拓地が海に戻った」と話には聞いたが、実際にこの光景を目の当たりにし、言葉を失った。自分の記憶にある浦尻と同じ土地とは思えなかった。というより、現実の世界に思えなかった。しかし、不思議な美しさをたたえた風景にも見えた。
震災以前の浦尻
上は江戸時代後期に書かれた浦尻の絵地図(出展『おだかの歴史 民俗編1 海辺の民俗』)。浦の呼称は「蛯沢浦」となっているが、浦尻の人は「井田川浦」と呼んでいた。「百年の孤舟」では「島尻浦」にしている。作品中、主人公が「膀胱に似てる」と言って家族の顰蹙(ひんしゅく)を買うが、それは僕がこの絵地図から連想したもの。
『おだかの歴史 民俗編1 海辺の民俗』は、浦の漁師の最後の生き残りというべき人物、大正2年生まれの泉金助氏の証言を記録している。「百年の孤舟」で主人公の祖父が「日本一の浦だ」と豪語しているが、それはもともと泉金助氏の言葉だ。祖父が語る島尻浦の記憶は、ほとんど泉金助氏の証言に基づいている。
実際、浦尻ではドブ舟と呼ぶ丸木舟で漁をしていた。一般にはドンボ舟だが、泉金助氏が「ドブブネ」と呼んでいたので作品中でもそれにならった。ドブ舟は現存しているものは福島県立博物館に保管された一艘しかない。長さ4,63メートル、幅63センチでの、杉を刳り抜いて作られている。この一艘を除くほとんどは、干拓事業が完了するまでに燃やしてしまったという。
海側でも漁は盛んだった。現在は侵食によって砂浜が狭くなったが、江戸時代には地引き網漁ができるほど砂浜は広かった。良質な港はなく、漁師達は漁船を浜に揚げていた。実際、僕も木製の漁船が浜に並んでいたことを記憶している。1975年頃までは、僕もここで海水浴をした。海水浴場としては衰退していたが、人が少ないので一人気ままに泳げたので僕は好きだった。
上は震災前、正月に帰省して撮った写真。左は干拓のために作った人工の川。直線ですっきりした形状が僕は好きだった。右は白鳥が飛来することで知られた池。ここも好きだった。
物語の中で重要な役どころのアトムの看板。看板に原発の「げ」の字もないが、アトムやお茶の水博士のイラストが、ここが原発予定地(東北電力の浪江・小高原発)であることを示している。小高側は予定地の面積が少ないためか抵抗は少なかったが、浪江側は住民が強固に反対していた。高校時代、浪江側を自転車で走ると、農家の入り口に「原発関係者入ルベカラズ」の手書きの看板をよく見かけた。左は排気筒と同じ高さの鉄塔、気象観測塔。僕の感覚だと、いつの間にかあった。結局のところ、東北電力が建てたのはこのひょろ長い鉄塔一本きりだった。原発事故の影響で原発建設計画が白紙撤回され、鉄塔も2016年に撤去された。
2011年3月11日、東日本大震災による津波で福島県沿岸部は壊滅的な打撃を受けた。上は震災前の水門。背景の松林のすぐ裏に海岸がある。下左は2012年4月撮影。機械室は壊滅したのに水門自体は無事だ。
震災後の浦尻
2012年8月に撮影した同じ場所の写真。ポンプで海側に水を汲み出しているのがよくわかる。
「百年の孤舟」で主人公がドブ舟に乗って巡ったのは、下のような沼だった。
防波堤は破壊され、防風林は消滅し、海岸に打ち寄せる波が飛沫を立て、あたりは白くけぶって見えた。あり得ない光景に呆然としたことを覚えている。心が抜き取られたように、何も思えなかった。
干拓地の水は、汲み出しても雨が降れば水位が戻ることの繰り返しで、無理なんじゃないかという話を聞いた。しかも福島第一原発から近いため、この水はかなり汚染されているはずだという噂も聞いた。水が引いても使えない土地なら、いっそこのままにしたらと僕は本気で考えていた。
2014年8月の浦尻
2012年8月、盆帰りで帰省した折り、浦尻に立ち寄る。意外にも水が引き、水没していた自動車や農機具が姿を現していた。背景の6本松をランドマークにして4月の写真と見比べてほしい。
場所によっては青草が生い茂っていた。赤く錆びた農機具にフジツボの殻がこびりついていた。
2014年12月31日の浦尻
2014年12月31日。大晦日というのに、夕暮れが迫るなか、車で走りながら写真を撮った。
あらためて、僕は浦尻が好きだったのだなと思う。浦尻は僕が通っていた小学校と学区が違う。だから疑う人もいるのだが、逆に言えば、顔見知りに会う確率が低いからこそ、ぼくは気楽に、自転車で走り回ることができたのだ。
もちろん、大晦日の夕暮れ時にわざわざ無人地帯を訪れる人などいない。波の音以外、何も聞こえなかった。
あの時の、底の深い寂寥感が蘇ってくる。
2016年4月。小高区帰還開始。
海は荒れていたが、釣りをしている人は何人もいた。
小説中に貝塚の話が出てくるが、実際、浦尻には貝塚がある。小学生時代、土器集めが一部で流行し、僕もよく畑に入り土器を探した。その畑が草ボウボウのジャングルと化していた。分け入ると頭まで草の海に埋もれてしまい、前が見えなくなる。方向感覚が狂ってしまい、僕は30分くらい迷いに迷った。たぶん、放射線量が高かっただろうな。
畑のへりに立つと海が見える。斜面を覆っているブルーシートは貝塚を保護するためのもの。白い壁に囲われているのは廃棄物の処理場。ここで瓦礫を分類し、フレコンバッグに入れて保管する。仕方がないのだろうが、美しかった水田地帯がこのように形を変えていくのを見るのは悲しい。
その後、処理場は津波被災地を覆うように拡大していった。
『百年の孤舟』販売についての訂正とお詫び
10年目の双葉町を歩く
震災10年目の双葉町を訪ねた。コロナ禍で旅行を控えていたので、ほぼ1年ぶりの再訪。もちろん変化はあった。双葉町の「復興」がどこを目指しているのかも徐々に見えてきた。駅の西側には復興拠点の住宅用地を整備している。マンション型の復興住宅か、一軒家としても無個性の画一的な住宅が並ぶのだろう。他の町がそうであるように。
駅前の景色に唖然とした。一年前、かろうじて残っていた商店や民家が見事に撤去されていた。記憶の喪失。この光景から僕は何も思い出すことができない。見た目はすっきりしただろう。でも僕にはこれも破壊の跡にしか見えない。無、空虚。がらんどうの廃墟。ここにアートが必要だろうか。ごまかしではないか? 作者には申し訳ないけど。
かつての商店街。どんどん家並みが消えていく。更地が増えていく。復興の過程として、これも仕方の無いことなのだろうか。
バス停の顔が白い。のっぺらぼうのウチワみたいな。ペンキで白塗りしたのではなく、単に色落ちしたのだ。「記憶喪失のバス停」と呼ぶことにした。ワタシハダレ? コココハドコ?
ある意味、商店街の象徴だった下写真の木造家屋(2020年3月撮影)も消えた。崩壊した家を放置するのは確かに問題があるだろう。けれど、あれだけは保存してほしかった。
一年前の洋品店の店内は現在も変わらなかった。フェイスブックに連載している写真俳句を採録。
吊るされて客なき店の春セーター
誰を待つ無人の店の春暗く
光善寺の山門。双葉地方には浄土真宗のお寺が多い。天明の飢饉のさい、激減した領内の人口を補填しようと相馬藩が積極的な移民政策をとり、浄土真宗信徒の多い北陸から人を呼び寄せたから。そんな歴史を刻んだ寺が、新たに苦難の歴史を刻んだ。
敲(たた)かれぬ山門となり桜咲く
僕の母校、双葉高校。双葉町に来れば必ずここに引き寄せられる。ここに僕の青春のすべてがあった。双高復活のダルマが両目を開くときは来るだろうか。
枯れ松よ なお生き抜くか母校の春
老いてなお学び舎に歌う恋の歌
草木萌ゆ校庭(にわ)を記憶がひた走る
昔、部活で走った海へ続く道。津波に流された水田地帯にいま、中間貯蔵施設が作られている。汚染廃棄物を貯蔵か処理をしているのだろう、銀色のドームがものものしい。こんなものが出現するなんて夢にも思わなかった。
海岸沿いに産業拠点が次々と建設されていく。雇用促進? それにしても、こんな「復興」を誰が望んだのだろう。誰がここを「故郷」と認めるだろう。
ふたばマリンハウスは廃墟になりながらも残った。どうかこれだけは保存して欲しい。
生きているただそれだけの空と海
去年は立入禁止で進めなかったが、今年は上写真の断崖まで歩いて行けた。引き潮の時なら、波打ち際から福島第一原発の建物が見えてくる。念のため断っておくと、違法な行為で撮影した写真ではない。とにかく見えてしまうのだ。
原発よ海青くして無罪なり
海沿いの神社。孤影あり野辺の社に春の夕
慰霊の地蔵を拝む。子供が犠牲になったのだろう。供物のイチゴが転がっていた。
死にたいと言う者あらばここで泣け
海岸から伝承館へ続く道に、いまも瓦礫が積み上がっている。早晩、これも始末するのだろう。多くの人がここで写真を撮っていた。歴史の証人として保存すべきではないかと僕は思う。
伝承館ではキャンドルナイトの準備が進められていた。
上写真は、産業交流センターの屋上から見た双葉町の中間貯蔵施設。下写真はおそらく、震災瓦礫を埋めるための穴。
日輪は燃えて故郷は春の闇
風が強く、キャンドルに火をつけて回る人(パチパチ隊)は苦労していた。お疲れ様です。苦労の甲斐あり、浮かび上がった光の文字は「キオクツナグミライ」。
春の夜に祈りの燭の数知れず
春花火あの世この世の境なく
花火が終わり、シャトルバスで双葉駅に戻る。無人の町に、街灯のほか光はない。
十年の時の重さよ砂時計
捨てがたき故郷なれど春遠く
捨てがたき故郷ならば人は住む
春を待ち春迎えては忘れ去る
どうか、そうならないように。